5.スンダツ

 夜の点呼が終わった後、私は宿舎の廊下を歩いていた。黄色い脂の色の蛍光灯の下を歩いている。両側に収容者の部屋の扉があって、どこかから喘ぐ声や叫ぶ声がする。

 交わっているのだ。私は気付く。女の声に気付く。交わっている女の声がする。男の息遣いが聞こえる。しかし実は喘ぎ声の主は男かもしれない。息遣いの主は女かもしれない。交わっている。性別の知れない得体の知れない人間たちがどこかの扉の内側で交わっている。私は誰かが交わっている事を知覚している。交わっているという情報のみを知覚している。

 廊下の突き当りを曲がると便所があって、その手前に掃除用具入れがある。私は足を止めた。女が掃除用具入れの前で跪き、手を合わせていた。便所の前の蛍光灯は消されている。薄暗い中、女が一人で跪いている。鼻を啜っている。

「どう、どうしましたか」私が尋ねると、女は顔を上げた。目元が赤く腫れている。

「わたし、謝らないと」

 女は私と同い年くらいの見た目をしていた。

「それはなぜですか」

「床、って、すごうく汚いじゃないですか。そんなところにいつもいつも擦り付けてしまって、本当に申し訳ないんです」

 艶のない髪は肩の上で切られ、中途半端に途切れている。女の肌はニキビまみれで、私はそれが色の薄いイチゴみたいだと思った。

「じゃあ、掃除用具を使わなければよいのでは? それになぜ、こうして隠れるように夜になってから謝っているんですか? 本当に謝罪するなら、他人の前で自分の恥を晒すようにして謝るべきなのでは?」私は白イチゴ頭が憎らしくなって言った。

「それじゃあ、狂人って思われるじゃないですかあ」女は怯えたように言った。「流石に無理です。狂人は流石に無理です。あ、でもぉ、あなたは狂人っぽいですねー」

 私は壊されている。私は狂人ではなく、誰かのせいで、誰かのせいで壊されているに過ぎない。

 私は壊されているのだ! 私は叫びたくなった。私が叫びたくなるのは私が壊されているからだ。誰に???

 よく見ると、女は若かった。二十五歳くらいの見た目をしている。

「わたし、生きたいんです。なんか、自殺とか、無理なんです。かわいそう、って思っちゃう。このほうきとか雑巾とかも、なんか、全部かわいそうって思っちゃうんですよねー。死にたいって言う人もかわいそう。なんか」

 次の日も、その次の日も、女は掃除用具入れの前に跪き、道具たちに謝っていた。私は女の顔のニキビがたくさんあるのが何故か癖になって、肌のぷつぷつを観察するために毎日女と会った。

「わたし、スンダツって言いますー。あなたは?」

「ハシタミです」

 それから、労働時間中にもスンダツのニキビだらけの顔を見かけるようになった。スンダツは私たちの班の隣で作業をしていることが分かった。私はスンダツの赤いニキビを数えた。二十九あった。あのニキビたちは、スンダツの顔面の上を一日に数ミリずつ移動して、顔中をくまなく彷徨っているのかもしれないと空想した。

 休憩中も見かけるようになった。たいてい、スンダツはほかの女たちとバレーボールをしていた。

 ある日、いつもと同じように掃除用具入れの前に向かうと、ほうきやちりとりの押し込められたロッカーの隣に、丸椅子が二脚置かれていた。私が座っていると、便所からスンダツが出てきた。

「こんばんはー」「こんばんは」

 スンダツが私の隣に座った。

「今更ですけどー、ハシタミさんも掃除用具たちに謝りに来ているんですよね」

「いえ。トイレです」

「でも、座ってるじゃないですかあ。トイレ待ちですか?」

「あなたが椅子を置いたんですか?」

「そうです。ハシタミさん今日も来ると思って。座るんだったらずっと置いておきますよ」

 スンダツは丸椅子の座面に両手をついている。水色の麻のパジャマを着ている。薄っすらと、男か女かわからない喘ぎが聞こえる。

「ハシタミさんってー、狂人なんですよね?」

「違います」

「狂人は自分のことをぉ、狂人って言わないんですよ。なぜだか分かりますか? 自分が狂人であることを隠そうとか、自分が狂っていると思っていないとか、そういうことじゃなくてえ、なんというか、愛、みたいなものを持っているんですよお。愛。自己愛」

「自己愛」

 私は繰り返した。スンダツは椅子の上で両ひざを抱え、明かりの消えた天井を見上げた。

「簡単に言うと自己愛かなあ。いや、実は祈りかもしれない。自分に対する祈りですねー。狂人にとっての真の満足は何かどこか壊れていて、ほかの誰も、もちろん狂人自身も実現しようと思って実現できるものじゃないんですよねえ。狂人にとって、真の満足は外からやってくるってやつですよ。そして壊れているってねー」

「あなたは何を言っている?」私は動揺した。壊れている? 私は壊されている。狂人が、壊れている?

「長々と申しますとぉ、狂人に、あなた狂ってマスカー? 狂人ですカー? って聞きますよね? すると、は? ワタシ? 狂っている? ハ? 狂っているとハ? って答えるんですよねえ。狂うという概念すら持ってないんですよね。あるいは狂うという概念が分かっていても、本当は分かっていない。というーか、何も分かっていない。世界についての理解の仕方みたいなものが、わたしみたいなふつーの人間と比べて明らかに異なっているんですね。そして、愛している。狂人は自らあるいは自らの知覚する世界を何らかの形で愛しているんですう。それはつまり自傷行為とか自慰とか発狂とか自殺とか色んな形で愛を表現しますよね? 表現というか愛に突き動かされてというか、愛になろうとしますよね? なんか、愛、溢れ出してますよね? 狂人って」

「それが狂人ですか。ならば私は狂人ではない」私は壊されている。私は死によって世界を私を壊した奴を壊そうとしている。

 アレ? 自殺? 愛? 狂人? アレ? 自殺したい私、狂人?

「わたしは狂人、好きですねー」そう言うと、スンダツは私の顔を見上げた。

「アレ、私は、もしや、狂人?」

「そうだといいなと、思っていますよ?」

 スンダツが私を見つめている。あー、あー、あー。私はスンダツの目を覗き込みスンダツのアタマの中で像を結んで可視光で着色されている私を観察する。あー、あー、あー。私はスンダツの顔のニキビを数える。背中に針の刺さったような刺激が泡立って汗が噴き出す。あー、あー、あー。スンダツは、少し笑っている。

 あー、あー、あー。

 スンダツが笑っている。

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