第11話 染み抜きと口実




「いったい……どういうおつもりですか?」


 賑やかだった広間から離れて静かな廊下を少し歩き、もう人々の喧騒が聞こえなくなったのを確認したところでマリーはネイトに声を掛けた。


 ネイトはマリーの方を振り返らない。

 装飾品のない壁は海のような青色の壁紙が何処までも広がっており、様々な写真が飾られたハワード男爵家との違いを感じていた。



「どうもこうもありませんよ。靴と服を綺麗にする必要がある。メイドに頼んでタオルを貰うので、裏庭で汚れを落としましょう」


「せっかくですが、裏庭まで行く必要はありません。バケツに水でも汲んでいただければ自分で落とします」


 ネイトは立ち止まってこちらを向いた。

 屋内で彼の瞳は藍のような色になる。


「少し話をしたいんだ。君の夫の許可も取った」


「……どこまでも勝手な人ね」


「行動力があるとも言える」


 口角を上げて笑うとネイトはそのままズンズンと歩みを進める。もう一人で戻ることは難しそうなぐらい進むと、やがて小さな中庭が姿を現した。


 人工的に作られた滝の下に魚たちが泳ぐ池が広がっている。建物の隙間から降り注ぐ太陽の光を浴びて、魚たちは悠々と気持ちが良さそうだ。



「………綺麗、」


 思わず溢れた感想を拾って、ネイトは満足そうに笑顔を浮かべる。


「だろう?この辺は水質が良い。王都ではこうも綺麗な水を引けないから、これは越して来て良かった点だろうね」


「貴方は王都から来たの?」


「ああ。伯爵の爵位は国王からもらったんだ。俺はもともと騎士の端くれ、縁があって王様が伯爵にしてくれただけで、育ちは悪いよ」


「でも、みんなは……」


「アイツら上辺しか見えてない。バルンガ伯爵は事情を知っているが、下についてる貴族どもはどうかな」


「領地経営はできるの?」


「一応それなりに勉強はしたよ。付け焼き刃の知識だが、優秀な補佐も居るし、なんとかなるだろう」


 マリーはネイトの言う優秀な補佐が自分の夫であることを思い出し、心の中で溜め息を吐く。


 マイセンに領地経営の才があるとは思えなかった。

 というのも、彼の決定のほとんどは「ママ」の考えで決まる。良い年をしたハワード男爵家の息子が未だに右も左も分からない赤子であることをネイトに教えてあげるべきか、少しだけ心配した。



「マリー、ここに座って」


 言いながらネイトはポケットからハンカチを出す。


 雲のように真っ白な四角い布地が草の上に敷かれ、マリーは言われるがままそこに腰掛けた。放り出した靴の汚れを確かめるようにネイトが触れる。


「汚いわ。自分でするから大丈夫よ…!」


「ワインを落としたのは俺だから」


「タオルさえ貸してくれれば自分で濡らして拭きます。メイドは何処に居るの?」


「ここは滅多に人が来ない秘密の場所なんだ」


「え?」


 思わず顔を上げた拍子に、自分を覗き込んでいたネイトとばっちり目が合った。先ほどまで濃紺だった瞳が太陽の下で淡いブルーへと変化して見える。


「靴とドレスを汚したことは悪かったよ、君と二人になる口実が欲しかった。弁償するから手紙を書いて良いか?」


「………貴方、」


 マリーはいつの日か自分が言った言葉を思い出す。

 酔っ払って嘔吐した挙句、介抱までしてくれた親切なネイトにマリーは後日お金を送ると伝えた。結局その金が受け取られることは無かったけれど、こんな形でしっぺ返しを喰らうとは。


「随分と性格が悪いのね。恨んでたとは知らなかったわ」


「恨んでなんかいないよ」


 草の上に突いたマリーの手が押さえ込まれる。


「領主会議を開けばマイセン・ハワードは妻を伴って参加する。そうしたら君にまた会えると思ったんだ」


「何か言い忘れたことでもあったの?」


 ネイトはパチリと目を丸くする。

 そして考え込むように眉を寄せて暫し沈黙した。



「………困ったな。これは想定外だ」


「なに?どういうこと?」


「まぁ、とにかく。あんなに息苦しいと言っていたハワード男爵家にまだ君が居てくれて良かった。どうかな?その後、もう脱走はしてないのか?」


 揶揄うような物言いにマリーは言葉を詰まらせる。


「私は大人しくすることにしたの。マイセンだって暴力を振るうわけじゃないし、ただお互いに好きなものや性格が違うだけ。夫婦として機能しないことはないわ」


「へぇ、それが君が出した答えってわけだ」


 ネイトは立ち上がって誰かの名前を呼んだ。

 顔を向けると、廊下の隅にメイドが数人立っている。そちらに近付いて何か指示を出すと、メイドたちはせかせかとその場を去り、やがてタオルやブラシを持って帰って来た。


「後のことは彼女たちに任せるよ。ワインの染みが落ちなかったらごめん。結構しつこいかもしれない」


「気に入っていなかったからちょうど良いわ。もう行った方が良いんじゃない?みんな領主様と話したいでしょうから」


「ははっ、中身のない会話がどれだけ続くかな」


 伸びをしてカラッと笑うとネイトは来た道を戻って行った。一生懸命に染み抜きに精を出すメイドたちに囲まれて、マリーはほっと息を吐く。


 慣れない緊張が指先を痺れさせるのが分かった。

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