◆4日目 朝 ~Wail in sorrow~

ー19ー

 ふわり、ふわり。

 ぽかぽか、ふわふわ。

 ひだまりの中、優しく、暖かな手に撫でられている感触。

 じんわりと、心の中にもあったかい気持ちが広がっていく。

 幸せの温もりを抱きしめるように、そっと腕に力を込めた。


 だけど、腕の中にはなにもない。

 それに気づいた瞬間、さっきまでの温かさが一瞬で掻き消えた。

 あわてて周りを見渡す。


 視界の端に、ひだまりの色が掠めた。

「待って……!」

 必死にそちらへと手を伸ばす。

 声が届いたのか、その人はゆっくりと振り返る。

 一瞬驚いたように見開かれた瞳が、すぐに優しげに細められた。

 ああ、私はよく知ってる。変わってない。

 安堵の吐息が漏れた。


「はじめまして」


「…………っ」

 見慣れない灰色が、見開いた視界いっぱいに映った。

 どくどくと耳の奥で早鐘が鳴り響いている。

 喘ぐように息を吸えば、悲鳴の残滓が喉の奥にこびりついていた。

 つぅ、と冷たい嫌な汗が首の後ろをつたう。

(ここ、は……)

 ガンガン、ヒューヒューと騒がしい頭で、必死に記憶を辿った。

 ――そうだ。昨日はずっとせんせぇと一緒にいて、そして。

 そこまで思い出して、唇を強く噛み締める。

(一瞬でも目を離しちゃいけなかったのに……っ)

 自分の体質が、ひたすらに恨めしい。

(早く、せんせぇのとこに行かなくちゃ)

 あわててベッドから降りようとした身体がぎくりと凍りついた。


 ――「はじめまして」


 さっきの声が、耳の奥でこだましている。

 震え出す身体を押さえつけるよう、ぎゅっとシーツを握りしめた。


 コンコン。


 遠慮がちなノックの音が響いた。

「仄? 大丈夫か……?」

 気遣わしげな閃の声が聞こえる。

「……っ、だ、大丈夫! どうして?」

「あ、いや……その、悲鳴が、聞こえた気がしたから」

「な、なんか嫌な夢見てたみたい! ごめん、起こしちゃった?」

「俺は起きてたから。……大丈夫なら、いいんだ」

「待っててね、すぐ準備するから! はやくせんせぇのとこに行かなくちゃ!」

「……ああ、わかった」


 そう、あれは悪い夢だ。

 ただの、夢でしかない。


 そう何度も言い聞かせながら、悪夢ごと洗い流すように冷たい水を顔に押し当てた。


 * * *


 なにかに急かされているように、いつもより早足で病室に向かう仄の背中を灯と閃は黙って追いかける。

 病室の一歩手前という所で、灯は耐えかねたように声を掛けた。

『ねえ、ほのか』

「なに?」

『ほのかは、こわくないの……?』

 その質問に、びしりと彼女の背中が強張る。

「なんのこと……?」

『だって……せんせい、わすれてるかもしれない』


 ――「はじめまして」


 なにかを振り払うように何度も首を振る仄の背中を、2人はじっと見つめる。

「それ、は……それは……っ」

 震えるような声で、仄は何度か呟いた。

「そんなの、わからないじゃん。私のこと忘れてるかどうかなんて、まだわかんないじゃん……っ」

『……うん』


 仄は大きく息を吸いこむと、まるで自分を励ますように気持ち大きい声を上げた。

「ほらふたりとも早く! せんせぇ待ってるよ」

 そう言うと、再び病室へと駆け出していく。

 灯は、隣の閃を気遣うように目線を向けた。

 それに気づいた閃は、ぎこちない笑みを返す。

「俺はもう大丈夫だから。それより仄を、頼むよ」

『……うん。わかった』


 ヒバナの病室の前で一度大きく深呼吸をすると、仄は扉をノックした。

「はぁ~い」

 少し間延びした声と重なるように、がらりと扉を開ける。

「失礼します。せんせぇ、おはよう!」

 明るい挨拶と共に、仄は勢いよく部屋に飛び込んだ。


 ベッドの上で伸びをしていたヒバナが、きょとんとした顔をこちらに向けている。

「えっと、おはよう……ございます? ……あの、部屋、間違えてない?」

 

「せん、せぇ……?」

 か細い声でそう呟く仄の手を、追いついた灯が握りしめた。

 部屋に飛び込んだまま立ちすくむ仄の後ろから駆けてきた灯と閃の顔を見て、ヒバナは再度首を傾げた。

「あれ、君達は確か……昨日の朝ちょっと会ったよね? そっちの女の子は友達かな? もしかして知り合いが入院してるの? 毎日面会に来るなんて、きっと大切な人なんだね」

 感心したように1人頷くと、ヒバナはにっこりと3人に笑いかけた。

「こんな所で会ったのもなにかの縁だし、自己紹介しよっか! 宵街ヒバナって言います。君達見たところチルドレンかな? 私も実はチルドレンの教官してるから、もしかしたらどっかで会ってるかもしれないね? ……あ、そのぬいぐるみ好きなんだ! 可愛いよね~。私も好きだよ」

 

 屈託ない表情で浴びせられる言葉から少しでも仄を遠ざけるよう、思わず灯は仄の腕を力任せに引っ張った。

 ふらり、とよろけた仄はその勢いのまま踵を返す。

「ごめん……ごめん。ごめん……っ」

 微かにそう呟くと、部屋から飛び出していった。

「こら、いきなり腕を引っ張るなんて危ないでしょ! ……って、あれ? ちょっと??」

 部屋から飛び出していく仄と、無言で追いかけていく灯を見てヒバナは目を丸くする。

 慌てて呼び止めようとするヒバナに、閃が頭を下げた。

「すいません、あの子ちょっと調子悪かったみたいで、ごめんなさい。俺も追いかけてきます」

「そう……? ごめんね」

「はい、失礼します」

 返す返事もそこそこに、閃も急いで踵を返した。

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