第8話:努力を無視し奪うだけ

 もし、元の世界に戻った瞬間。

 この世界で過ごした時間が、反映されていなかったら。

 つまりは階段から突き落とされたその瞬間に戻ることになるなら……。

 私は元の世界に戻った瞬間に階段から落ち、最悪、命を落とす可能性もある。

 もしそれをリオが狙っているのなら。

 そんなの……冗談じゃない!


 不二山理央は、元いた世界で、私のアイデアを盗み、恋人にもちょっかいを出していた。そしてこの異世界でリオと呼ばれた彼女は、聖女の地位、カルロス様を奪った。もう私から奪い去る物は何もないと思ったのに。


 まだあったということね。

 私の命。

 リオは……私を亡き者にするつもりなの……?

 するつもり……なんだ。

 だって元の世界では、既に階段から私を突き落としているのだから。


 どう言い繕うつもりだったかは、分からない。

 でも彼女は、殺意を示していた。

 そんなに私のことが。

 そこまでして……。

 もう恐怖しかなかった。

 あまりの恐怖で、体が少し動いた。

 それは……リオに気付かれてしまった。


 私の背中の方にいたリオが、魔法円を回り込み、私の視界に入ってきた。


「杏奈先輩、目覚めたのですかぁ~? 聖女になれず、カルロス様の愛を得ることが出来ず、お可愛そう! でも安心してくださいね♡ 後輩としてしっかり、カルロス様と二人で、この国は守りますからぁ」


 そう言うとリオは、楽しそうにクスクスと笑う。


「本当。無様ですねぇ。元の世界でも負け犬。この世界でも負け犬。……先輩はねぇ、私に勝てない!」


 甘ったるい声を出すのが、面倒になったのだろうか? 媚びたい男性がいるわけでもない。本来の地声が混ざり始めている。


 一方の私は。

 声を出したいが、この全身にかかる圧のようなもののせいで、出すことができない。


「でも、安心してくださ~い。これから元の世界に送り返してあげますからぁ。聞いたら、こちらの世界で過ごした時間は、元の世界には反映されないそうですよぉ」


 リオは楽しくてたまらないという様子で、ニヤニヤしている。


「愚かな負け犬! せっかく元の世界に戻っても! 階段から落ちちゃうのですから!」


 地声で吐き捨てるようにそう言うと、ケラケラとリオは笑っていた。


「元の世界に戻ったと同時に、天に召される。でも、いいですよねぇ? 元の世界で生きていても、お辛いでしょう? 杏奈先輩のアイデア、企画、考えは、ぜーんぶ私のお手柄になっていますっ! みーんな私が考えたものだと思っていますからネ。それに黒川先輩も~」


 甘ったるい声を出しているのに、ゴミを見るような冷たい眼差しで、リオは私を見下ろした。

 私も負けないよう、リオを見返す。


「なんですかぁ、その目! 相変わらずムカつくなぁ。有名国立大学卒で、正社員で、仕事もできて、男性社員からも黒髪の美姫(びき)なんて呼ばれて。しかも社内で人気のエース、黒川先輩の彼女……」


 やっぱり、健斗と私のことを……知っていたんだ。

 黒髪の美姫(びき)?そんな名前で呼ばれているなんて、私は知らなかった。


「もう、ふざけんな!ってかんじ。……一人でいいとこどりしてんじゃねぇーよ!」


 驚いた。

 こんなドスの効いた大声も出せるんだ。


「杏奈先輩からは、奪えるものが、沢山あったからぁ! ぜーんぶ私がもらうんです♡」


 もう甘い声とドスの効いた声の落差が激しくて、リオは二重人格なのでは?と思えてくる。

 私は眩暈を感じているが、リオはとびっきりの笑顔で告げる。


「せっかくこんな素敵な世界に召喚されたんだから、とっととカルロス様と寝ればよかったのに。もたもたしているから! つーまーり、先輩は恵まれているのにぃ、トロすぎるのですぅ!」


 二重人格全開のリオに、散々バカにされているのに。

 何も言えないなんて……。

 ただただ苦痛でしかない。


「聖女リオ様、準備が整いました」


 魔術師の声に、背筋が凍り付く。


「そう。じゃあ、とっとと始めて」


 魔術師達が、魔術を行使するための呪文を詠唱し始める。


 二十人近くいるので、その詠唱は迫力があり、恐怖で心臓がバクバクいいだした。


 魔法円は白っぽいエメラルドグリーンの輝きから、白っぽさが徐々に失われ、エメラルドグリーンの輝きがどんどん強くなっている。


 もう……ダメだ。

 元の世界に戻され、その瞬間に階段から落ち、私は……。


「何をやっているのですか!」


 この声は……ヴィンス隊長……!


