ー8ー
毒島医院の院長室は、最上階の奥まった場所にあった。
扉を開けると、そこかしこに資料や分厚い書籍の類が山のように積み重なり、それほど広くない室内は足の踏み場がほとんどなくなっている。
紙束の山の中、がりがりと飴玉をかみ砕きながら難しい顔をして文献を読み込んでいたらしい毒島が顔を上げ、入り口で固まっている2人を手招きした。
「悪ぃな、散らかってて」
そう言いながら毒島はソファの上に積んであった紙束を除け、2人が座れるだけのスペースを作る。
「なんか飲むか? コーヒーか水ぐらいしかねぇけど」
「いえ、お構いなく。大丈夫です」
「じゃコーヒーな。まあ楽にしてろ。ああ、机の上の菓子は勝手に食って構わんぞ」
そう言われて目の前の机に視線を落とすと、雑誌の山の陰に飴やらチョコレートやらが山盛りに詰め込まれた缶が目に入る。
「先生、甘党なんですね」
「いや? 効率的に糖分が摂取できるから常備してるだけだ」
そう言いながらコーヒーの入ったマグカップを2人の前に置くと、毒島は向かい側のソファに腰かけた。
「で、聞きたいことってなんだ? ……まあ、聞きたい事だらけだろうがな」
スティックシュガーを3本まとめてマグカップに放り込みながら、毒島は話を促した。
改めて聞きたい事、と問われてミズキは言葉に詰まる。
聞きたい事だらけなのは事実だ。ありすぎて、何から聞けばいいのか纏まらない。
――なぜヒバナがそんな恐ろしい病気に罹ってしまったのか。
――治す方法はあるのか。
――自分には、何ができるのか。
ミズキは目を閉じて一度深く息を吸い、意識して心を静めると話を切り出した。
「まずは、病気のこと――SSDMIについて、もっと詳しく教えていただけませんか」
「……ああ、わかった。」
手元の文献をぱらぱらと捲りながら、毒島は話し始めた。
「SSDMIはな、ごく限られたオーヴァード……ソラリスシンドロームを持つ、その中のごく一部の者だけに発症するって言われてる」
「ソラリス? なぜ……」
ソラリスシンドローム――様々な薬品を生成する能力に長けたシンドロームだ。
文字通り治癒薬や毒薬といった薬品生成、フェロモンの分泌による他者への精神干渉、そして体内のホルモンバランスなどを調整して肉体の強化などを行うことも可能だ。
確かにヒバナも、そういった能力は使用していたが。
「お前らも知ってると思うが、宵街は他者の記憶に干渉することが出来る “
「“
相手の記憶に干渉し、喪った絆を蘇らせる力。
ミズキも木蓮も、ヒバナがその力を使い、人々の傷ついた心を癒していく姿は何度も見ていた。
ヒバナ自身がその能力を誇りに思っていたのも知っている。
「根本的なことから説明していくな。その方がわかりやすいだろうから」
コーヒーで唇を湿らせると、毒島は話し始める。
「これは、俺の解釈も入ってる。なるべくわかりやすく、細かい部分は端折って話すからな。そのつもりで聞いてくれ」
頷く2人を見て、話を続ける。
「レネゲイドウイルスってのは、感染すると遺伝子レベルで宿主の構造を変質させる。その変質に耐えられなかった大多数は “ジャーム” という化け物になり、ごく一部の個体が “オーヴァード” として様々な能力を持って覚醒する。オーヴァードとして覚醒した後は、レネゲイドウイルスは共生状態に入り、宿主を攻撃したり、逆に宿主がウイルスを排除するような反応は見られない。……これが通常の、いわば今の俺たちの状態だ」
言いながら、毒島は自身と、目の前に座る2人を順に指さす。
「ところがSSDMIを発症すると、本来なら無害な筈のレネゲイドが宿主自身を害していく。特に影響を受けるのが脳の記憶領域だ。海馬などが障害を受け、発症者は約24時間毎に “自分にとって重要な記憶” を失っていく。……個人差はあるものの平均して7日目を迎えると、顕在記憶――つまり過去の経験や思い出、大切な人の記憶、等を全て忘却する」
「……」
「また、記憶の喪失に伴い、宿主の侵蝕率は上昇していく。レネゲイドウイルスが活性化して宿主を攻撃するためだろう。……結果、発症者はすべての記憶を失うと共に侵蝕率は100%以上となり、ジャーム化することが確認されている」
ジャーム化――人としての理性を喪い、化け物へと成り果てる。
それは言わば、オーヴァードとして、人としての死を意味しているといっても過言ではない。
「発症者に過度なストレスを与えると、病状が急激に進行した例も報告されている。……だからあまり、極端な負荷はかけないでやってくれ」
険しい表情のまま、淡々と話す毒島の言葉を聞きながら、ミズキの心の中では同じ言葉がぐるぐると渦を巻いて荒れ狂っていた。
――どうして。
――どうして、あの子なんだ。
――どうして、あの子がこんな目に。
