4.幸福薬

「はい、じゃあね、ハシタミさんの第一回目のカウンセリングを始めていきたいと思いますけども。まず初めに説明しておかないといけないことがあるから、それを先に言わせてくださいね」老医師が言った。

「私たちはね、あなたたち救済人類の自殺予防治療をするにあたって、次の権利を保障します。

 一、本人の意思にかかわらず、身体的または精神的苦痛を与えられない権利。

 二、本人の意思にかかわらず、本人が生存する権利。

 三、自殺を除く本人の真の満足が、いかなるものにも侵害または妨害されない権利。

 以上です」

 私は診察室二のコンクリートに囲まれた部屋で、老医師と向かい合っている。私と老医師はソファに座っている。目の前の机の上には、芝生の上に寝転ぶ白く丸い何かの動物のレプリカが置かれている。

 老医師は総白髪で、縁の四角い眼鏡を掛けている。名札に「医師七 サノノド」と書かれている。

「あなたは今、自殺に対してどのようなイメージを持っていますか?」

「自殺は私の真の満足です」

「そうなんですね。あなたは自殺に対して、どちらかというと良い印象を抱いている」

「どちらかというと、ではなく、はっきりと良い印象、いや自殺のみが私の真の満足を実現する手段なのです」

「なるほど」それからサノノドは、前に医師四が言ったことと全く同じことを言った。

 カウンセリングの後は、身体検査と投薬が待っていた。サノノドが、私の肘の血管を指で擦り、注射針を刺した。透明な液体がとろろろ、とろろろ、と私の中に注がれている。

「これはね、気分を落ち着かせて、ストレスを軽減するお薬になっています。幸福薬といいます」

 週に一度、私はカウンセリングと薬物投与を受けた。私はその度にサノノドや、後ろで私を観察している看護師を殺したくて殺したくて堪らなくなった。私の真の満足を妨げる奴は殺す。私の真の満足は自殺によってのみ実現するのだ。


 私たちは体育館に集められた。広大な空間に収容者がぞろぞろ溢れて、歪に並んだ。天井には丸く巨大な電球が八個、等間隔で並んでいる。体育館は休憩中に誰でも使うことができた。私はよくレンコン頭たちと一緒になり、班七の中で最も労働作業が遅いイヌガヒにボールをぶつけて遊んだ。イヌガヒが叫んで泣くのを見て笑った。

 体育館に並ぶ収容者の周りに人類救済同盟の隊員が武装して立っている。私たちを監視している。腰に警棒を携えている。

「それでは、ただいまから、第四五一一回人類救済同盟定期活動報告会を始めます。まず始めに、定期活動報告会に初めて参加された都市五三の救済人類の皆さんに、我々、人類救済同盟の発足から今日に至る足跡をご説明させていただきます」スピーカーからばりばりと割れた音が響いた。

 前の方の二つの電球が暗くなって、壁面に巨大な年表が映し出された。

「皆さんもご存じのように、約三五〇〇年前に起こった自殺革命は、長い人類の歴史の中で最悪の事件でした。我が国の地方司官の一人であったトスロヌが、世界的な大飢饉が起こった際に農民たちを焚き付け、集団自殺一揆を起こさせました。トスロヌは貴族に対する反感を煽り、死ねば幸福が得られると嘘を吹き込みました。自殺一揆は瞬く間に全国に、そして交易路を伝って世界中に広がりました。農民だけでなく、商人や一部の貴族までもが自殺一揆に加わりました。個人の生命はその個人にのみ帰属するという考えから、自殺権という狂った思想が蔓延したのです。その結果、全世界の産業が著しく停滞し、人口は革命以前の約七割にまで減少しました。各国は人類絶滅を阻止するために国際会議を開き、自殺権を認めることにしたのです。混乱の主原因である大飢饉を食い止め、人類の生活水準の向上に努めるのではなく、自殺権を認めることで、王族や貴族に対する反感を一時的に躱そうとしたのです。革命後、世界は一変しました。国家は本来守るべき国民を積極的に殺害するという、狂気的な世界が実現してしまったのです。

 そのような狂った状況が二千年以上過ぎ、我が国は民主主義国家としての歩みを始めました。ちょうどその頃、我々の前身となる組織が発足しました。反自殺主義同盟です。反自殺主義同盟は、自殺権は国民の安全を保障する民主主義国家が決して認めてはならない禁忌思想であるとして、自殺権を廃止し、自殺者をなくすために活動を開始しました。反自殺同盟は、政治活動のほかに自殺者そのものを減らそうとする試みも行いました。無差別幸福活動です。自殺の原因のほぼすべてを占めるのは鬱病と言われています。反自殺同盟は鬱病の治療と予防に有効な幸福物質を独自に開発し、住宅街や駅やショッピングモールの中など、至る所でゲリラ的に散布しました。無差別幸福活動によって、人々の幸福度が増し、自殺者の減少に繋がりました」

