逡巡とかつての記憶

 それからしばらく、ジェームズは仕事に没頭した。だが、ふとした瞬間にリサの事を思い出してしまう。 

 その度に彼は頭を振り、雑念を払うかのように仕事に戻るのだが、どうしても上手くいかない。


 彼はコーヒーを飲みながら、チラリと時計を見る。時刻は既に正午を回っていた。

 一時からミーティングがある。


「その前にランチでも行くか……」


 そう考え、ジェームズはオフィスを出たのだった。


****


 ジェームズはオフィスビルの屋上に出た。ニューヨークの喧騒から少し離れたこの場所、彼が一人になるための場所に時たま訪れる場所であった。


 スマホを取り出し、サムにメッセージを送る。


「リサの件、詳しく聞かせてくれ」ーーと。


 別段、彼女の死に興味があった訳ではないのだ。ただ、ささやかな彼女との記憶を整理する為の儀式のようなもの。


 それから数分もすると、サムから返信が届いた。


『OK。今夜電話する』とだけ書かれたメッセージに、ジェームズは分かったとだけ返信する。


 それから彼は屋上にあるベンチに座り、昼食用に持ってきたベーグルサンドの袋を開ける。

 そしてそれを口に運びながら、ぼんやりと空を見上げる。


 どんよりとした、この街では珍しくもない曇天。


 彼はそれを見ながら、大きく溜息をついた。


「まったく、酷い天気だ」


 そう呟くと、ジェームズはベーグルサンドを齧り、それを無心に冷めたコーヒーで流し込む。


 それは、心を空っぽにする儀式のように……。


 ****


 ウォール街のある、マンハッタンはダウンタウンから、イースト川をブルックリン橋を渡り越え、更に東に進むとブルックリン区に辿り着く。


 そのブルックリンの中程にあるプロスペクト公園の北東側、白人の老夫婦が経営する草臥れたアパートメントがジェームズ・ウィルソンの自宅だった。


 ジェームズはそのアパートメントの階段を上がりながら、自分の部屋を目指す。そして自室の前に着いた彼はポケットから鍵を取り出し、それをドアの鍵穴に差し込んだ。


 カチャリという音と共に扉が開くと、彼は部屋の中に入る。


 玄関で靴を脱ぎながら部屋の奥に向かって声をかけた。その声は酷く疲れきったもので、まるで老人のような声色であった。


「ただいま、ミーシャ」


 その声に答えるのは鳥の鳴き声。

 ミーシャはジェームズの飼うオウムの名前だ。

 オオバタンという品種で、体長50cm程にもなる大型のオウムのメスだ。


 その大柄な体格に似合わず、ミーシャは人懐っこい性格で、ジェームズが帰宅すると何時も頭を前後させて、何故かマドンナのLike A Prayerを囀るのだ。


「ハハハ……ミーシャ、今夜も元気だな」


 ジェームズはネクタイを緩めながらそう言うと、リビングに足を踏み入れバッグをソファに投げ捨てると、そのままキッチンへと向かう。


 冷蔵庫を開け、中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、それを一気に喉に流し込む。

 冷たい水が食道を通り胃へと流れ込み、その感覚が心地良い。


「ふぅ……」


 一息ついたジェームズは、再びリビングに戻りネクタイを外し、袖を捲る。


 そしてそのままソファーに腰掛けた彼はテレビをつけると、リモコンを操作して適当なチャンネルに合わせた。すると画面に派手な化粧をしたハリウッド女優が映る。

 どうやら恋愛ドラマの再放送のようだ。だが、それも長くは続かずCMに入り、今度は別の映画会社のコマーシャルが流れる。


 その頃にはもう、ミーシャは囀り疲れてしまったのか静かになってクリクリとその頭部を動かしていた。


「やれやれ……」


 ジェームズは小さく溜息をつくとスマホをポケットから取り出す。そろそろサムから連絡が来てもいい時間だ。

 だが、ジェームズの期待も空しくスマホにサムからの連絡は来ていない。


 彼は籠から出したミーシャの頭を指先で撫でながら、ぼんやりとテレビの画面を見つめる。と、CMが終わり再びドラマが再開される。そしてそれに釣られたように電話が鳴った。相手はサムだ。


