◆4日目 昼 ~Unyielding wishes~

ー21ー

 毒島医院の屋上には、たくさんのリネンが夏の日差しを受けて白くはためいていた。

 熱気を孕んだ真夏の風が、屋上に上がってきたミズキ、木蓮、そして2人を先導する灯の頬を撫でる。

 真っ白な波の向こうに、3人を待つ仄と閃の姿がちらりと見え隠れしていた。


『……つれてきた』

「ありがとう」

 無表情のままぽつりと告げる灯に、目元を腫らしたままの仄がにこりと微笑む。

 全く目が笑っていない仄と、無表情にポケットに手を突っ込んだまま黙りこくっている閃を交互に見やって、ミズキは穏やかに声を掛けた。

「話があるんだってね。……そんなに怖い顔しなくても大丈夫。ボクに聞かせてくれるかな。仄ちゃん、閃君」

「……話は簡単だよ。ミズキさん」

 仄はそう言いながら、ゆっくりとミズキの方に顔を向けた。

 紅玉の瞳がミズキを捉えた瞬間、ざわり、と肌が粟立つ。

 風に煽られていたリネンの波がぴたりと凍りつき、全身が地面に絡めとられる感覚に包まれる。

 

「ここで死んで。せんせぇのために、その命をちょうだい」

「今、ここでかい? 急な話だね。……でも、時間がないんだもんね」

「ミズキさんもわかってるよね。……もう、もう嫌なの、見てられないんだ。せんせぇがどんどん、どんどんいなくなって、せんせぇが独りぼっちになっていくの」

 表情を押し殺していた瞳が、深い悲しみに彩られる。

「ひどいこと言ってるのわかってる。そんなことせんせぇが望んでないのだって私はよくわかってるし、それでも、それでも……っ」

 言いながら、仄はミズキをきっと睨みつける。

「せんせぇは、私達にとって希望なんだよ……!」


 刺すような仄の視線を静かに受け止めながら、ミズキは頷く。

「うん。ヒバナは優しくて、かっこよくて、頼りになって、とってもいい子だから。キミの気持ちもわかるよ」

「じゃあ……っ」

「よく聞いて、仄ちゃん。ボクは、あの子をジャームになんかさせない。……いよいよとなったら、そのときはボクの命を使ってくれて構わない」

「いよいよっていつ? それは明日? 明後日? 病気の期限ギリギリ?? もし、もしもせんせぇに何かあったら、それでもう終わりなのに!?」

「……そうだね。でも、何もかも諦めてボクがいなくなっても、本当にあの子を助けることにならないんだ」

「それでも、それでも……っ」

 仄は駄々を捏ねるように何度も何度も首を振ると、ミズキをキッと睨みつける。

「もうやなんだよ! あんなせんせぇの姿、見てられないんだよ……っ」

「うん」

「同じでしょ? 今ここで私に殺されるのも、後であなたが死を選ぶのも、結局は変わらないじゃない! ……だったら、だったら私が悪者になって、せんせぇを生き残らせたいの……!」

「仄ちゃん、それは……それじゃあヒバナが悲しむ」

「せんせぇの中に私はもういないのに?」

「それは……」

 

『……ほのか、ひとつまちがってる』

 一瞬言いよどむミズキに変わって割り込んできた灯を、仄は睨みつける。

「……何が?」

『おなじじゃない。ほのかがわるものになるのと、そのひとがえらぶんじゃ、ぜんぜん、ちがう』

「うるさい……っうるさい! 灯に何がわかるのよ!! せんせぇの事知らないくせに、私達の問題に口を出さないで!!」

 

 言い放ちざまに仄は両手を高く掲げる。

 屋上の砂埃が不自然な形に舞い上がり彼女の両手に集まると、一対の大きな時計の針へと変貌した。

 薙ぎ払うように大きく手を振るうと、白と黒の巨大な針が対峙する3人へと降り注ぐ。

 

 怯えるかのようにミズキの服の裾をずっと握りしめ、身を縮こませていた木蓮がハッとしたようにミズキの前に飛び出し、彼女を守るように大盾を構えた。

 ズン……と木蓮の足場が僅かに沈む。

 ガシャン! とガラスが割れるような澄んだ音とともに純白の針は2人に届くことなく、不可視の壁に阻まれてガラスのように砕け散った。

 

 灯は迫る針を前に避けるそぶりも見せず、ただ俯いていた。

 漆黒の針はそのまま大腿を貫き、地面に身体を縫い止めたかと思うとサラサラと崩れ落ちる。

 がくり、と灯は片膝をついた。

 貫かれた傷から流れ出す血はしかし、徐々にその勢いを弱め、やがて止まる。

 “リザレクト” ――レネゲイドウイルスによってもたらされる異常なまでの治癒能力とその速度は、致命的な傷でもたちどころに塞いでしまうのだ。

 だが、止血してもなおその足は奇妙な引力で地面に縛り付けられたままだ。

 それに気づいているのかいないのか、灯は膝をついたまま微動だにしない。

 仄の傍らで閃がギリ、と唇を噛み締めた。

「……悪いな、灯。俺は、こっちにつく。言った通り、決めることなんかできない。でも、それでも……仄のことは大切だから、仄の手伝いをさせてくれ」

『……』

 

 動かない灯から目を逸らした仄は、ミズキの前に立ちふさがる木蓮へと顔を向ける。

「あなたも、あなたもせんせぇが大切なら、わかってくれますか」

 燃えるような紅い瞳に宿る、絶望と決意。

 まっすぐに向けられるその感情の強さと底知れなさに、背筋がぞくりと震える。

 

 ――次にヒバナに忘れられるのは、自分かもしれない。

 その恐怖は、今でもまだ木蓮の身を竦ませる。

 それでも、目の前の大切な人を傷つけさせることだけは、許すことは出来なかった。

「……ごめんな」

 改めて大盾を構えなおす木蓮の全身を砂が覆い、古めかしい西洋甲冑へと変化する。

「俺は……俺も、護りたいんだ。俺の大切な人達を」


「木蓮、いつもありがとう」

 自分を庇うように立ちはだかる木蓮の肩にそっと手を添えたミズキは、そのまま一歩前へ進む。

「仄ちゃん、聞いて。忘れられても、ヒバナと過ごした時間が消えるわけじゃない。それは、ボクの中にもキミの中にも残っていて、決して消えない。そうだろう?」

「それでも、それでもせんせぇを助けられるんだったら、私は悪役だって何だってやるよ」

「キミを悪者にはさせない。ボクは誰に何と言われても、最後のギリギリまで、あの子と、あの子が大切にしてる全部を守ってみせる。だから……!」

 ミズキの瞳が青白く光る。

 ゆっくりと、常につけていた手袋を外し、自らの前へとかざす。

 その手が徐々に輝きだした――ように見えた。

 正確には、ミズキの周囲の重力が歪み、光をあり得ない方向に屈曲させ、弾き、彼女の周囲が暗闇に包まれているのだ。

 ふわり、と大きな雫がミズキの周囲をいくつも漂う。

 水を模したかのような美しい球体――魔眼が、夏の日差しを弾いて銀色に煌めいた。

 

「……ねえ、ミズキさん」

 戦う意志を示して立ち塞がるミズキを悲しみを湛えた瞳で捉え、仄は静かに告げる。

「この世界に魔法なんて、奇跡なんてないんだよ。……時計の針はもう、戻らないんだ」

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