 その後も滔々と説明が続いた。私はほとんどを聞き流した。私の真の満足を、自殺欲求を否定している時点でこいつらは私の自由を奪っている。私の人権を無視していると思った。

「今月は都市五三の生死選択試験会場を襲撃し、職員と受験者のべ二八五人全員を救出しました。重傷者はいませんでした。また、世界各地で幸福物質の散布を一九九回実行しました。この表は散布を行った場所の一覧です。以上で活動報告を終わります。次に、総統からお言葉をいただきます」

 前方の演壇に背の低い男が上がってきた。後ろに赤い服を着た女が付き従っている。

 男は腕を後ろで組んで、ぎらついた目で全体を見回してから言った。

「我々はこの世界を滅ぼさなければならない。生死選択制度などという、人権を無視した狂った制度を破壊しなければならない。生きることは全人類の権利であり、義務である。我々は生存主義に則り、あなたがた救済人類の生命を保証する。それは外敵からあなたがたを保護するという意味であり、同時にあなたがた自身からも保護するということだ。自殺を許さないということだ」

「おい! それはおかしいぞ」私の隣でレンコン頭が叫んだ。「おれは女をみんな殺してしまいたいのに、お前らはそれを許さないというのか? そればかりか俺が死ぬのも許さないと言っているのか? お前たちは、医者も兵隊もアホなのか? どうせ女を殺したことなんかないんだろう。女を殺す人間の気持ちが、分からないんだろう。おれは切実に殺したいと思っている。心の底から思っている。殺さないとおれは狂ってしまう。もはや狂人だ。お前らの大嫌いな狂人になっちまうかもしれないぞ。おれは女を殺すことで、それを娯楽とすることで心を保っているんだ。幸福を感じているんだ。お前らが息をするように、自分の娘とセックスするように、おれは女を殺す。お前らとやっていることは何にも変わらない。おれはただ女を殺して、みんな殺して、最後に死にたいだけなのに。お前らはおれの邪魔をしている。おれの真の満足を邪魔しようとしているんだぞ」

 隊員が数名、群衆の中を割り込んでこちらに向かってくる。人垣の間から隊員の手がいくつも伸びてきて、レンコン頭に掴みかかる。レンコン頭は腕を振り回して抵抗した。揉まれる。私は揉みくちゃにされて騒ぎの外に弾き出される。気が付くと、そこかしこで暴動が起きている。蹴り合い殴り合い、泣き叫んでいる。発狂している者もいる。

「俺も死にたかったんだっ」「殺してくれー。生きてても仕方ないから、殺してくれー」「おとうさん会いたいよォ。また、また、私の手首切ってほしいのに。お父さんののこぎりで、切ってほしいのに」「あたし今日死ぬ! 決めた。決めた。もういいわお前らあたしと死のう? みんなー聞いてーあたし自殺アイドルですけど。自殺系アイドルですけど。みぃんな今から、集団自殺しよ?」

 入口に目をやると、隊員がどんどんと入ってきている。死にたいと叫ぶ人間たちは暴れて、叫んで、隊員たちに取り押さえられている。

「救済だ。救済しろお」総統が演壇の上で叫んだ。それからすぐに照明が落ちて、真っ暗になった。叫び声がいくつも重なり合っている。見えない中で、誰かの肘が鳩尾に入る。息が詰まる。蹴られる。圧し掛かられ、私は固いコンクリートの床に倒れこんだ。肘をがつんと打ちつけた。痺れる。ぷシューッと音が聞こえる。床から風が吹き出しているのを感じる。痛みが遠のいていく。喧騒が耳の中で小さくなっていく。暗く、ずっとずっと、暗くなる。


 私は自室のベッドで目を覚ました。朝だった。起き上がって廊下に出て、点呼を受けた。朝食はいつも班で固まって食べる。レンコン頭は喋らなくなっていた。ぼうっと茶碗を覗き込み、黄ばんだ米粒の塊を口に運んでいる。食堂はいつもより静かだった。隣のテーブルでいつも狂ったように「死にたい死にたい死にたアーい」と叫んでいる奴が、今日は黙りこんでいた。顔が、特に頬のあたりが黒っぽくなっていた。幸福ガスだ。私は思った。

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