真の満足について

@oeee

1.生存死亡選択

 私はどこか壊されている! 誰かにいつの間にか壊されてしまっている。

 私はどこか壊されたアタマで、生存死亡選択の通知ハガキを手に持って、椅子に座っている。ほかの受験者が私の前後左右に並んで、半ば錆びたパイプ椅子に座っている。

「私はどこか壊されているんですよオ」と言いたくなる。立ち上がって右隣のスマホを触っている若い女の頭の上から浴びせたくなる。受験者たちは小学校の教室くらいの広さの会議室で順番を待っている。私は受験者全員に私が壊されていることを表明したい衝動を覚える。

 職員が部屋の前の扉から現れて、受験者の名前を順に呼んでいった。二十人ほどが呼ばれた。

「ハシタミさーん、六四番、ハシタミさん」

 私の名前も呼ばれた。私は立ち上がって、右隣の女を見た。女は猫背になって、スマホを覗き込んでいる。黄緑色のワンピースを着ている。首筋に、うなじのあたりに、ちらほら不揃いの毛が生えている。こんな汚らしいものが。私は思った。こんな汚らしいものに、私は自分が壊されたことを報告しようとしていたのかと思うと、腹が立った。卑屈に曲がった首を殴って女を殺してやりたいと思った。

 私は職員が待っている扉に向かった。

 私はほかの受験者とともにぞろぞろと廊下を歩き、さっきよりも少し広い会議室に案内された。長机が二列になって部屋の後ろまで並んでおり、一つの机につき椅子が二脚ずつ置かれている。私は一番後ろの席に座った。黄ばんだうねりのあるロンリウムの床が、蛍光灯の光を反射している。

 部屋の前の天井からスクリーンが垂れ下がっていて、黒く大きな文字が映し出されている。

「生存死亡選択 受験者の皆様へ

 ~正しく決断し、真の満足を実現するために~」

 受験者たちは、スマホを触っている。ほとんど全員がスマホを触っている。たまに腕を組んで目を瞑っている者もいる。私はまた叫びたくなる。

「お前たちは、私がコピーしてやりました。お前たちのそのスマホを触りたいという欲求とか他人に自分一人だけの世界に浸っている様子を見せても何も思わない心とか、そういうお前たちのスマホに対するアタマのあらゆることを、私がコピーしてやりました。だからお前たちはずっとずっとスマホを触り続けているんです。お前たちはスマホに関する限りは私が同じようにお前たちの性質をコピーしてやったから、電車に乗っているときも何か待っているときも食事しているときも、ずっとずっとスマホが気になって仕方なくなって周りの人間もまったく同じようにスマホを見ているのにも気付かず今日もスマホを見ているというその性質すべて私がコピーしてやったから。お前たちは今もスマホを見ているんです。そこに自由意志はないんです。お前たちの大好きな自由意志はないんです。私がスマホに対するお前たちの姿勢を全てコピーしてやったから。アタマが退化した動物みたいにスマホを触っている間、お前たちの自由意思は死んでいる」

 前方の扉から灰色の作業着を着た男が入ってきて、スクリーンの脇に立った。男は眼鏡を掛けている。坊主頭で、胸ポケットにボールペンを指している。男が口を開いた。

「それでは、国暦二一五六三年度、生存死亡選択試験を始めます。皆さんはね、全員三十五歳ということで、五年前と十年前にも受験されています。大体の流れはもう大体知っていると思うんでね、さくさくっと行きましょう。まず始めはね、講習を行います」

 男は壁に立てかけていた指示棒を取り上げた。

 スクリーンに映し出される画面が切り替わった。

「えー、まずはですね、生存死亡選択の概要をね、おさらいしておきたいと思います。途中で眠たくなる人もいると思いますけどね、えー、ちゃんと聞いといてくださいね。ちゃんと聞いとかないと、死にたくても死ねなくなりますからね。はい。まずはこれを見てもらいます」

