9.コロシテ!
「もう、いいかなあ」セックスをした後、公園のブランコを漕ぎながら姉さんが言った。
「なにが?」私が訊ねると、姉さんは色のない目で私を見つめた。ブランコがいつの間にか止まっている。
「いや、もう、いいか」
「なにが?」私は不安になった。姉さんはいつも訊ねたことには答えてくれていた。姉さんは私に教える必要がないと思って、言わないのだろうか。「なにが?」私は重ねて訊ねた。
「あたし、最近気付いたんだよ」
「なにが」
姉さんはすぐには答えず、腕を組んで遠くのほうを見た。
「んーんんー。まあ、いいや。うん。もう、いいか」
だからなになになに。私はそう聞こうとして、堪えた。頭の血管を我慢した言葉がぷつぷつと遡上していった。
姉さんが再び私を見下ろした。
「もう、死んでもいいよお前。どっか行っていいよ」
「は? え? は?」
「どっか行っていいよ、って言ってる。聞こえる? 脳、ある? ノウ。お前」
「え?」
え? 私は思った。現実の私が。今まさに生きていて収容施設で一人で眠っている私が、え? と思った。なんだこの記憶。何を思い出している? いつの記憶だ? 私は何を知っている? 何を思い出そうとしている? はつ。はつ。はつ。心臓と肺が連動している。スンダツを、と思う。焦っている。私は焦っている。スンダツを。スンダツを抱かないと。私の安寧を、心の平穏を濡らさないと。スンダツに会わないと。
私の頭は私の記憶を勝手に再生する。
「だから、もういいって。飽きたって。もう分かったから。あたし、もう十分に理解した。あたしが、真のあたしが何なのか、完全に分かった。達した。だからもういいよお前。消えていいよ。サイナラ」
「は? え?」記憶の中の私と今の私は、「は?」とか「え?」しか思えずにいる。姉さんは何のつもりでそんなことを言っているのか。
「え、でも、今日だってセックスしたし。昨日もその前もその前も毎日したよ? セックス、ぼくたち毎日やったっよ?」
「うん。やったよ。でもそれはあたしがまだ気づいてなかった時の話でしょ。今はもう知ってしまったから。真のあたしを知ってしまったから」
「え、でも、ぼくたちはずっと一緒で、セックスをやって、ぼくは姉さんに」
「いやいやw、だ、か、ら、お前もうあたしにとって不要なの。もうあんまりセックスも楽しくないし、飽きたよ」
「ぼくは姉さんになりたかったのに?」
「は? ああ、ああ、なるほどォ。そういうことかア。でも無理だね。あたしにその意思がないと無理だネ。ハシタミはあたしになろうとしていたのか。そゆことねー。残念デスネー。もう、あたしは真のあたしを見つけたので」
「真のあたし?」
私が問い返すと、姉さんは目を異様に輝かせて、ばりばりと話し始めた。
「そう真のあたし。最初は狂気のかたまりが真のあたしだと思っていた。人間らしい感情とか本能とかそういうのを全部削ぎ落としていった後にあたしの中に残る人間じゃないもの人間に含まれないもの。それが狂気」「あ、待って、姉さん、待って」「狂気は非合理的で非論理的で人間の構造の外にあるものだからあたしはそれが真のあたしだと思った。でも違った。狂気さえも人間の一部に過ぎない」「ちょっと、姉さん」「暑さ寒さ痛み喜びといったあたしに感覚させるものすべてが人間由来のものであたしにはそういうものが一つも含まれていない」「そんなこと言わないでぼくとセックスして、して」「つまり真のあたしは感覚することそのものなんだよ。感覚そのものがあたしである。性欲はあたしではないけれど性欲を感覚するのはあたし。幸福はあたしではないけれど幸福を感覚するのはあたし」「姉さん、姉さん、もおおおおおおお!」「あたしが感覚する世界で起こっている事象とか感情とかそういうものを感覚すること自体があたしそのものなんだよ」「ねえさんんんっ! ねえさん、ねえさん。セックスしろ! ぼくとセックスしろ!」「感覚は美しい感覚することは素晴らしいことなんだそしてあたしは真のあたしは感覚することそのものだからもっともっと素晴らしい」「ぼくになれ! セックスして、血ぃまみれなってってって。の、の、ぼくになれっ!」「あたしは感覚するだけで幸福を感じる快楽を覚えることができる興奮してるのあたしもうほんと感覚できるだけで興奮しちゃってるっぅ」「いや、いや、いやだ。ぼくの尿あげますから。ぼくの尿あげますからア! やめてえ! 捨てるのやめてぼくとセックスしてえ!」「だから、だからね! だからね! 聞いて! 聞いて! 聞いて! 聞いて! 聞いて! もうあたしはどんなことがあってもキモチくなれんの! いっぱいまんこ引っ搔いてもアタマに骨ぶっ刺しても何やっっても気持ちインすよ。