ー6ー

 明るい声が遠ざかっていき、室内はしんと静まりかえる。

 主がいなくなったその部屋で、毒島はその辺にあるパイプ椅子を引っ張り出すとドカッと乱暴に座り、耐えかねたように大きな溜息と舌打ちを零した。

「はぁ……。……チッ」

 ヒバナの前では決して見せなかった毒島のイラついたような態度に、先ほど湧き上がった不安が募っていく。

 

「先生」

 少し強張った表情でミズキは声をかける。

「……悪ぃ。医者としちゃ駄目なのは百も承知なんだが。……いつまで経っても慣れねえなぁ、こういうのは」

 先程とは打って変わって気落ちした声で毒島は呟く。

「だけど、お前らには伝えなきゃいけねぇ。……あいつの、宵街の病気の話だ」

 もう一度大きく溜息を吐くと、毒島は真剣な表情でこの場に残った面々の顔を見つめた。

「病気って、どういうことです? ……ヒバナは、もうなんともないんでしょう? あんなに元気にご飯だって食べて、だから……」


「『薬霧やくむ異能いのう起因型きいんがた七段ななだん解離性かいりせい健忘けんぼう記憶障害きおくしょうがい:Solarisgenic Seven-stage Dissociative Memory Impairment・通称 “SSDMI” 』――それが、あいつの病名だ」

 縋るようなミズキの問いを遮るように、毒島は短く、だがはっきりと断言した。

「ヤクムイノウ……? 何ですか、それは」

 聞き馴染みのない言葉に、一同は困惑の表情を浮かべる。

 木蓮だけがはっとしたように、先ほど支部長から渡された資料を取り出しミズキに差し出した。

 資料に記された漢字を見て少しだけ意味合いを察することはできたが、“健忘” “記憶障害” という単語に、ますます不吉な予感が膨らんでいく。

 

「それは、どういう病気、なんですか。……治るんですよね? ヒバナは」

 ミズキのその問いに対して、毒島は少し溜息をついた後、ゆっくりと口を開く。

「……名前の通りさ。患者は少しずつ大切な記憶を失っていき、最終的には全ての記憶を失くしてジャームに成り果てる。……治し方、なぁ」

 もう一度大きく息を吐いて、毒島は言葉を続ける。

「症例自体が少ねえし、その中でも治療に成功した症例が果たしてあるのか、それは今から調べなきゃなんねぇ。……だが、そう簡単なものじゃないと思うぜ」

 

 毒島の説明を聞きながら、木連の手の甲の上に乗せられたミズキの手がギュッと、心持ち強く握られる。

 その手は、ひどく強張っていた。

「それで、だ。この病気はその名の通り、何段階かにわたって進行する。端的に言やぁ、1週間で記憶が全部消え去るっていう話だ」

「……1週間、で……?」

 告げられた、あまりもの絶望的な状況にその場にいる全員が絶句した。

「……原因は、原因は何なんです?」

「原因は、レネゲイドの異常。……詳しいところは調べていかなきゃ、まだわからねぇな」

「そう……ですか」

 必死に情報を引き出そうとミズキは質問を重ねていたが、頭は真っ白で、思考は全く追いついていなかった。


 このままだと、1週間でヒバナはすべての記憶を失い、ジャームと化してしまう。

 今まで積み重ねてきた思い出も、未来の約束もすべてが消え去り、そして、彼女自身が居なくなる。

 毒島の説明を反芻し、咀嚼し、現実を理解するにつれ、ミズキはすうっと自分の身体が冷えていくのを感じた。

 目の前が真っ暗になり、ガタガタと身体が震えだす。

 寒いわけでもないのに、奥歯がガチガチと鳴るのを止めることができない。

 思わず手に力が入り、同じように強張った手の甲の感触が手袋越しに伝わってきて、ミズキははっとしたように木蓮の、そしてチルドレンたちの顔を見回した。


 木蓮はまだ、自我が芽生えてから数年しか経っていない。

 ミズキとヒバナに今までずっと護られてきて、誰かが死ぬ、いなくなるといったような状況に遭遇したことはなかった。

 だから毒島の説明も、なんとなくしか理解はできなかった。

 ただ漠然と、ヒバナが自分たちの傍からいなくなるかもしれないという恐怖に襲われ、荒れ狂う感情の嵐をやり過ごすようにギュッと小さく縮こまっていた。

 ミズキに痛いほど強く握りしめられた手の感触にも、全く反応しない。

 ミズキはそんな木蓮の様子に気づくと、握りしめていた手を解き、自らの体温を伝える様にそっと肩を優しく抱いて引き寄せた。

 木蓮は黙って、上半身の体重をミズキに預ける。


 仄はいつも大事に抱きしめている人形をぽとりと落とす。

「そ、そんな……せんせぇが……?」

 青ざめた表情で、茫然としたように呟く。

 閃は、ひどく苦し気な表情を浮かべていた。

「そっか……」

 どことなく現状を予想していたのか、予感みたいなものを感じていたのか。

 絶望と諦念に満ちた溜息を漏らす。

 2人ともギュッと震える手で灯の手を、まるで縋るように握りしめていた。

 灯はただ、2人の手を握り返すことしかできない。

 ヒバナが居なくなることそのものよりも、大切な人を喪ってしまう、という事実を突きつけられた2人の心が、ただただ心配だった。


「この事を、あいつには……宵街には、まだ話してねぇ。伝えるかどうかは、お前ら次第だ」

 毒島はそう告げると、ミズキと木蓮をじっと見つめた。

「なあ、朝宮。それに木蓮。あいつをどうするのか。あいつに何を伝えて、どういう決断を下すのか、お前たちに委ねてもいいか」

「……考える時間を、ください。ボクたちもまだ、自分の気持ちを整理できてないと思うから……」

 凍り付いた思考の中、やっとのことでミズキはそれだけを返す。

「……ああ、そうだな」

「みんなで、決めたいと思います」

「ああ、分かった。それは勿論、そうすべきだ」

 

 自分が話している筈なのに、まるでカーテンの向こう側にいるもう1人の自分が喋ってるような、ひどく現実味の薄い感覚。

 霧の中に沈み、奇妙な浮遊感の中で藻掻きながら、ミズキは必死に理性を働かせて言葉を紡いだ。

「これから、病気のことを調べるって言ってましたよね。ボクにできることがあれば、何でも言ってください」

「ああ、恩に着る。……悪ぃな、不甲斐ない医師で」

 毒島の言葉に、ミズキは強くかぶりを振る。

「……そんなことないです。ヒバナのこと、よろしくお願いします」

 そう言って、深々と頭を下げた。

 毒島は頷き、木蓮やチルドレン達をもう一度見つめる。

「お前らも良かったら手伝ってやってくれ。何か方法が見つかるかもしれない」

 木蓮はただ、ミズキに体を預けたまま「ん……」と小さく、曖昧な返答を返すだけだった。

 灯は仄と閃の手をもう一度ぎゅっと握り、毒島に頷いて見せる。

 各々の返答を見届けると、毒島は「宵街の検査の様子を見てくる」と病室を後にした。

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