8.狂人
作業中に、金属部品の角で指を切った。痛みを感じて、しばらくして滴った血で気が付いた。私は黙って手を挙げた。隊員が来て、私は指の傷を見せた。血がぷっくりと出ている。
「医務室に行ってきなさい」隊員はそう言うと、元の位置に戻った。
私は立ち上がって、出口に向かった。机の間を歩く。いくつもの背中の間を歩く。
男が私を見つめているのに気付いた。手を動かしながら、ちらちらと私を見ている。猫背の男は瘦せており、羨むような目で私を見ている。
私は男の目が気に入らなかった。手を掲げて、指の傷を見せてやった。
男が目を剝いた。
「あああー、血、ぼく、血がダメなんですぅ。本当に、本当に申し訳ありません。血がダメなんです。あの、あの赤いのが、もう、ヘモグロビンというのですか!? ヘモグロビンというのですか!? が、もう、痛くて、目に痛くて、仕方がない。やめて! 見せないでぇ! 痛い痛い痛いたいたい。目、眼球を保護しないと」
男は瞼を両手で押さえて、ごしごしと擦り始めた。
「あああああ、無理無理無理無理。痛いよオオオォッ。痛いっ。痛いぃぃ」
男と同じ班の収容者は口を開けて男を見ている。駆け付けた隊員が男の腕を掴んだ。
「やめなさい。私語は慎みなさい」
「血が無理なんですよ本当に、目が痛くなる。だから保護しないと、涙で保護しないと」
「静かにしなさい。黙って作業しなさい」
「あああああ、もうちょっと、です。もうちょっとで涙出ますから。そしたら落ち着きますからお願いしますあともうちょっとだけ」
ほかの隊員たちも集まってきて、男が目を擦るのを止めさせようとする。一人が幸福ガスの入った缶を持っている。
「あ、来た。あああ、やっと出てきた」
男の瞼と手の間から、涙が流れた。止めどなく流れている。涙は幾筋にもなって滴り落ち、男の服の襟を濡らし始めた。
「あ、これ、あれだ。狂人だ」一人の隊員が言った。「やばい。早くガスを吸わせろ。ガスを吸わせろ」
「あああああああ」男が叫ぶと、その目からどばどばと涙が溢れ出した。蛇口を捻ったように、大量の涙が噴き出して机や床や取り押さえようとする隊員たちを濡らしていく。
「狂人だ! 逃げろ! 狂人だ!」
「体液を避けろ! 発狂してしまうぞ!」
収容者たちが叫んでいる。
暗い穴のような両目からじゃばじゃばと涙を吐き出す狂人から収容者たちが逃げ始めた。隊員は狂人を殴ったり、幸福ガスを噴射したりしている。狂人が暴れる度に、涙の飛沫が飛び散った。体液を浴びた収容者は、その場に崩れ落ち泣き喚くか、発狂を始めた。
あの発狂は本物だ。私は思った。他者を意識して発狂するのではなく、自らの意思で発狂している。あの狂人の真の満足が発狂することにあったのだと分かる。
狂人を殴っていた隊員たちも、やがて発狂を始めた。私は収容者たちが逃げ去った部屋で、発狂した人間たちを眺めていた。
体中の水分を出し切った狂人は干からび、丸まっていた。眠る胎児のような格好で体液の中に横たわっている。目は固く閉ざされ、しわくちゃの茶色い肌は生命を失っている。
狂人は人間ではない。人間を模倣し、発狂・脱水ののちに死ぬ。
私は、真の満足に至った狂人が羨ましくなった。指の血を吸った。
夜の点呼が終わり、静かになると、スンダツが扉を叩く。私はスンダツを招き入れ、交わる。それから二人で眠る。ベッドは一人用で幅が狭く、私たちは裸のまま抱き合って眠った。ぼんやりとした闇の中で、私はスンダツの寝顔を見つめた。いつもは赤く浮き出たニキビは、点々が辛うじてわかるものの、色までは判別できない。私は、決してスンダツをきれいだとは思わなかった。スンダツが笑っても、喘いでも、失神しても、私はそれを決してきれいだとは思わなかった。むしろどこか腹が立った。ただし、許せる腹立たしさだった。私はいつものように、スンダツの顔面のニキビを数えた。二十九。
じっと見つめていると、スンダツが目を覚ました。
「きもちかったですねー、今日も」私の耳元に、嬉しそうに囁いた。私はこのところ、毎晩のようにスンダツとセックスをしている。
そうだろう。そうだろう。気持ちいいだろう。私は思った。スンダツは昂ると、蛙が潰れた時のような鳴き声を出す。無様だと思う。滑稽で、行為中に笑いそうになる。スンダツは私が笑いそうになっているのに気付かず白目を剥いている。
「明日も、来ていいですか?」
