7.狂死

 レンコン頭が死んだ。

 朝の点呼には出ていたが、朝食に来なかった。私は収容者たちを監視する隊員に、レンコン頭の不在を報告した。隊員が確認のために去ると、しばらくしてから戻ってきて、言った。

「班七の班員たち、今すぐついて来い」

 収容者が行動できる範囲は一階のみで、普段はエレベーターの入り口を隊員が固めている。私たちは初めてそのエレベーターに乗って、二階に上がった。私たちの前後を警棒を持った隊員が歩く。打ちっ放しの廊下に足音が響いた。

 突き当りの扉の前で、赤い服を着た女が立っている。腰まで届く黒髪で、唇が服と同じく赤い。女の服と口紅だけが色彩を持っている。

「アリカトだ」アヨタツが言った。ひそめた声をコンクリートが跳ね返した。

 アリカトが何も言わずに振り返ると、ゴロゴロと音が鳴って扉が開いた。奥に総統が立っている。

「どうぞ、お入りください」女が扉の奥を手で示した。隊員を残して私たちと女が部屋に入ると、扉が閉まった。部屋の内側に、顔に入れ墨のある男が二人いて、扉を動かしていた。

 総統は革張りのソファにふんぞり返っていた。

「総統が自殺欲求のある人間と言葉を交わすことはありません」総統の隣に立ったアリカトは言った。「私が総統のお声をあなた方に伝えますので、総統にお伝えしたいことがあれば、私に言ってください」

 総統は神経質な目で私たちを順番に観察している。

「レンコン頭はどうなったんだ」アヨタツが言った。

「狂死しました」

「狂死?」

「報告によると、レンコン頭は部屋を訪ねた隊員の前で発狂し、死にました」

 私は、羨ましいと思った。死ぬことができるのが羨ましいと思った。

「自殺者が出た班の班員は全員が自殺危惧者と扱われます。よって、あなた方は至急、カウンセリングと薬物投与、ガス吸引治療を受ける必要があります。総統は、自殺危惧者どもは自殺によって真の満足を得ることができるという危険思想をばら撒く恐れがあり、その人格を完全に否定されるべきである、とおっしゃっています」

 総統は私たちを嫌悪の表情で睨んでいる。

「ガス吸引治療とはなんだ。自殺ガスか。自殺ガスか」

 シオシが言った。

「自殺ガスではありません。治療に用いる気体は幸福ガスで、吸引するとすぐに多幸感をもたらし、ストレスを緩和する効果があります。通常の薬物投与は即効性が低く、長期間にわたって投与を行うものであるため、他者の死などの強いショックを緩和するためにはガス吸引治療が有効です」

 治療後、私たちは解放され、いつも通りに労働を行うことを命じられた。

 それまで週に一度であった自殺欲求の減衰治療が、私たちだけ週に二回行われるようになった。レンコン頭が死んだことが告げられたのは私たちだけだった。


 ここから脱走しないか、と労働の合間の休憩時間に、班員のカンサノが言った。カンサノはいつも死にたいと言っていて、私たちはずっと無視していた。

 私たちは普段無視しているカンサノに目を向けた。カンサノは私たちそれぞれと目を合わせてから言った。

「俺は人間じゃない。でも、ここにいる奴らは皆、俺のことを人間だと言ってくるんだよ。それがもう死ぬほど嫌で嫌で俺はずっとずっと死にたいと思っていたんだ。でも、昨日の夜、考えが変わった」

 カンサノは前のめりになって、声を細めた。

「アリカトが来たんだ。俺の部屋に。昨日の夜」

「アリカト!?」アヨタツが言った。「あの、美人のアリカトが?」

「アリカトが、俺の部屋の鍵を開けて、いつもと同じ赤い服で、部屋に入ってきて、潜り込んできた。俺の横に」カンサノの声は震えている。「それから囁いた。一緒に逃げましょう、って。俺の耳に唇をくっ付けて、一緒に逃げましょう、って、言った。助けて、と言った。レンコン頭みたいに発狂してしまう前に、って。あなた、人間じゃないでしょう? とも言った。その時に俺は思ったんだ。ああ、この人は分かってくれている。俺は救われたのだ。それから、俺のことを人間じゃないと信じてくれる人に会わなくてはならないと思った。アリカトを助けるためにも、俺は脱走する。いや、でも、一番は、アリカトだ。俺は本当はアリカトを愛していたんだ。ずっと愛していたんだ。アリカトはそれを知っていて、俺に助けを求めたんだ。俺はアリカトを助けるために脱出する。セ、セ、セックスもしたんだ。アリカトがセックスさしてくれたんだ。もう、俺は、助ける。アリカトを絶対に助けてみせるんだ」

 異常人間が!

