10.逃げる

 私はまた、二階に呼ばれた。

「カンサノ、シオシ、アヨタツ、イヌガヒが死にました」総統の隣でアリカトが言った。「四人とも治療室で発狂して死にました。毎日カウンセリングと投薬を行っていたにも関わらず、狂死しました。レンコン頭が生前、他の班員らに洗脳など何らかの影響を与えていたと総統は考えておられます。従って、あなたを末期自殺危惧者予備群として扱い、治療を毎日行います」

 私はその時に気付いた。レンコン頭は何もしていない。洗脳など何もない。投薬をしても効力がなかった、というのは間違っている。投薬を増やしたから死んだのだ。レンコン頭は班七の中で幸福ガスを吸うことが最も多かった。脱出が失敗してからは、カンサノたちの投薬の量が増えた。だから先に死んだ。だか全員が狂死したのだ。叫ぶ声が少なくなったのは、叫んでいた者たちが幸福物質の過剰投与で静かになった、もしくは死んだからだ。班員たちが死んだのは幸福薬のせいだ。私は確信した。幸福薬を過剰に投与すると死んでしまうのだ。狂死する。

 逃げなければ、と思った。早く、逃げなければ、発狂してしまう前に。快楽を幸福を守らなければ。私が狂ってしまって、スンダツとセックスできなくなってしまう前に!


 毎日の投薬が始まり、最初に舌が死んだ。食堂の味噌汁の味がしない。白い灰汁のようなものがこびりついた焼きサバの塩味もわからない。繊維質の消しゴムを噛んでいるようだった。私の頭の中には鼠色の煙が浮かんでいる。私の頭を満たそうとしている。煙は質量を持っており、周りの空気を下へ下へと押しやろうとしている。私は抵抗できずにいる。脳の重さで瞼が沈んできている。煙は私の神経を勝手に使って体中に浸透し、全身が重くなっている。動こうとすると苦痛が生まれる。私の脊髄の少し上あたりから苦痛が生まれる。叫んでいない。苦痛は叫んでいない。私の脳みそを脊髄に引き込もうとしている。「何をしようというの!?」私は苦痛に訊ねる。抵抗は更に苦痛を生んだ。私は感覚することしかできなかった。幸福物質が私のアタマを殺そうとしている。

 診察室で、医師のサノノドのカウンセリングを受けた。毎日受けている。サノノドは毎日同じようなことを訊ねる。気分はどうか。寝られているか。体調に変化はないか。あなたの真の満足は?

 私は、味がしなくなったことを報告した。医師は表情を曇らせた。私はふと思い立って、「私の真の満足は、生きることです」と言ってみた。

 サノノドは僅かに動きを止めた。それからため息をついた。安堵したようだった。

「そうですか、それは良いことです。何か、心境の変化がありましたか?」

「はい、私は生きたくなりました。私の真の満足は自殺ではないということが分かったのです。私の真の満足は、生き、他者を愛することにあると気付いたのです」スンダツの名前は出さなかった。ここで名前を出すと、スンダツも自殺危惧者に扱われるかもしれなかった。私は重い頭で、希望を持った人間の目を模倣した。

「そうですか、それは良いことです」サノノドは微笑み、頷いた。「治療の効果が表れているのかもしれません。もうしばらく様子を見て、回復していきそうなら投薬を少し減らしてみましょう」

 頭痛が酷くなった。頭の片方が硬い何かでずきずきと突かれている気がする。私は姉さんだった人間を殺害した瞬間の記憶を思い出した。あいつはもっと痛かったのかもしれない。こめかみに私が叩きつけた石の角は、いま私の頭の痛みよりも鋭かったかもしれない。私はあいつを殺して心底よかったと思った。苦痛の中でも、あいつの頭に石を突き刺す瞬間を思い出せば、痛みがあいつの体に乗り移っていく感覚がした。どんどんいこう。私は思った。どんどんいこう。しかし、姉さんだった人間はすぐに痙攣をやめて死んでしまい、私はまた頭痛を感じ始める。

