それは現実として

 それは、ハイスクールの卒業が間近に迫った5月の下旬。


 当時、アメフト部で幅を効かせていたサムに誘われて参加したバーベキューでの事だった。

 その席に、とっくの昔に別れて疎遠になっていた彼女も居たのだ。



 その日は生憎の曇り空で、空は鉛のような色をしていた。


 そんな空の下でも大勢の若者達が賑やかに騒ぎながら肉を頬張る、実に愉快な催し物で。


 そんな中でもジェームズは日頃の陰気な質はどうする事も出来ず、所謂壁の花と化していた。


 何時ものように無口を決め込み、一人空を見上げながら焦げた肉を味わっていると、ふと彼の隣に一人の少女がやって来たのだ。


 リサ・カークランド。


 彼女は少し恥ずかしそうに俯きながらも、ジェームズの隣に立つと彼に話しかけてきた。


「……隣、良いかしら。

 ジェームズ?」


 その言葉に、ジェームズは「あぁ……」とだけ答える。それを受けた彼女は嬉しそうに微笑むと彼の隣に腰を下ろした。


 それから暫くの間、二人は無言で焼けた肉を食べ続けた。そして一通り腹が満たされた頃になって、やっと彼女が口を開く。


「……ねぇ」と彼女は呟くように言う。しかし、言葉を詰まらせてまた俯く。


 中々次の言葉が出てこないらしい。

 ウィルソンもそれに対して気の利いた台詞を吐けるわけもなく。

 

その為か次第に奇妙な沈黙が二人を包む。

 やがて沈黙に耐えかねたのか、彼女は小さな声でこう言ったのだ。


「ハハッ……見て、サム達あんな事をして……まるで馬鹿みたい」


 その言葉に釣られるように彼も彼方を見ると、サムと数人の仲間達が未だ冷たい湖の水に飛び込んで遊んでいるのが見えた。


 その光景を見てジェームズはククッと笑う。

 そして隣にいるリサを見ると、彼女もまた笑っていた。


 そんな他愛もない出来事にさえも笑い合える自分達が不思議で仕方なかった事を彼は今でも憶えていた。


「……あぁ、でも俺は羨ましいよ。

 あんな真似をして、大笑いできるなんて」


 それは、ジェームズの本心から来る言葉。

 真面目一辺倒で、何故か絡んでくるサムがいなければ酷く寂しいハイスクール生活を送ったであろう彼は、本気でサム達が羨ましかったのだ。


 するとリサは少し意外そうな顔をしてから、クスリと笑った。

 そしてジェームズに向き直ると、少し悪戯っぽく言うのだ。それはまるで、秘密を共有するかのような口調で。


「何だったら一緒に、馬鹿みたいな事、してみる?」


 そう言って彼女が取り出した一箱の煙草。

 それを見て彼は一瞬躊躇した。が、直ぐに頷き返すと彼女の手からその一本を受け取り口に咥える。


 そしてライターで火を灯すと、ゆっくりと煙を吸い込み吐き出した。


 初めてのの煙草の味は苦く、頭がクラクラとしたが、それでも何故か彼は満たされたような気分だった。


 それから暫くの間、二人は黙って煙草を吹かし続けていたが、やがてどちらからともなく笑い出した。


 それはまるで悪戯好きな子供同士がお互いの秘密を告白した時のような無邪気なものだった。


 それは、彼が生まれて初めて覚えた不真面目。彼が故郷を離れる前の、些細な出来事。


****


 ーーウィルソンは今朝もまた、儀式めいた朝のルーティーンをこなす。


 オフィスに置かれたコーヒーマシンからカップにコーヒーを注ぎ、それを啜りながらデスクに置かれたパソコンの電源をいれる。


 ただ一つ、いつもと違うのはそのスーツの袂に一箱の煙草が添えられている事だろうか。


 彼はそれを手に取ると、口に咥えて火をつける。そして溜息と共に紫煙を吐き出す。


 と、同時にオフィスの扉が勢い良く開く。

 入ってきたのはジェームズの同僚のクリスティーナ。


 自他ともに規律に煩いと認める彼女は、ジェームズの顔を見るなり、


「おはようウィルソン。いきなりで悪いけれど、我が社は五年前から全社禁煙よ」


 と、やや非難がましく言って来る。


 それを聞いてジェームズは慌ててタバコをコーヒーカップの縁で揉み消す。


「すまない。普段吸わないからすっかり失念していたよ」


 ジェームズの謝罪に彼女は……まぁ良いわ、と溜息をつく。


「……でも、珍しいわね。真面目な貴方が煙草だなんて。

 ……何か嫌な事でもあった?」


 その問いに対して彼は少しだけ考えると「……いや、別に何も無かったよ」と、答える。


 まさか、朝一番から、


『実は昔の恋人が何者かに撃ち殺されたんだ、ハハハ』


 ……なんて言う訳にもいかないだろう。


「偶には、昔を懐かしみたかっただけなんだ」


 と、言い訳がましく言うジェームズにクリスティーナは、何かを悟ったような口振りで答えるのだった。


「……もしかして、失恋でもした?」


 その彼女の言葉に思わずジェームズは口に含んだコーヒーを吹き出しそうになる。


 そして咳込みながらも「そんなんじゃない」とだけ答えジェームズのその反応を見て、クリスティーナは更に何某かの確信を持ったらしい。


「日頃から堅物で通っている貴方がねぇ……。で、一体どんな子?」


 と、興味津々といった体で聞いてくる。


「勘弁してくれ……」


 そう苦笑いしながら言うもののジェームズは、はたと思う。


 彼はクリスティーナが言うような恋をしていた訳ではないし、ましてや失恋した訳でもない。

 いや、失恋したとしてもそれはもう一昔前の事、今更どうにもならないのだ。


 ーーなのに何故、今、自分の心はこんなにも消沈しているのだろうか。


(……そう。今更どうにもならない)


