第2話 帆船
マストが折れた教会の帆船は近くの漁村まで曳航され、もはや海原に漂う幽霊船のようにも見えた。責任は船長にもあるし、海賊であるグレイシアの魔法使いとやらにもある。
表向きは。
「船長とかかわいそうね」
「グレイシアの魔法使いのせいでいいんじゃねえの?」
レイとラナイが話していたが、一部始終を上から見ていた僕としては船長もグレイシアの魔法使いも気の毒に思えた。誰のせいで船が沈みかけているのかと問われれば、どう考えても二人が悪いのではないか。
「でもあのガキは何もしてねえんだよなあ。マストの上で美しい歌を聞かせてくれただけとも言える。てめえがガキに捕まるのが悪い」
「二人が飛び出したときに捕まえてれば済んだんだ。どうせ嬉々として幻術に惑わされたんだろうが」
「幻術だとはなあ」とラナイ。
こういうところを意外に認めるところが、寄せ集めの兵士とはいえ数万を率いる剣士だと言える。
「まあわかったところで、術にかかった教会の兵士を斬るわけにもいかねえしよ。一人一人ぶん殴るしかねえじゃん。てめえの相棒は殺そうとしたんだぞ。止める身にもなれ」
「味方でもないし」とレイ。
僕は縛られた少女を見た。潮にかすれた肌をして、癖のある黒髪を後ろで結わえていた。ブラウンの瞳が怯えの深さを見せていた。
「グレイシアの魔具とは?」
僕が尋ねると、少女はぐっと睨んだ末、次第にブラウンの瞳が涙に沈んだ。すると目を固く絞るようにつむって地面に胃液を吐いて、しばらく獣のようにうめいていた。
「ラナイ、来て。話があるの」
ウラカが呼んだので、僕たちも向かおうとしたが、教会の内々の話だからと追い払われた。
レイは地面に伏して眠っている子どもを膝に抱き上げると、小さな体で術を使いすぎたのではないかと話した。どうなんだろうか。術を使えない僕はわからないと答えた。
夕暮れどき、村いちばんの集会所は多くの野次馬で賑わっていた。教会船が来たということで、ご馳走が準備されていたが、二百名ほどの水平たちは船から降りなかった。
僕は二階の手すりから村人たちがざわめいている集会所全体を見下ろしていた。不意に下からウラカに食べたのかと尋ねられたので、二人ともウラカを待っていると答えた。
「シン、食べるのは後にしてくれないかしら。こっちへ来て。レイとラナイにはくつろいでと伝えて」
僕は二人に伝えた。
ウラカは夕食を食べず、町が準備してくれた執務用の一室に引っ込んだ。僕にも話があるので一緒に来るように言われた。そこは何もないところにテーブルと椅子が置かれているだけだった。ウラカは気に入ったので使わせてくれと頼んだ。殺風景な部屋だねと言うと、無理に頼んで準備してもらったからねと。隣室に入るとき、なぜ着いてくるのと言われた。着いてこいと言われたからだと答えると、ウラカは笑いながら着替えるからと扉を閉めた。
「どうせ無理を言うなら豪華な部屋にしてもらえばいいのに」
僕は丸椅子に腰を掛けた。
『これくらいがいいの。教会は贅沢だとか言われたくないしね。さっき私が話していたのが村長よ』
「耳の尖った背の低い」
『もしかして森の民の流れを汲んでるのかもしれないわね』
「海なのに」
『グレイシアは森から海を支配していたとも言われてるわ』
「村人も森の民系かな」
「特に関係ないんじゃない?」
ウラカは隣室から出てきた。修道服ではなく、粗雑な縫い目の半袖のシャツにゆったりとした布を腰のところで結んで留めていた。肌をさらさない教会にしては珍しいが、ウラカは任務のためには裸にでもなるかもしれない。話す前に仕事をしてしまうと言うと、ずっと窓際のランプの灯を前に手紙を書いていた。たぶん僕のことは忘れている。僕は何をするわけでもなく、椅子に腰を掛けて彼女の背中を見つめていた。何枚にも筆を走らせては手をかざして呪文を唱えて封印をしていた。その度に呪文を唱えるのだが、いつも呪文の後に苦しそうな深呼吸がついていた。すべてを終えたのか両腕を頭上に上げて伸びをして息を飲んだ。
「あ、ごめんなさい」
僕は生ぬるいレモネードをウラカに渡した。この世界では冷たい飲み物は寒いところにしかない。
「さっき作ってきた。レモネードの素を持ってるんだ。ルテイムでミアにもらった。レシピはレイが持ってるんだけどね。薬効付きかな」