 今日も朝食後すぐに治療が待っている。カウンセリングと投薬が待っている。細い銀色の針の先端から苦痛が流れ込んでくる。「幸福物質なんですよオー」看護師が笑っている。「心が落ち着いて、シアワセになれますよオー」目を細めて笑っている。幸福物質なのだから、注入した人間は幸福になるに違いないと思い込んでいる。看護師の顔。濃淡も凹凸もない顔。白い濃淡のない笑顔を見るだけで私は鬱屈した気分になる。私の腕からじりじりとした痛みが全身に広がって、頭に集まってくる。鈍く鋭い痛みになってこめかみにねじ込んでくる。

 投薬の頻度は減らなかった。私は頭が半分働かない状態で治療を受け、作業をして、無機物を食べて寝た。すべて苦痛の中だった。スンダツとの交わりだけが唯一、色を持っていた。感覚した。私は苦痛以外の感覚をスンダツからしか得ることができなかった。

 私は確信した。

 私の真の幸福は、スンダツとセックスすることだ。

 私の真の満足は、スンダツと生き、スンダツを感覚することだ。


 私は鈍くなった頭で決意した。

「逃げよう、ここから、逃げよう」

 私は言った。私はスンダツを守りたかった。

 発狂してしまう。このままいけば、私もスンダツも発狂してしまう。

 幸福物質の過剰投与で人間が発狂する。私はすでに毎日投与を受けている。もういつ発狂し始めるか分からない。私がスンダツを愛していることが発覚すれば、スンダツも過剰投与により発狂してしまう。私たちは狂い死んでしまう!

「逃げないと。死んでしまう。スンダツが死んでしまう」私は発電装置のように腰を振りながら言った。頭を働かせるためだ。スンダツとセックスしていないと、頭が働かない。

「なに言ってんすかー? あ、あ。死ぬ? あ。死ぬ? あ、あ、あ。わたしたち。あ、あ。そんなわけー、っ。あ、あ、あ、あええええぇ」

 スンダツが体を震わせた。私は動き続けた。スンダツを感覚し続けないと、頭が止まってしまう。

「幸福物質でみんな死んでしまう。発狂してしまうんだ。私も、スンダツも、みんな発狂してしまう。逃げよう、逃げよう、逃げよう」

「無理ですー。私の友達も逃げようとして捕まったし、逃げる理由もないっすよねー」

「だめだ、だめだ。逃げないと。幸福物質で死んでしまうから。お願いだから、逃げよう」

 私は今この瞬間にも発狂して、スンダツを絞め殺すかもしれない。私は元々壊れているから、その上発狂したらスンダツをも破壊してしまうかもしれない。いやだ。私は思った。逃げないと。

 私はスンダツを無理やり抱き起こし、薄明りの中で服を着せた。

「お願い、お願いだから」私はシーツの上にぽとぽと精液を落としながら、スンダツに服を着せ、立ち上がるのを手伝った。

「ハシタミさんも着たほうがいいすよー。寒いし」

「いいんだ」私は焦っていた。「いいんだ。とにかく、行こう、逃げよう」

 私はスンダツの手を引いて、部屋を出た。足の裏が床に触れて冷たい。廊下が私たちを冷たく見下ろしている。蛍光灯は消えて、非常灯の緑色の光だけが暗くわだかまっている。見られている。早く逃げないと、見つかってしまう。私は歩き出した。どこに行けばいい、どこに逃げればいい。スンダツはとぼとぼと腕を引かれて歩いている。私は焦った。隠れないと。見つからないところにまずは隠れて、捜索をやり過ごさないと。どうすればいい、どうすればいい。

 私は女子トイレの個室にスンダツと自分の体を押し込んだ。電気は点けない。息を潜める。

「あ、なんか夜のトイレて興奮するっすねー」スンダツが楽しそうに言った。

 洗剤と糞尿の臭いが混ざり合って、清潔な排泄物のような臭いがする。タイルの床が体温を奪っていく。私たちは裸足で隠れている。私は息を潜める。張り詰めた耳で外の音を聞いている。