 部屋が暗転し、何の感動も覚えない音楽が鳴り始めた。ビデオが再生される。私は五年前に受験した生死選択のことを思い出した。そのときはこの無感動の音楽を聴いて、発狂しそうになった。私は何の感動も覚えない音楽が嫌いで、頭を裂きたくなるほど嫌いだった。「生きていない音楽を殺せ!」私は叫びたくなった。心の中で繰り返し繰り返し叫んだ。「生きていない音楽をこ、ろ、せ!」

 幼児を抱きかかえる笑顔の父親と母親の映像が映し出された。ナレーションが始まった。

「私たちの幸福に欠かせないことは何でしょうか? 考えてみましょう。安全で豊かな生活、将来に対する保証、労働や様々な活動を通した自己実現、家族や地域社会など、他者とのかかわりを通じて得た経験や良好な信頼関係。もちろんこれだけではありません。幸福の形は人それぞれであり、また一人一人が望む幸福を誰もが手に入れる権利があります。

 わが国では、およそ三五〇〇年前に起こった自殺革命をきっかけに、自殺の権利が認められるようになりました。その後、憲法が見直され、自殺を含めた様々な権利・概念について盛り込まれた新しい憲法が制定されました。今日では成人年齢である二〇歳から、五年ごとに生存するか死亡するかを選択する「生存死亡選択制度」が設けられ、国民全員に受験の義務があります」

 眼鏡の男が指示棒を持って机の間を歩いている。寝ている受験者の肩を揺すって起こしている。

「生存するか死亡するかの選択は、個人の自由意志によって決定され、その選択は他のいかなる意志によっても干渉されるものではありません。人間は真の満足を追求する生物であり、進化の過程において、自分と同様に他者の満足も願うという、ほかの動物にはない高尚な精神を獲得しました。これは「祈り」と呼ばれています。あなたが生存・死亡のどちらを選択しても、それがあなたの真の満足を実現するためならば、あなたの家族や友人はその選択を祝福してくれることでしょう。さて、ここからは本日の試験の流れを見ていきましょう」

 その後、ビデオでは認知機能検査、面接、生死選択後の流れを説明した。

「最後に、この生存死亡選択試験では、次の権利が保障されます。

 一、本人の意思にかかわらず、身体的または精神的な苦痛を与えられない権利。

 二、本人の自由意思において、本人が生存する権利。

 三、本人の自由意思において、本人が死亡する権利。

 四、本人の真の満足をいかなるものにも侵害または妨害されない権利。

 以上で生存死亡選択試験に関する説明を終わります」

 画面が暗くなると、蛍光灯の明かりが点いた。

 私たちは次に二〇〇分間の認知機能検査を受け、その後は一人ずつ、別の部屋に案内された。

 部屋にはスーツの男が一人で座っている。机の上にパソコンが置いてある。堅苦しい顔をした男は、私が部屋に入ると「六四番、ハシタミさんですね。こんにちは」と言った。

「お座りください」パイプ椅子が置かれてあって、私は男と向かい合って座った。男の胸の名札に「面接官一」と書いてある。

「それでは面接一を始めていきます。あなたは今、一個の生命として、満たされている状態ですか? 具体的には、健康な生活を送れていますか? 睡眠・食事はしっかりと摂れていますか? あなたが生存するうえで、何か障害や困難はありますか?」

「ありません」私は答えた。

「分かりました。面接一は終わりです」

 私は、また別の部屋に通された。面接一と同じように、面接官がパソコンの前に座って私を待っていた。面接官の名札に「面接官二」と書かれている。面接官二は新卒風の若い女だった。長い黒髪を頭の後ろで束ねている。目の下に隈が出来ている。

 面接官二が気だるげに口を開いた。「お座りください。それでは面接二を始めます。あなたは今、何かに脅かされてはいませんか? あなたの真の満足は、何の危険もなく実現することができますか?」