 それをクリスティーナに説明する気にもなれずジェームズはじっと黙り込む。だが、そんな様子を見て何かを悟ったのか彼女はそれ以上は何も聞かずに仕事に取り掛かる。


 そんなクリスティーナの背中を見てジェームズは小さく溜息をついた。


(まったく、女性の勘というやつは恐ろしい) 


 そう思いながらも彼は、再びパソコンの画面に目を向け、キーボードを叩き始めたのだ。


 その内に、郷愁と過去への未練を燻らせたままに。


 ****


 恙無く仕事を終え、普段ならばそのまま帰宅する所だが、今日のジェームズは違った。

 ジェームズはいつもとは違う道順で家路につく事を決めたのだ。


 オフィスの入ったビルを徒歩で出て、喧騒渦巻く街路で空のタクシーを捕まえる。


「お客さん。何処まで」


「ロウアー・イーストサイドの……『グラナダ』まで頼む」


 その台詞を聞くなりタクシーは乱暴に走り出す。車窓から見えるニューヨークの街並みをぼんやりと眺めながらジェームズは思う。


 何故自分はこんな行動に出たのだろうかと。誰に頼まれた訳でもないのに。


(……まったく馬鹿馬鹿しい)


 彼は懐から煙草を取り出し、口に咥える。ライターで火をつけると煙を肺一杯に吸い込む。


 昨夜は苦く煙たいだけだった物が、今はそこはかとなく芳醇な香りに感じられるのは何故だろうか。

 車内に流れるラジオからはジャズが流れ出し、ジェームズはそれに耳を傾けながらそんな物思いに耽けるのだった。


 ……果たしてそれは、もはやこの世に存在しない彼女への弔いなのか。

 それとも、ただ自分自身に飽き・・がきただけなのか。


 そんな自問をいくら繰り返した所で答えは出ない。

 そして答えが出ない事など、彼はとうの昔に分かっていた筈だった。


(……あぁ、そうだ)


 俺はただ一杯やりに行くだけさ。

 そう、誰にとも無く言い訳をするように、心の中でそう呟きながら彼は深く煙を吐き出すのだった。


****


 ーー歩いた方が早いくらいの渋滞を見せる市庁舎前の交差点を抜け、雑多で多国籍的なチャイナタウンを通り過ぎると、やがてタクシーは目的地へと辿り着く。


 料金を払いタクシーを降りるとそこはもうロウアー・イーストサイドの一角だ。


 近頃は物好きな金持ちの手によってすっかり観光地化してしまったが、それでも路地裏に入れば昔ながらのダウンタウンの雰囲気が色濃く残っている。


 ジェームズはそんな街並みを眺めながらゆっくりと歩く。


 そして目的の店入る建物の前へと辿り着くと、ゆっくりとそこから地下に伸びる階段を降りる。


 ズンッズンッという重低音の効いたクラブミュージックが漏れ聞こえる廊下の奥に立つバウンサーに軽く挨拶をして更に奥へと進むと、そこは薄暗く狭い店内に大勢の人々がひしめくダンスホールとなっていた。


 まるで異界の門の如き重厚な扉を開ければ、そこには二日酔いのときに見る悪い夢の様な、酷く退廃的で非現実的な世界が広がっていた。


 ある者は身体を揺らしながら音楽に合わせステップを踏み、またある者は泥酔し前後不覚に陥っている。


 そんな狂乱の空間の入口に一人佇むジェームズ。


 周囲には楽しげな会話と笑い声が飛び交いつつも、誰も彼の事など見向きもしない。

 それは、まるで透明人間になったかのような錯覚さえ覚える程だ。

 だが彼はそんな周囲の様子など気にする素振りも見せずに真っ直ぐにバーカウンターへと進む。


 バーテンの男はチラリと視線を向けてきたものの、それ以上は何も言う事は無く黙々とグラスを拭いている。


「なぁ、少し訪ねたい事があるんだが……」


 ジェームズのその言葉にバーテンは、ようやくグラスを拭く手を止めた。


「何か」と無愛想な口調で答えるバーテンにジェームズは少し気圧されながらも口を開く。


「リサという女性の事を覚えていないか。

 リサ・カークランドという女性だ。

 以前ここで働いていた筈だ」


 するとバーテンは少し考え込むような仕草をしてから言った。


「お客さん、ここは酒を飲んで気持ち良く踊る所だ。興信所の真似事なら他所でやってくれ」


 そう言ってまたグラス拭きに戻るバーテンにジェームズは小さく舌打ちし、ポケットから取り出した何枚かの10ドル紙幣をバーテンに押し付ける。


 バーテンはそれに視線を落とすと、

「ビールで良いかい? お客さん」

 とだけ言ってグラスを置きビールを注ぎ始める。


「それで、何だって」


 バーテンの問いかけにジェームズは微かに苛立ちを覚えつつも答える。


「リサ・カークランドという女性について何か知らないか? 何でもいいから手掛かりが欲しいんだ」と。


 するとバーテンは少し考えるような仕草を見せるが直ぐに首を横に振った。

 そして彼は言ったのだ。


「悪いが俺はこの店に来てまだ半年も経っちゃいねぇ。その間リサなんて女は聞いたこともねぇな」

 と。


 その言葉にジェームズは小さく溜息をつくしかない。

 無駄足だったか、そう思いながら踵を返しかけたその時だった。


 それはまるで独り言のように小さな声だったが、

 確かにバーテンはポツリとこう呟いたのだ。


「いや、あの時ボスと話していた女が確かリサとか呼ばれてた気がするな」と。

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