「まあ、ヴィンス隊長! どうされましたぁ? 今、聖女になれなかったこの人を、元の世界にお戻ししようとしているところなのですよ~」


 私に死刑宣告をしているのに。

 リオの声はいつも通り甘ったるく、嬉々とさえしている。


「それは誰の命令ですか!?」


 ヴィンス隊長の声は……硬い。

 かなり警戒している。


「命令? そんなものないですよ? 強いて言うならぁ、私?」


 リオの言葉に、ヴィンス隊長が絶句しているのが伝わってくる。


「国王陛下の指示もなく、勝手な行動を……! 今すぐお止めください」


 衝撃を乗り越え、ヴィンス隊長が声を絞り出してくれている。

 だがリオは……。


「国王陛下、国王陛下って。あんなおじさん、だから何? この人が元の世界に帰れば、聖女は私しかいないの! 私を敵に回せないでしょう? 聖女は私だけなのだから」


 ついにここでリオの本音が出た。

 国王陛下のことをおじさん呼ばわり……。

 それに……話し方も、聖女とは思えない子供っぽさだ。


「私、教えてもらいました! 一人の魔術師は、一生の間に聖女の召喚は、一度しかできないって。王宮付きの魔術師も、神殿付きの魔術師も、みーんな聖女の召喚はしてしまったでしょ? この人が消えれば、もう私しかいないの。ってことは、私の言うことを聞くしかないわよね!」


 ああ、やっぱり。

 リオは……悪魔だ。この国を自分の思い通りにするつもりなのね。

 もはや女王や女帝にでも、なる気なのでは?


「あなたは、聖女などではない。国王陛下に対する侮辱、許すわけにはいきません。今すぐ、止めてください。ウッ……」


 え……。

 バリンという何かが砕ける音が聞こえ、ヴィンス隊長の唸り声、そして何かがゆっくり倒れる音。

 ま、まさか……。

 全身に震えが走る。


「正直、カルロス様より、ヴィンス隊長の方が好みのタイプだったのにぃ。私の邪魔をするなんて。でも国内にもイイ男は沢山いるわよね。どうせ聖女になったら、よりどりみどりだし、まっ、いいっかぁ~」


 呻き声が聞こえ、何かが倒れる音がしてから、ヴィンス隊長の声は聞こえない。リオは魔術師達に「早くやって頂戴!」と一度怒鳴った後は、沈黙している。身動きがとれない私の瞳からは、涙がとめどなく流れていた。


 魔術円のエメラルドグリーンの輝きは、いよいよ強くなり、もう周囲の景色を見ることもできない。

 詠唱される呪文も、どんどん強さを増しているように感じた。

 呼吸をするのが……辛い。

 今起きた出来事を考えると、胸が張り裂けそうになる。

 私を守ろうとしたヴィンス隊長までリオは……手に掛けたのだ。


 ヴィンス隊長は、戦士であり騎士。

 正々堂々戦う。

 でもリオは違う。

 リオは悪女だ、悪魔だ!

 不意打ちをして、ヴィンス隊長を……。


 リオは、私から奪えるものが沢山あると言った。

 でも私はリオが言うものを、何の努力もせずに手に入れたと思っているのだろうか?

 有名国立大学に入学するため、どれだけの時間を勉強に費やしたか。正社員として入社するために、どれだけ就職活動を頑張ったか。髪だって、きちんと毎日手入れをしている。


 健斗と付き合うまでには、三年かかった。社内公募の新規事業の企画書も、時間をかけ、リサーチし、深夜早朝で時間を捻出して練り上げたものだ。まさに血がにじむ思いで考えた企画で、アイデアだ。


 私の努力する姿を見ようともせず、一方的にリオから奪われるのは……もうごめんだ。

 

 リオに対する怒りが募る一方。

 ヴィンス隊長に対しては、心から申し訳なく思う。

 私を守ろうとしたために、彼は命を落とすことになってしまったのだから。


 ごめんなさい、ヴィンス隊長。

 でも、私もすぐ、おそばに行きます。

 今度は私があなたのことを守る……のは無理かもしれない。

 でもここではない世界で。

 彼のことを幸せにすることは……できるかしら?


 ほんの一瞬夢見た世界。

 隣国のどこかの一軒家。

 夕食を準備する私のそばに、笑顔のヴィンス隊長がいる。

 なぜだろう。

 ヴィンス隊長と健斗の顔が、重なって見える。


 最期まで私、気が多いわね。

 今頃、健斗はどうしているのか。

 二度と会えない健斗。

 私のために命を失ってしまったヴィンス隊長。


 どちらも忘れることは、できない。


 魔術円の輝きに目が開けていられなくなり、呪文の詠唱は、魔物の咆哮のように耳に響き――。


「きゃあああああああぁぁぁ……」

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