「はい」

 私の真の満足は、破壊することだ。

 私は私が何者かに壊されており、私を壊した奴を壊し返すことが私の真の満足なのだ。

「わかりました。面接二は終わりです」

 私は、また別の部屋に通された。面接二と同じように、面接官がパソコンの前に座って私を待っていた。面接官の名札に「面接官三」と書かれている。

「お座りください。それでは面接三を始めます。あなたは今、何らかの社会あるいは組織、家族等に属していますか? あなたは他者から「祈り」を受けていますか? あなたの真の満足を達成するための様々な選択を祝福する人はいますか? また、あなたが他者に対して「祈る」ことはありますか? つまり、他者が行う、真の満足を達成するための様々な選択を祝福していますか?」

「いいえ」

 私は孤独だ。それは私が壊されているからだ。私は壊されてしまってからずっと孤独だ。私は訴えたくなった。面接官三に訴えたくなった。「私の家族は硬直している。私は家族が硬直していると感じて家族を捨てたのだ。私の家族は互いに依存しあい、硬直してしまっていたのだ。思考を止め、私を殴った。家族は私に依存していたのだ。私を殴るという行為を通して自らを正当化していたのだ。私を殴ることで許しを得ようとしていたのだ」私は黙っていた。「いいえ」とだけ言った。

「分かりました。面接三は終わりです」

 面接四。

「あなたは今、他者から認められる立場にいますか? あなたの真の満足を尊重されていますか?」

「いいえ」

 面接五。

「あなたは今、真の満足を実現できていますか?」

「いいえ」

「分かりました。面接五は終わりです。次の面接が最後になります」面接官五が言って、私は別の職員に、次の部屋に案内された。部屋の中は壁も床も天井も白い。照明は蛍光灯ではなく、部屋の隅から白い光が放射されていた。五年前の受験時の記憶にない部屋だ、と私は思った。白いソファに、白いスーツを着た中年の男が座っていた。

「お座りください」低く落ち着いた声で、白スーツの男が言った。私は白い机の前に置かれている白い椅子に腰かけた。それを待ってから、男は口を開いた。

「面接の結果、あなたの自殺欲求が基準値を大幅に上回っていることが分かりましたので、こちらにお呼びしました」

「私が? 死にたいと? 私が?」

「はい、あなたの自殺欲求は非常に大きく、深刻な状態にあります。つまりあなたはいつ自殺してもおかしくない状況にあります」

「え? え? え? 私が? 死にたいと? なぜ分かったのです?」

「我々は先ほどの面接でのあなたの仕草や表情などを細かく解析し、あなたの深層心理について理解しました。その結果、あなたは今、猛烈に死にたがっている」

「あなたは死にたいと思っている」男は繰り返した。

「私は、あの、私は」

 私は急に焦りを感じて、喉が渇いた。言わないと、と思った。この人にまたは他の人に私以外の他の人に言わないと思った。

「はい、どうぞ」白スーツの男はゆっくりと頷き、先を促した。

「私は、壊されているんです。誰かに、何もかも忘れてしまったが誰かに、壊されてしまっているんです」

「はい」

「だから、私の真の満足は、私をこんな風にして、壊した奴を壊すことなんです。私を壊した奴はどこにいるか分からない。今もどこかで生きていて呼吸している。つまり、つまり息を吐いている。つまり私を壊した奴の吐いた息がこの世界に蔓延している! 私は私を壊した奴を壊さないといけないのでつまり私は私を壊した奴の吐いた息が蔓延したこの世界ごと壊さないといけないとそういうことです。世界を壊さないければならない。世界を壊すためにはこの国を破壊するだけでは足りない。この惑星を壊すだけでは足りない。この恒星系を銀河系を宇宙を壊すだけでは足りない何故ならばそれは世界を壊したことになっておらず破壊した世界はまた別の形として存在し続けるからです。世界を壊すということは本質的に壊さなければならない私のように壊された私のように本質的に壊さなければならない。従って私が死ぬことが唯一世界を本質的に壊すことになるのです」

 私の真の満足は私を壊した奴の属する世界の完全な破壊、すなわち自殺によって実現するのだ!