何やっても気持ちい。ずっと怒られてもいい。ずっと怒ってても死ぬほど力んでてもくも膜下出血とかなッちゃってもぜんっぶキモチいい! もうなんもかもあたし存在するだけであたしだけで完結して気持ちよくて気持ちよくて死ぬほど死にたいって思う! 死ぬが一番死ぬが一番死ぬほど気持ちいから自殺したいあたし、自殺してリスカしよっカナゆっくり死んできたいリスカいっぱいつけてぇみんなに同情されて優しくされてセックスしてマンコまんこしてあたしの内臓つかみ出してヤッてヤッてヤッて!」「あああ、イやあああ!」「もう終わってるってことでいいヨね! もう終わってるってことでいいでしょあたしの命終わらしてってことで髪の毛一本一本一本ずつ抜いてってねあたしの痛みが一個ずつ感じられるようにあたしもぉどんな痛みでもいい。どんな痛みでもいい。切り付けてって出来れば鋭利なそれはそれは鋭利なナイフとか包丁とか、爪でもいいよとにかく鋭利な奴であたしを鋭い切り傷だらけにしてってアタシはアタマが、アタマが耳の穴毛穴からぶっパして臭いまみれンなってそれもまた感覚しちゃってあたしのノウミソの臭いあたしが全部感覚しちゃって記憶しちゃってまた戻ってくるじゃん! ノウミソ永久機関ぢゃんんん! 脳みそまわりの味噌汁飲んでってくださいそれから必ず切り付けて傷つけてイタイイタイして欲しい誰かあたしのアタマかチわって下さい。
コロシテ!
コロシテ!
コロシテ!
コロシテ!
コロシテ!
コロシテ!
コロシテ!
コロシテ!」
私は足元に転がっていた拳よりも大きな石で姉さんのこめかみを潰した。姉さんはぎゃあっと叫んでブランコから墜落して横たわった。
「コロシテーええぇ。コロシテーええぇ。コロシテーええぇ」滑稽な痙攣を始めた。私は姉さんのこめかみの同じところを石ころの同じ角を使って何度も何度も潰した。
「ウゥぅ。ウゥぅ」姉さんは太って死亡寸前の羊みたいな呻き声を出して震えている。両手を胸の前に出し、ボウリングの球を抱えるようにしてぶるぶる震えている。いのちが。私は思った。姉さんを動かしていたいのちが、逃げ出そうとしている。姉さんという個体を見捨てて他の体へ逃げ込もうとしている。姉痙攣は姉さんを生かすためのものではなく死にかけの姉さんに見切りをつけた命が脱出しようとしている証なのだ。姉さんは、死にかけの姉さんの残りカスは呻いているたまに「コロシテコロシテ」と呟いている。姉さんの「コロシテコロシテ」はもはや感情を失って意味を失ってただの記号になりつつある。
姉さんは噓を吐いた。真の姉さんは単なる人間に過ぎず、もうすぐ死んでいく。カスがまだ残っているがもうすぐ死んでいく。姉さんの原動力はいのちであり、いのちに見捨てられた姉さんは滑稽に無様に死んでいくしかない。
私は思い出した。私は姉さんを殺害した。私は姉さんに壊されたのではなかった。そもそも私は壊されていたのではなかった。
私は壊れていたのだ。ずっと私は壊れていて、初めから壊れていて、姉さんは私にとって重要なものでもなんでもなく、ただ私が過去に適当に無造作に壊しただけだった。私が重要だと思っていた記憶は単なる人間の削りカスだった。
こんなものに。私は絶望を覚えた。こんなものに私は気を取られて仕方なくなっていた。怒りで頭の中が攪拌されていく。
瞬間、猛烈にスンダツが欲しくなった。
私は布団を跳ね飛ばした。早く。早く。壊れてしまう前に、アタマがはち切れてしまう前に。私はドアノブに手をかけ、思い切り扉を開いた。
「あっ、ども」
スンダツが立っていた。外の廊下に、スンダツが立っていた。私はスンダツに跳び付き、唇を頬張った。スンダツが唇を舌を動かしながら、私に凭れ掛かってくる。部屋に戻る。私たちは口を繋げあったままベッドの上に転がり、互いの体を物色し始める。私の腹がスンダツの手のひらを感覚する。私の手のひらがスンダツの首の後ろや背骨を感覚する。私の舌がスンダツの舌を感覚する。私のアタマがスンダツの昂りを感覚する。私は私の表面をすべて使ってスンダツを感覚した。
すべて終わった後、眠るスンダツの乳首を吸いながら、私は思った。
私の真の満足は、本当はスンダツと交わることだったのかもしれない。スンダツとするセックスで得られる安らぎなのかもしれない。かつての私の真の満足は私を壊した奴を壊すことだったが、そもそも私を壊した奴は存在しない。
スンダツだけだ。私は思った。存在するのはスンダツだけだ。
私を満たすことが出来るのは、スンダツだけだ。
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