僕は水も湧き水から持って来たと言うと、ウラカはそんなに待たせたのかと驚きながら謝った。
「気にしない。働きすぎだよ。ラナイが子どもを監視してた。二人にもあげてきたんだ。子どもも飲んだ」
「やさしいところは好きよ」
「やさしくないところがあるみたいな言い方だよね」
「あるわよ」カップに口を付けて満足そうに頷いた。「ミアのことを思い出すわ。わたしね、もう一度あの子を鍛えてやろうと思うの」
「ラナイか」
「ええ。あなたやミアを見ていたからよ。わたしが捨てたら、あの子はこの世界から捨てられるわ」
「ミアならそう言うだろうね」
「教会船から呪具が消えてる」
「僕に話していいのか。グレイシアの魔法使いに盗まれた」
「騒動の前よ」
ハイデルでは荷室の封印は解かれていないと話していた。特に積むものもなかったので、面倒な開封や再封印の手間を省いたとのことだ。
「ハイデルと騒動までの間で盗まれたことになるわ。わたしは管理まで任されてない。怪しいのは誰か。一人でできるものでもないし、聖術師や管理師も突破しなきゃいけない」
「ほとんど怪しい」
「そうね。たいていはお宝を積んでるんだもの。狙いたくなるわ。でももし盗んだとしても、力が強すぎて個人的には使い道がないのよね」
「塔の剣みたいな?」
「そうね。ノイタの剣もね。由来が強すぎて一流と言われる剣士でも使いこなせないわ」
「でも盗まれた。偶然にも船にはルテイムで暴れた連中がいたのに」
「しかも途中ではルテイムからの戦利品も積み込まれたはずよ。扱いきれるとは思えないのよね」
「扱える奴らが盗んだんだ」
「例えば?」
「教会と同じくらいの管理技術を持っていて、今すぐにでも呪具の力を必要としている奴らとか」
僕はウラカのシャツの緩い胸もとが気になる。チラチラと見えそうで見えないし、見ないようにした。
「教会の船には襲われたときの防衛システムのようなものはないの」
「あるわよ。結界だけじゃなくていろいろ重ねてるはずだけどね」
「砲撃も?」
「撃ち込んだのは沖合の船に対してだと話してたけど、どうも幻術に惑わされたのかもしれない」
「船は見てないのか」
「濃霧でね」ウラカはカップを飲み干した。「万が一船で盗んだ奴がいるとしても、どこかへ運ぶには人手がいるわ。ここで使わないならね」
「人はいるよ」
「ひねくれてるわね」
ウラカはニヤッとした。このことを話したくて呼んだのか。
「一帯は海賊の村が多い。グレイシアは魔法使いとして力を貸すことで村に恩恵を与えてた」
「通行料の徴収だ」
「正解」
僕がウラカのシャツの胸を指差すと、彼女は笑いながらレモネードを浴びせるふりをした。
扉が開いた。
「ウラカ、おいしかったから持って来てあげたわ。シンのもね」
「ありがとう。ちょうどお腹すいてたてころよ」
「ウラカは疲れてるみたいね。ラナイは食べた分は働かないといけないと話してた。呼んでくる?」
「今ラナイは仕事中よ」
「要するにここで暇なのはわたしとシンだけか」
僕は吹き出した。特にすることはないので間違いではない。皿には豆しか入ってない気がしたので、レイは豆が好きだなと話題を変えた。
「眼にいいのよ」
「そうなの?」とウラカ。
「だから村では豆ばっか食べてた」
「村では眼がなかったのよね」
「ん……?」
レイは難しい顔をした。僕たちがじっと見ていると、ふと何かに気づいた様子で、不機嫌に村へ帰ろうと呟いた。ここにいてもすることがないんなら村へ帰ろうと。要するに村では豆くらいしか食べさせてもらっていなかったのだ。
「気のせいかもしれない」僕は豆の煮込みにパンを浸した。「普通に考えてあんな小さい子がグレイシアの魔法使いなのか。しかも襲ったのは戦艦くらいの教会の船なんだ」
「姿がすべてじゃないわよ。レイもラナイも幻術にやられたわ」
「確かにそうだけどね。でも捕まえたら子どもだ。僕には……」
「生贄」レイは引き継いだ。
「ひどい作戦ね」とウラカ。
同時に爆発が聞こえて、町のどこかががれきになる音がした。数門の砲撃の後、また数門が響いて、衝撃でウラカは食べかけを零した。
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