 私はもっともっと死にたくなってきた。今すぐにでも死にたい。私は今すぐにでも死にたい。

「私は今すぐにでも死にたい」

「そうでしょう。我々は既にあなたの満足を実現するための準備を整えています」

「死なせてください。私の真の満足は、私が死んでこの世界を壊すことにある」

「良いでしょう、良いでしょう。こちらです」

 男は私を連れて部屋から出た。廊下をもと来た方と逆に歩いていく。私たちの後ろから、職員が二人ついて来る。突き当りの扉を男が開けた。

 さっきと同じように真っ白な部屋だった。狭い部屋に白いベッドが置かれている。枕も何もなく、ベッドだけが置かれている。天井に黒子を散らしたような模様がある。私は部屋に足を踏み入れた。

「こちらの部屋で、あなたは死ぬことができます」扉の外で白スーツが言った。「このベッドであなたが眠った後、天井の壁際の穴から特殊な気体を放出します。この気体は非常に重いので、空気よりも下に沈んでいきます。同時に、天井の中央付近の穴から空気を外に出していきます。放出した特殊な気体が充満し、寝ているあなたの鼻の高さを超えると、あなたは窒息状態に陥り、やがて死亡します。しかしご安心いただきたいのですが、窒息状態において苦痛はありません。この気体は吸引すると幸福感をもたらし、酸欠の苦痛を取り除きます。あなたは幸福な夢の中で緩やかに死亡します」

 素晴らしい。私は思った。こんなにも簡単に死ねることが素晴らしい。善いことだなア。

 私はベッドの上に横たわった。二人の職員が部屋の壁や天井、ベッドの点検を行った。それから私は、部屋に一人になった。

 私は死ぬ。そう思うと高揚した。とても楽しみな気持ちになった。

「これから私は死ぬ」私は声に出した。「これから私は死ぬ」私は目を閉じた。

 天井の上で、うおんうおんと音がしている。私を殺害する機械の音がしている。扉の外で足音が聞こえる。誰かが喋っている。白スーツが喋っているのかもしれない。ずっと遠くで叫び声が聞こえる。誰かが発狂している。

 今日も誰かが発狂している。しかし壊れていない。

 街を歩いていると、まれに発狂している人がいる。私は発狂している人を見て思う。しかし壊れていない、と思う。街で発狂している人は真に発狂したい人ではなくて、発狂している姿を他者に見せることで、自分が発狂している存在であるということを自分に理解させるために発狂している。無論、心の底から発狂してはいないので狂人でもない。自分が不安定であり、自分の存在を信じたいがために街で発狂しているのだ。だから壊れていない。

 しかし私は壊されている。誰に? 誰に?

 私は少年の頃に恐らく少年の頃に壊された。誰に? 誰に?

 姉さん。

 姉さん? 私は思い出した。思い出そうとしている。もう死ぬよ? もう死ぬのに今更思い出そうとしている。姉さん?

「ハシタミって、かわいいね」

「ハシタミって、かっこいいところもあるね」

 頭の中に姉さんの声が響いた。鈴を鳴らしたようなきれいな声を思い出した。部屋の外のどこかで、誰かがまだ発狂している。子供か? 女か?

「ハシタミは、狂っているの?」

 私は狂っているわけではない。ただの人間で、狂人ではない。私は単に壊されているだけなのだ。発狂したくなるのも誰かに私の苦しみや鬱憤を叫び訴えたくなるのも、私が壊されているからだ。私は壊されているだけだから実際には発狂しないし絶叫もしない。私は壊されているだけだ。私は姉さんにそう答えようとしたが姉さんはもうどこかに行ってしまい私は今思ったことを誰に言うべきかもう一度考えている。

 眠い。私は眠い。ついに死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 殺してくれーっ! 私を殺してくれーっ!

 世界破壊まであと少し。私が寝たら、私が死んだら、世界が壊れて私は真の満足に至ることができるのだ。

 うおんうおんうおん。

 機械の音。誰かが走る音。発狂する音。

 私の苦痛が消えていく。壊されていることで生まれる苦しみが去っていく。

 あー、寝る。寝る寝る寝る。死。

 死。

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