 私は発作的に罵りたくなった。こいつは自殺するという本来の目的を忘れてしまっている。自分の真の満足が何かを忘れてしまっている。こいつはただ興奮しているだけだ。性的に興奮しているだけで、何も考えていない。真の満足に至る道筋を全く忘れてしまっている。だからこいつはもはや人間ではない。真の満足を忘れた人間は、もはや人間ではない。

「俺は、もう、死ななくてもいいかなと思っているんだ」シオシが言った。「なんかもう、死ぬとかどうでもよくなってきたんだ。俺は気が付いた。俺の真の満足は、血の中でおぼれることなんだ。血、ってさ、めちゃくちゃいい匂いするだろう? もうアタマ溶けるくらいいい匂いするだろう? おれはずっとずっとあの匂いを嗅いでいたい。窒息してもいい。最初は自分の手足を切り刻んで、その中で死んでいきたいと思ってたんだけど、俺は痛いの嫌いだから、だから俺以外の奴を切り刻んだら痛くもないし、いい匂いだし、最高だと気付いたんだよ。でもここじゃ監視されてるから、他人を切りつけるのも難しいからよ。俺も抜け出したい」

 それから、私以外の全ての班員が、施設を抜け出したいと言い出した。休憩時間になっても、夜の点呼の後も、集まって脱出のための計画を立てているようだった。

 結局、二週間ほどしてから、実際に脱走を試みた班員たちは隊員に拘束された。私はレンコン頭が死んだときと同じように、エレベーターで二階に連行された。

 廊下の突き当りの部屋で、前と同じように総統とアリカトが待っていた。

「あなた以外の班員が脱出を企てたため、隊員が拘束しました」アリカトが言った。涼しい顔をしている。

 総統は顎の前で両手を組んで、歯を食いしばっている。私を睨みつけている。

「他の救済人類に悪影響を及ぼしてはいけない。拘束した脱走者どもには治療を更に強化する。と総統はおっしゃっています」

「お前が、カンサノをたぶらかしたのでは? カンサノに脱走させようと企てたのでは?」

「いいえ」アリカトは私の目を見て言った。

「いいえ」しばらくして、もう一度言った。

「いいえ」もう一度言った。

「いいえ」また、言った。温度のない目をしていた。

「しばらく、あなたには一人で労働作業に従事してもらうことになります」アリカトはそう言った後、顔の筋肉をぐにりと動かした。少ししてから、笑顔を作ったのだと分かった。


 薬物投与の頻度が、週に三日に増えた。一日か二日おきに、私は透明の液体を肘から注射した。幸福薬が私の血管をずるずると遡っていく。血液と混じりあっている。ああ、私の体液が。私は思う。どうしようもなくなる。私の体液が幸福薬と混じっていく。私の純粋の自殺の意思が、邪魔されていく。

 姉さんにもなれなかった!

 私は姉さんにもなれなかった。

「悲しい? 悲しい?」姉さんの声がする。治療を受けて、自室に続く廊下を歩いている私の耳元で声がしている。息がかかる。きれいな匂いをしている。清潔そうな生温かい口の中の匂いをしている。「悲しいなら死んじゃいなアー。辛いなら死んじゃいなアー」姉さんは楽しんでいるのかもしれない。私の苦しみを楽しんでいるのかもしれない。今、まさに今、姉さんは私の耳元で、私の耳の穴から私の苦痛の臭いを吸い込んで楽しんでいるのかもしれない。私は姉さんがどこにいるのか分からない。

 話しかけてもいいかなア。姉さんがどこにいるか分からないけど、話しかけてもいいかなア。

 姉さんと体を重ね続けるうちに、中学生だった当時の私には焦りが生まれ始めていた。

 一向に姉さんにならない。体液をいつも浴びて、啜って、肌に擦りこんでいるのに、一向に私と姉さんの体液は混ざり合わず私は姉さんになれない。

 どういうこと。どういうこと。私は姉さんに聞きたかった。どういうこと。

 でも、聞こうと思っても、私は聞けない。中二に上がった頃から、私が何か言っても、姉さんは生返事ばかりで、まともに聞いてくれないことが増えた。「ぼくっの言っていることが面白くないからかなあ!?」と私は言いたくて言いたくて仕方がなかった。「姉さんはぼくのことガキすぎて、言っていることが幼稚すぎて、もしかして、もし、かして、死ねばいいと思っているのかなあ!?」

 それでも私は姉さんとセックスをし続けた。気持ちいいから。セックスが気持ちいいから。セックスしていると、私は忘れてしまう。世界の形を忘れてしまう。アタマが公園とは全く別の場所に行く。何か大きなやわらかい塊があって、そこに私のむき出しのアタマがぶつかる。大きな柔らかい塊に受け止められるときもあるし、跳ね返される時もある。いずれにしても気持ちいい。アタマが溶けて崩れそうになる。私はその間も何かしている。アタマと繋がっている体が、感覚をアタマに依存しながらも独立に動いている。アタマとは関係なく動きたいように動いている。私はセックスをしているときアタマと体に分かれて、その両方で快楽を感じとっている。あ。あ。あ。あ。あ。しか言えなくなる。アタマが言っている。あ。あ。あ。あ。あ。体は体で同じようにあ。あ。あ。あ。あ。と言っている。アタマと体は決して共鳴しあわず、別々にあ。あ。あ。あ。あ。を言っている。

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