 私は待つ。

 時間が過ぎるのを待つ。朝を待つ。捜索が終わるのを待つ。全てが終わるのを待つ。私は誰も彼もが鬱や老衰で死んでしまうのを待つ。それから外に出る。私たち二人だけだ。全員死ねば、私たち二人だけだ。私たち二人だけになった世界で、私たちはセックスをする。生きていることの喜びを味わいながらセックスをする。廊下では餓死した収容者の黒ずんだ骨が転がっている。鬱病で死んだ収容者の肉が溶けて出来た染みが体育館のコンクリートの壁や床に広がっている。総統もアリカトも死んでいる。二階の突き当りの部屋で、アリカトが総統に跨り夢中で交わっているうちに二人とも寿命が来て死んでいる。折り重なって一つの黒い塊になって死んでいる。見張りの隊員たちも他者を見張るという自分の業務に疑問を感じその義務を遂行することの意味が分からなくなり発狂して死んでいる。医師たち看護師たちは自殺危惧者にのみ使用するべき幸福物質を自殺危惧者にのみ使用することの意味が分からなくなり自らに過剰投与して死んでいる。

 施設の中だけではない。外でも人類は死んでいる。自殺したいものは早々に自殺して死んでいる。自殺したくないものも生きる意味が理解できなくなり、自らの形が男であったり女であったり子供であったり大人であったりすることの意味が分からなくなり生きる気力をなくしせめて最後の輝きにと発狂して死んでいる。新しく生まれた命もまずは自らの親が死んでいるのを発見しなぜ自分を生かすべき親が死んでいるのか理解できずまた己が何物であるかをも理解できず「おぎゃあ」と発狂して死んでいる。

 人類は全員死んでいる。

 しかし私たちはセックスをする。私たちだけが生きている。私たちがセックスすることで私は幸福を感じ、満足に至ることができる。

 子孫を作る。私たちの子孫を作り、育む。その時点で、もはや私たちは人でなくなっている。人類絶滅後に生まれた人類はもはや人類ではない。私たちは全く新しい存在としてこの先も生存を続ける。その過程にまたセックスがあり、私はまた幸福を得る。スンダツとセックスをする。スンダツとセックスをする。私は幸福を感じ続け、満足に至り続ける。絶頂である。満足の先には絶頂がある。私は絶頂する。絶頂し続ける。永遠の絶頂に私は至る。

「ねえ、あの、あのー」

 スンダツが言った。

「なに?」静かにして欲しかった。私たちは隠れているのだ。そして待っている。絶頂を待っている。

「わたしー、いいこと思いついたんすけど。気持ちいいこと」

「いや、それは、後で」人類が絶滅してから。

「いやー、今やったほーが気持ちいけどなあ。ねえ、どうすか? やってみない?」スンダツはにやりとして、私に顔を近づけてくる。

「じゃあ、ちょっと。ちょっと、だけ」私は声を潜めて答えた。

 スンダツの微笑みが喜びに変わった。

 ……あ?

 私は違和感を覚えた。暗がりの中でスンダツのニキビだらけの顔を凝視した。何か違う気がする。

「ちょっと準備がいるんですよ」スンダツは楽しそうに言って、服の裾に両手をかけた。

 何かが違う気がする。私はいつものように安心したくて、ニキビの数を数える。

 一、二、三、四。数えていると冷静になれる。

「ちょっと待ってくださいねー」シャツを脱いだ。

 五、六、七、八、九、一〇、一一、一二。シミのある肌を私に見せている。かわいいと思う。私はやはりスンダツを愛しているのだ。

「ここ見てください。ここー」ズボンも脱いで、スンダツは自分のへそを指した。

 一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇。スンダツは鳥肌を立てている。寒いだろうと思う。

「この、ここをですねー、ほじくるんですけど」スンダツが自分のへそに人差し指を入れ、くにくにと動かしている。

 私はやはり嫌な予感を覚えた。怖くなった。何を言っている? さっきからスンダツはいったい何を言っている? 静かにしないといけないのに、スンダツは何を言っている? 落ち着かなければ。息遣いが外に漏れてはならない。落ち着かなければ。私は声に出してニキビを数える。何度も数えたニキビの数を数えなければ。二九あるニキビを数えなければ。