「……どうして……」
「発症の原因は、はっきりとはわかってねぇ。能力の酷使や、急激な侵蝕率の増減などが一因として挙げられてるが。……そもそも “記憶探索者” の能力自体が使用者にかなりの負荷をかける。恐らく、そのあたりも関係してるんだろう」
たまらず、両手で顔を覆う。
隣に座る木蓮が心配そうに、ミズキの腕に触れた。
「ミズキ……」
「……ごめん、木蓮。大丈夫」
顔を上げると、無理をして笑みを作る。
「……発症者に対しては、どんな治療が試みられているんですか」
「UGNでは、現状通常のジャームと同様凍結保存が行われている。……完全にジャーム化する前に凍結保存をすれば、宿主とともにウイルス自体の活性化も抑えられるからな。進行を抑えること自体は可能なんだが……」
「じゃあ、ヒバナも……?」
「……いや、この方法は宵街には使えねぇ」
重々しく、毒島は首を横に振った。
「え、どうして……?」
「これは、あいつ自身の体質・能力に関係してくるんだがな。宵街の能力は、血液に強く発現してるんだ。血液自体を操る “ブラム=ストーカー” 、それと熱を操る “サラマンダー” 、そして “ソラリス” ――あいつの能力は、すべて血液を介して発現する。言ってしまえば、あいつの血液自体が熱を帯びてるようなもんだ。あいつの体温が通常よりかなり高いのは、一緒にいたお前らならよく知ってるだろう。……だから、凍結保存に必要な温度まで体温を下げることができねぇんだ」
「そんな……」
ヒバナは、他人を助けるために自身の力を使うことを
人の身体も、心も癒すことのできる自分の能力を誇りに思っていた。
「たとえ大っぴらに自分のしたことを話せなくってもさ、関係ないよ。私はUGNでみんなの為にこの力を使える事が、ただ本当に誇らしいの。だって、私にも誰かのためにできることがあるって実感できるんだもん。……この力があるから、私はミズキや木蓮を、大切な人達を救うことができる。それが、ほんっとうに嬉しいんだ」
キラキラと輝く眩しい笑顔で、ヒバナはいつもそう言っていた。
ミズキは、手袋を嵌めた自身の手を握り締める。
厚い革越しでも、ヒバナの熱だけはいつもじんわりとミズキの手に伝わってきた。
みんなを明るく照らして、温かく包んでくれる太陽のような存在。
それなのに。
(こんなの、あまりにも惨いじゃないか)
押し黙っていた木蓮が、少し焦ったように口を開く。
「あの、仄って子の力は? 確か、時間を調整することができるとか言ってたけど……」
それには、毒島は緩く首を横に振る。
「あいつの力は、乗り物や空間を作り出りだして、その中の時間を調整することができる……って感じだな。空間内の時間を調整するといっても、僅かに時の流れを遅くすることができるぐらいだ。それに、あいつの能力でも異常に活性化してる宵街のレネゲイドは恐らく抑えきれねぇ」
「じゃ、じゃあもう一人の子……閃って子だっけ? あの子はどうなの? なんか妙なこと言ってたけど」
その問いには、毒島は眉間の皴を深くするばかりだった。
「プライバシーの問題もあるし、悪ぃがあんまり他人の能力をペラペラしゃべるわけにもいかねぇんだ。……ただあの3人は、全員実験体として生きてきた過去がある。だから、あまりずかずかと入り込まないでやってくれ。少なくとも、閃の能力じゃ今の状況を改善することはできねぇだろう、ってのは言っておく」
「そう……わかった」
しゅんとする木蓮の髪を、宥めるように優しくミズキが撫でる。
「そうだ、先生。これも見てもらえませんか? うちの支部長から預かったんですけど、ボクじゃ内容を把握しきれなくて」
そう言いながら、先ほど木蓮から預かった資料の束を毒島に差し出す。
「何だこりゃ。ずいぶん片っ端から情報を引っ張り出してきたみてぇだな。ぐちゃぐちゃじゃねぇか」
資料に目を通しながら毒島は思わず苦笑する。
おそらく彼自身、多忙な中でも部下のために何かをせずにはいられなかったのだろう、とは容易に想像がついた。
「ん? こいつは……」
パラパラと資料をめくっていた毒島の手が止まる。
食い入るように読み込んでいたかと思うと、おもむろに立ち上がりデスクにある端末に走っていくと、何やらキーボードを叩き始めた。
「ど、どうしたんですか、先生?」
「症例報告だ。…… “SSDMIを完治させた” っていう」
「えっ……?」
「くそっ、閲覧制限がかかってやがる。こりゃ申請して論文を読み込むのに1日は掛かりそうだな。……悪ぃが明日、もう一度昼頃に来てくれ。それまでに内容は把握しておくから」
努めて冷静に、それでも興奮を抑えられない様子で毒島は2人にそう告げた。
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