スンダツは私の胸に顔を埋めて言った。私はスンダツの頭の後ろを繰り返し撫でた。
「良いですよ。ええ」
スンダツは私よりも小さい体をしている。私より小さい生き物と私は交わっている。
私は、姉さんがセックスをしているときに決して声を上げなかったことを思い出した。息を規則正しく吸って、吐く。静かだった。姉さんはいつも静かだった。
私は一人で労働作業を行った。机が広かった。カンサノたちが脱走に失敗して何日も経つが、彼らはまだ治療中だと医師は言った。
私は体を動かすのが億劫になっていた。面倒で何もする気にならなかった。重い腕を動かして部品を組み立てた。
いつの間にか、収容者が減っている。軽度の発狂を起こす者が、以前は何人かいたのに、最近見なくなっている。叫ぶ人間自体、ここ数週間の間に一人も見ていない。
静かになっている。私は重い頭でそう考えた。誰かが静かに死んでいるのではないか? 一人ずつ、音を立てずに死んでいるのではないか。
私はたまに叫び出したくなる。「私はちゃんと働いているんですよ! だから死なせてくれーっ! 死なせてくれーっ!」こらえ切れずに唸り声を上げたことが何度もあった。常に頭の中に血をじゃぶじゃぶに吸い込んだ綿が詰まっていて、じわじわと膨張し続けているような気がした。私は腹が立って、アタマを破壊してしまいたいと思った。しかしすぐに面倒になって、どうでもよくなった。私は苦痛を感じさせられるだけの状態を受け入れ、やり過ごした。
夜に一人で闇を見ていても、姉さんの声が聞こえなくなった。声のしない夜を、私は時間にすり潰されながらやり過ごした。苦痛だった。時間が私の眼球の表面をナメクジのように這って行くのが苦痛だった。粘膜が私の両目に擦りこまれてぴりぴりと痺れた。余計に眠れなくなった。
私は毎日スンダツを部屋に呼んだ。スンダツとセックスをすると、心が安らいだ。
「わたしは狂人じゃないからー、全然分からないんですが、なんていうか、大丈夫ですかー?」
スンダツが私を見上げている。両目が微かな光を跳ね返して、私の両目に注がれている。
「私は、壊されているんです」
「誰に?」
「分からない。誰か分からないんです。しかし、もしかすると、姉さんかもしれない。私を壊したのは姉さんかもしれない。あ、でも、でも、もしも姉さんが私を壊したのなら、私は、ああ、私の過去は、私自身の成り立ちが、ああ、ああ。私、終わるかもしれない」
「ハシタミさんてー、お姉さんのこと、好きですかあ?」
「もちろん。姉さんはいつも私を公園で待っていた。姉さんは「真のあたし」を求めていた。私は姉さんと交わったんです。毎日、毎日、交わったんです。私と姉さんは固い絆で結ばれている。血で、あとは尿で結ばれている」
「お姉さんの、どこが好き?」
「あ、えっと、もち、もちろん全てが。そして、と、くに、あ、脚が。脚が、とても興奮する」
「ほえー。じゃあ、わたしの脚は?」
スンダツは掛布団から素足を出した。白い脚だった。産毛が生えているのが分かる。
かわいい。私は思った。
あれ? あれ? あれ? かわいい。あれ?
「どうですか?」
「かわいい」
「でしょおー?」
「あれ、かわいい。スンダツさん。あなた、かわいい」
なぜだ? 私は混乱した。なぜかわいいと思っている? あれ? どうして?
「わたし、ハシタミさんのことが、好きですよ」スンダツの声が私の耳の奥に這い込んでくる。
それから私は気が付いた。脚だけでなく、その他のものも、スンダツの全てをかわいいと思っていることに気が付いた。
スンダツだけが私の心を落ち着かせてくれる。ニキビだらけの顔面、だらだらと汗をかく太もも、絶頂するときに見せる血管の走った白目。それらが手に届く。私の手が現実に触れている。私は手のひらでスンダツの肉体を感覚する。生きているのだ。私はスンダツが生存していることを意識した。私は生き物と交わっている。現実に生きている存在と交わっている。肉。肉だ。現実肉。現実肉には安らぎがある。私だけが感覚することのできる安らぎがある。穏やかな喜びがある。「穏やかなヨロコビ!」私は私の手のひらが喜んでいるのが分かる。手のひらだけでなく体全体が喜んでいるのが分かる。
私は轢死蛙のような喘ぎ声を聞きたいと思う。
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