「二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八」

「あー、来そう来そう。もうちょっとかも、あ、来る、来る、来る来る」

「二八! にじゅうはち!」私は叫んだ。ニキビが減っている! 「にじゅうはち! にじゅうはち! にじゅうはち! にじゅうはち!」

 おかしい! おかしい! おかしい! ニキビが減っている。どうして? なぜ? 私はスンダツの顔を両手で掴んで、もう一度ニキビを一から数えた。

 二八。何度数えても二八。私は意味が分からなくなって、唖然とした。

「あーもう来る。見てて、見てて見てて、出るっ」

 しいいぃ。

 しいいぃ、と、スンダツのへそから液体がこぼれた。しょっぱい臭いがした。へそから出た透明の液体は全裸のスンダツの下腹を伝って陰毛と太ももの上で枝分かれした。触れ合った膝から私の脛にも液体が伝った。

「これっすよ。気持ちいいよ。ハシタミさんもやってみてよ。ね? 楽しいよ」

 スンダツの体液の射出する勢いが次第に強くなる。私の腹に飛んできている。熱い。スンダツは自らの熱を放出している。びちゃびちゃと当たって飛沫がスンダツに跳ね返っていく。

「あー、きもちー」スンダツは両方の目に恍惚を浮かべている。

 ニキビが。スンダツの顔面のニキビが、ホットケーキの泡のようにぷつぷつと出っ張ったり萎んだりしている。萎んで、一つずつ、消えていく。減っている。スンダツのニキビが減っている。

「あああああ、ああああああ。だめ、だめ、だめ」ニキビがなくなってしまう。私はスンダツの顔を舐めた。舐め回した。舌の上でニキビが突出して、しかしすぐに萎んで消えてしまう。舐めないと、呼び出さないと。私は必死で舐めた。行かないで、行かないで、ニキビ消えてしまう。

「気持ちいいー。やべー」恍惚。スンダツは白目を剥いている。痩せていっている。スンダツが萎んでいく、支えを失って倒れこんでくる。掴んだ腕に皺が寄って、骨の硬く軽い感触がはっきりと分かる。頬がこけて耳が干した椎茸のように皺くちゃになっている。いつの間にかへそから出ている液体は勢いをなくし、再びちょろちょろとスンダツの表面を流れ下っている。皮と骨だけになって、薄目を開けたミイラのような顔になって、タイルの床のスンダツまみれの上に崩れ落ちた。私は支えきれず、扉の外に倒れて尻餅をついた。温く生臭い液体がぱしゃりと跳ねた。スンダツはもう動いていなかった。

 狂人だ。

 スンダツは狂人だったのだ。

 私はそのことにようやく気が付いた。スンダツは狂人だった。狂人とはもはや虚構であり、真の人間ではない。

 は、は、は。

 私は?

 私の真の満足は?

 私の足の間で、干からびて死亡した狂人が丸まっている。これがスンダツだった? あるいは体液では? スンダツの皮膚は虚構であるとしても、中の体液はスンダツそのものでは? 真のスンダツはその体液では?

「おうい」呼びかけた。

 スンダツは床のタイルに冷やされて、どんどん冷たくなっていく。排水溝から少しずつ流れて減っていく。

「あ、だめ、だめ」吸わないと。

 私は床にうつ伏せになり、冷え切ったスンダツを搔き集めて啜った。こんな時でも交わっている。私たちはこんな時でも交わっている。しかしスンダツは味がしない。ただただ生臭く、無味だった。

 これは、スンダツではない。私は思った。これも虚構だ。これは、スンダツではない!

 スンダツは存在しなかった。

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