「もしもし」とジェームズが電話に出ると、スピーカーからサムの声がする。その声は何時も通りの逞しさを感じられるもの。


『あぁ俺だ。遅くなってすまん』


「わざわざすまないな」


とジェームズが訊くと、彼は何かを思い出すように答えた。


『リサの事を詳しく調べようと思ってな……知り合いに連絡を取ったんだ……お前も、憶えているか? ハイスクールで一緒だったジェシーだよ。

 彼女、リサと仲が良かったから』


「そうか……」とジェームズは小さく呟く。それから数秒ほど沈黙が流れるも、すぐにジェームズは口を開いた。


「……どうだった」


 その問いに。

 サムは「あぁ……」と少しばつの悪そうな声で答えた。


『どうもな……彼女、地元に戻って来てから昔の友人とは誰とも連絡を取らずにいたらしい。

 だからジェシーも良く分からんそうだ』


 そう語るサムにジェームズは「まて」と声をかける。


「地元に戻って来たってどういう事だ? 彼女は何処か他の土地に居たのか」


 すると、サムは少し驚いたような口調で答える。

 自分の迂闊さを誤魔化すかのように少し早口で。


『あぁそうか、言ってなかった。

 彼女数年前にこっちに帰ってきたんだけど、その前はずっと都会で働いたんだ。

 ニューヨークだよ。

 お前と同じ、な』


****


 ラニーニャ現象による記録的な猛暑にも関わらず、古ぼけたこのアパートメントの全館空調は忌々しい程に役に立たない。


 靴を履いたままベッドに横たわっていると、余計にジメジメとした空気が肌に纏わりつくような不快な感覚をジェームズに与え続ける。


 それが益々彼の心を乱し、苛立たせるのだった。


 ーーサムが言うに彼女、リサ・カークランドはハイスクール卒業後、直ぐ都会に引っ越したらしい。

 初めはシカゴ、やがてこのニューヨーク。それもジェームズの職場であるウォール街から目と鼻の先のロウアー・イーストサイドのナイトクラブで働いていたというのだ。


 ジェームズがこの情報を耳にした時、彼は驚きと共に興味を掻き立てられた。彼女が自分と同じ街に住み、しかもごく近くで働いていた事実を知ると、なんとも言えない気持ちが胸をよぎる。


「まさか、彼女が、な……」


 そう呟きながら、ジェームズは無意識の内にベッドサイドから煙草を取り出し火をつける。

 そして天井に向かって煙を吐き出す。

 この時勢に合わせ、辞めていた煙草を吸っている事に気が付くまで、彼は少しの時間を要した。


 だが、久しぶりの煙の味はどうという事もなく不味く感じる。

 それもまた、彼の心をざわつかせるのだ。


 ただの昔の人であるならば、ここまで彼が心を乱す事も無かったろう。だが、彼は彼女が自分と同じくこの街に住んでいたという事に奇妙な運命を感じたのだ。

 それこそ、そう、まるで運命の人に巡り会ったかのような……。


「馬鹿馬鹿しい」


 彼女と一緒に居たのもほんの僅かな時間だったし、彼女とほとんど恋人らしい関係にあった訳でもない。

 なのに何故、今更、運命の人などと思うのか……。


 彼は再び煙草を口に咥える。そして煙を肺の深くに流し込むと、ゆっくりとそれを吐き出す。

 彼は煙草を吸いながら、ぼんやりと天井を見つめ考える。何故自分はこの煙たく不味い物を吸っているのかと……。


「あぁ……そうか」


 そうだった。

 初めての煙草は彼女と共に吸ったんじゃなかったろうか……。


 あれは、確か……。


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