ジェームス・ウィルソン覚え書き
ほらほら
始まりは唐突に
「それは、何事もない一日の始まりか……」
コーヒーを片手にデスクに座り、パソコンの電源を入れる。
大学を卒業するために拵えた多額の学生ローンを抱え、このウォール街でも厳しい競争社会を生き抜く彼にとってそれはもはや儀式のようなものだった。
コンピュータの起動を待つ間、彼ははコーヒーを啜り、窓の外に目をやる。
時刻は未だ午前八時を回ろうかという頃、だがもう既にこの街は車の吐き出す騒音と排煙に包まれ、その喧騒は止むことはない。
彼がコンピュータの起動を待ちながら、今日のニュースをチェックしていると、彼のデスクに置かれたスマホがけたたましく通知音を鳴らす。
「はい。ジェームズ・ウィルソン」
『やぁ、ジェームズ。どうだい、調子は?』
と、電話口の向こうから聞こえてきたのは、ジェームズの故郷、ウィスコンシンのハイスクールでのクラスメイトだった。
「よう、サム。相変わらずだよ、世はなにもこともなし。
ダウもS&Pも最高値を更新中。なのに一介のバンカーには大した給料も出やしない。この物価高でケツの毛まで抜かれちまうよ」
『ハハハ、名だたる投資銀行のトレーダーが何を言ってやがる。だったら木こりなんかどうなるってんだ』
久し振りの電話越しの友人との会話に、ジェームズも思わず気の抜けた笑い声を上げた。
思えば、ハイスクールの頃とまるで変わらないような会話。だがそれが妙に安心するのはなぜだろうか。
「それで? 突然電話なんてよこして、一体何の用なんだ?」
ウィルソンは手に持ったコーヒーをデスクに置きながら、電話口の古い友人に尋ねる。
友人とのくだけた会話は嫌いではないが、わざわざ電話をしてまで用があるとなれば、なにかよっぽどのことがあったのだろうか。今はそれが気になった。
だが、その答えはウィルソンが想像だにしなかったものだった。
電話の向こうの友人は、少し間を置くとこう告げた。
『あぁ……それなんだが……リサの事、憶えているか? お前が一時期付き合っていた……』
「あぁ、憶えているとも、赤毛の、あの気の強い子だろ? 確かサムと三人で映画を見に行ったっけな」
ジェームズは電話の向こうの友人の言葉にそう答えたが、その言葉はどこか空虚な響きを孕んでいた。それも無理からぬことかもしれない。
彼が彼女と付き合っていたのは、たった三週間程という短い期間。
映画を見たり、食事をしたりと、年頃のカップルが経験するような普通のデートは一通りこなしたが、それ以上の事はなに一つなかった。
その原因が何かと言えば、正直彼にも分からない。
ただ、付き合ってと言われて付き合い、別れてと言われて別れた、それだけの事。
当時は彼女が何を考えているのか分からず、ただ場に流されるままにそうなってしまって。
後に残ったのは、微かな後悔と、心にぽっかりと開いた穴のような何か。
だが、そんな期間も過ぎてしまうと、彼の中からリサ・カークランドの記憶は風化したカレンダーのように過去のものとなってしまった。
そしてそれは恐らく彼女も同じだろう。と、勝手な郷愁に僅かばかり浸りながら、彼はそんな事を考えていた。
そんなジェームズの心情を知ってから知らずか、電話の向こうの友人は話を続けた。
それは決して明るい話題ではなかった。
『死んだよ、彼女。
殺されたんだ』
「えっ……」
電話越しの友人のその言葉に、ウィルソンは思わず言葉を失う。
だが、そんな友人の様子など知る由もなく、電話の向こうの友人は話を続ける。
『彼女の家に何者かが押し入って撃ち殺したんだ……。可哀想にな……。
だが、家は荒らされていなかったし強盗でもない。誰かに恨みを買ってた、なんてことも無さそうだ……。何故彼女が殺されたのかまったく分からん。……と、保安官のベック爺さんが言ってたよ』
友人は言葉を選びながらそう話す。
恐らく、ウィルソンの心情を慮ってのことだろう。
だが、そんな友人の気持ちとは裏腹に、ウィルソンの心は彼女の死で、直接的に揺さぶられる事は無かった。
そんな自分に僅かな嫌悪感を覚えつつも彼は電話の向こうの友人に問いかける。
まるで予め用意していた台本を読むように、平坦な声で。
それはきっと彼が身に着けた処世術のようなものだったかもしれない。
あるいはそれは、自分の心を守る防衛本能のようなものだったのかもしれない。
「そうか、それは災難だったな。……犯人は捕まったのか?」
そう言うと、すっかり冷めたコーヒーを啜る。
電話の向こうの友人は、溜息を吐きながら答える。
『いいや、ベック爺さんだけでなく郡警察やFBIも捜査してるが、まだ犯人の目星はついていないらしい……』
「そうか……」
と、ウィルソンは再びコーヒーに口を付ける。
その味は、既に冷めてしまったせいか、泥水のように不味く感じた。
『……まぁ、そんな訳だ。
一応伝えておこうと思ってな……。
おっと、そろそろ仕事の時間だ……。悪いが切るぞ』
電話の向こうの通話口の友人はそう言うと、こちらの返事も聞かずに電話を切る。
スマホの画面が暗転すると共に、ウィルソンは再びコーヒーを口に含んだ。
だが、その味は先程よりも更に苦く感じられた。
まるでそれは、彼の心を表しているかのようであった……。
****
「ねぇ、ジェームズ。
貴方って変わってるわよね。
……何というか、凄くクール。……とても、とても」
「それは、褒めてるのか? それとも馬鹿にしてるのか?」
「あら、それってどう言う意味かしら」
「いや、何でもないよ。ただの独り言さ……」
それはハイスクール時代の何気ない一幕だった。
リサ・カークランドはズケズケと物を言う割に本音を言わない人間だった。
それは時に疎ましく、煩わしく思う事もあるが、今にして思えば決して悪い事ではなかったように思う。
お互いが本音を隠しながら、建前で付き合う。それこそ人間の社会性を担保する上で最も大事な事なのだから。
だが、ウィルソンにとってはそうでも、彼女にとってはそうでもなかったのか。
それが三週間という短い期間で自分達が疎遠になってしまった原因なのかもしれない。
「……リサ死んだ。
いや、殺されたのか。
……何故だろうな。かつての恋人を殺されても、何とも思わない」
それが、電話越しに友人から受けた報告に対する彼の率直な感想だった。
我ながら酷い人間だと彼は思う。が、彼はその思いを心の奥底にしまい込む。
何故なら、それは彼のこれまでの生涯において、常に利点として働いてきたものだからだ。
お陰で田舎高校から都会の名門大学に進めたし、今もこうしてそれなりの高給取りとしてやっていけている。
だからこそ彼は、それを直そうとは思わなかったし、直せないとさえ思っていた。
いや、正確に言えば……直す気さえ起こらなかった。
ふと時計を見ると既に始業時間過ぎを指していた。
ウィルソンは画面が暗転していたスマホをしまい込み、過去の記憶を頭の片隅に追いやり、再びパソコンのキーボードを叩き始めるのだ。
同時に彼は、かつて彼女に抱いていた違和感の正体にも気が付いた。
彼女が決して本音を話さない人間だったのではない。
彼女はただ、自分の事を話さない人間に自身の事を話さなかっただけなのだ。
それは、人間として酷く当たり前で賢い事なのだろう。
「馬鹿だな、本当に」
その言葉が一体誰に向けられたものなのか。
それは、彼自身にも分からない。
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