2.人類救済同盟
私は痛みを感じた。目を開けた。視界が霞んでいる。顔の皮が温い油膜で包まれたような心地がする。
私は瞬きをした。私は、瞬きをした。
取り返しのつかないことをしてしまったような気分になった。
「死んでなーい」姉さんの鈴のような声が耳元で聞こえた。錯覚だった。私は瞬きをした。「死んでなーい。まだ、死んでなーい」ものが見えるようになる。汚れの付いた蛍光灯が、灰色の天井から白い光を発している。
「ああ」私は声を出した。
「ああ、ああ、ああ」
終わってる。私は思った。もう、終わってる。私は死んでいない。
「どうしてェー」姉さんの声が聞こえている。すぐ耳元で本当に話しているように聞こえている。
「おはようございます」看護服の女が私の顔を覗き込んだ。白く、地味な顔をしている。「お体の具合はいかがですか」
「ああ」ああ。私は思った。
「三番ベッドのハシタミさん起きられましたー」そう言いながら、看護師は振り返って去って行った。
「ああ」私はああ、と思った。
ああ、ああ、ああ。ああ。あーあああ。
狂っちゃう!
私はまるで、私が女の子になっちゃうみたいにッ、狂っちゃう! たすけて、たすけて、たすけて。かんごふさーん。女の子になっちゃう。いや、それ程に、それ程に狂っちゃう。なんで? なんで? なんで死んでないん? なんでなんにもかんにも死んでないん? やばい、やばい。狂っちゃうよオーっ!?
「っくるっ、ぅよオ……」掠れた声が出た。私は可笑しくなって、乾いた喉で「カヒ、カヒ」と笑った。死んでないよお。まるで女の子になっちゃうみたいに、死んでしまっていない。
「嘘つけ」姉さんの声が聞こえた。「嘘つけ。お前はあたしみたいになりたいんだろう。ただの女の子じゃなくって、あたしみたいになりたいんだろう。無理なのに。絶対に無理なのに。だから狂おうとしているんでしょ? だから狂いたがっているんでしょ? そういうところだよ。そういうところ、ハシタミってかわいいよね」
「はあ、はあ」姉の言葉を聞いているうちに、いつの間にか息が荒くなっている。私は興奮している? 姉さんの言葉に興奮している? 見透かされているから? 恥ずかしいから? 興奮している?
医師四は私と同じくらいの年頃で、頭頂部が禿げていた。私の体をざっと検めた後、話し始めた。
「私たちは人類救済同盟と言って、世界中で自殺する人を救済するために活動しているんです。私たちは昨日、都市五三で行われていた生死選択試験の会場を襲撃し、あなたたちを救出しました。ハシタミさん、あなたはガス室に閉じ込められて、もう少しで殺人ガスで窒息してしまうところだったそうですよ。それを隊員たちが見つけ、ギリギリのところで助け出したと聞いています。間一髪だったそうです。見たところ、怪我やその他の異常もなさそうですし、手遅れにならなくて本当に良かったですよ」
医師四は微笑んだ。
私は診察室を見回した。天井も壁も床もすべてむき出しのコンクリートで、窓のない部屋だった。
「人類救済同盟の施設は全て地下に作られているんです」
医師四は穏やかな表情で私を見つめている。私は吐きそうなほどの違和感を覚えた。こいつの微笑の意味が分からない、と思った。
「あの、えっと、私は死にたいんですが。私は死にたかったんですが」
世界が壊れていない。そう思って、私は怒りを覚えた。邪魔をされた。こいつらは、私の真の満足を妨げている。まだ、この世界に私を壊した奴が存在しているというのに。
医師四は悲しそうな顔をした。
「そうなんですね。あなたは、今、死にたいと思っているんですね。さぞお辛いでしょう。私たちはそのままのあなたを受け入れます。大丈夫です。私たちはあなたの味方です。どんなことでもいいです。私たちに話してみてください。もしかすると力になれるかもしれない。私たちはこの世界の歪んだ倫理思想を正すために必死に活動しています。自殺は悲しいことです。今すぐには無理かもしれないけれど、いずれは自殺する人をゼロにしたいと思っています。しなければならないと思っています。もちろんそれはみんなの幸せのためです。私含め、ここにいる職員はみんな、この国で暮らす誰もが幸せになることを一番に願っています。
私たちの真の満足は、あなたたちの幸せです」
は? どういうこと?
「私は死にたいんです。死ぬことが私の真の満足つまり幸福であるので」
医師四はうんうんと何度も頷いた。
「なるほど、あなたの真の満足は、自殺することにあるのですね」
「はい」
医師四はうんうんと頷き続けている。
「ハシタミさんの考えとはちょっと違うかもしれませんが、私は、幸せと真の満足は違うものであると思っています。あ、これはあくまで私自身の考えですからね。
私は幸せとは、満足に至る過程において生まれる一つの感情であると考えています。例えば、何でもいいんですが、何か目標があるとします。けん玉が出来るようになりたい、みたいな。で、上手になりたいのでけん玉を練習しますよね。すると上達していきますよね。最初は全く出来なかったのが、皿に乗せられるようになったり、連続技みたいなのが出来るようになったり。そういう、何か新しいことが出来た時、自分が進歩した時って、嬉しくないですか? 昨日までできなかったことが今日出来るようになった、進歩している、満足に近づいている。そういう時に感じる嬉しさとか喜びこそが、私は幸せなのだと思います。で、そこからもっともっと練習して、けん玉が誰よりも上手くなる。そうすると多分、満足しますよね。もう十分に上手くなりきった、もうこれ以上上手くなることはない、というところまで来たら、たぶんきっと満足しますよね。するとどうですか。そこから先、けん玉の練習をして、幸せを感じることってできるでしょうか? おそらくできないですよね。けん玉をうまくなる、という目標は達成してしまったので、つまり満足してしまったので、そこから先はどれだけ練習しても進歩しない、つまり喜べない、つまり、幸せを得ることができない。満足の先にはもう、幸福はないんです。だから満足と幸せは違う。幸せの本質は満足に至る過程で生まれる、いわば成功報酬みたいなものなんです。だから満足と幸福は別のものだというわけです」
医師四は、私の目を覗き込んだ。
「私がこれから言うことは、ハシタミさんを嫌な気持にさせてしまうかもしれない。でもあなたに本当に必要なことだと思うので、言わせてください。
私は、ハシタミさんのような、自殺することが真の満足なんだ、と言う人にたくさん会ってきました。その人たちとたくさんお話をしました。その中で気付いたことがあります。自殺は、そこに至るまでに決して、幸せが生まれないんです。むしろ辛いです。寂しさとか、悲しさとか、そういうものから逃げるために自殺を選択してしまうんです。満足に至る過程で生まれるのが幸せならば、幸せを生まない行為の先に満足はない。だから、自殺することによって真の満足に至ることはできないと私は思います。ハシタミさんの考えを真っ向から否定するような形になってしまって、本当に申し訳なく思います。もちろん、ハシタミさんご自身の思いは本物です。私も、何もかも嫌になって逃げだしたくなる時があります。自殺したい、というのは、あなた自身の本物の感情です。それを無理やり否定してほしくはありません。もっと辛くなってしまうと思うので。しかし、私はハシタミさんに自殺をしてほしくない。あなたに生きていてほしいと思います。そして、ハシタミさんにも、生きたいと思ってほしいんです」
「はあ」
私は、意味が分からなかった。まったく意味が分からなかった。こいつはなぜ泣きそうな顔をしているのか? 悲しそうな顔をしているのか? 良いことを言ったような顔をして慈しみを演出しているのか。
幸福を生まなければ絶対に満足出来ない? は? 私は苦しいままなのに。壊されて苦しいままなのに。幸せになれと? 幸せが満足の条件であると? 殺してやろうか? 私は腹が立った。私は真に、真に思っている。私を壊した奴をめちゃくちゃに破壊することのみが私の真の満足であると、真に思っている。今も私はこいつの意味不明な演説を聞いている間にも私を壊した奴の残留物を吸い込んでいるというのに、こいつは何を言っている? こいつは私の真の満足を邪魔しようとしている。私の唯一の真の満足を妨げようとしている。
こいつらは悪だ。私は思った。
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