第7話 心の壁

 会議室のドアが開き、美咲と隼人が並んで出てきた。二人の表情には、以前の緊張感は消え、穏やかな空気が流れていた。


「ありがとうございました、黒川さん」


 美咲が小さく微笑んだ。


「いえ、こちらこそ」


 隼人も優しく返した。

 プロジェクトの危機を乗り越え、二人は再び協力して仕事に取り組み始めた。オフィスの空気も、少しずつ和やかになっていく。


◇◇◇


 数日後、美咲は隼人と資料を確認していた。


「ここの数値、もう少し詳細な分析が必要かもしれません」


 隼人が指摘する。


「そうですね。私が調べてみます」


 美咲が即座に返す。

 二人のやり取りは自然と息が合い、以前の関係を取り戻しつつあった。しかし美咲の胸の内では、隼人への想いが日に日に大きくなっていた。


◇◇◇


 ある日、美咲は偶然、同僚たちの会話を耳にした。


「黒川さん、昔ひどい失恋をしたらしいわよ」


「へー、あの黒川さんが?」


「うん、前の会社の上司と付き合ってて、酷い別れ方したんだって」


 美咲は思わず立ち止まった。隼人の過去の恋愛? それが気になって仕方がない。


◇◇◇


 翌日、美咲は隼人とコーヒーを飲みながら、さりげなく話を振ってみた。


「黒川さんって、付き合ってる人とかいるんですか?」


 隼人は少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「いえ、今はいませんね」


「そうなんですか。モテそうなのに」


「あはは、そんなことないですよ。それに、過去の恋愛でちょっとね……」


 隼人は言葉を濁した。

 美咲は更に詳しく聞きたかったが、これ以上は失礼だと思い、話題を変えた。しかし、隼人の言葉が頭から離れなかった。


◇◇◇


 週末、チームの飲み会が開かれた。美咲は隼人の隣に座り、彼の様子を窺っていた。普段はお酒を控えめにする隼人だが、この日は珍しく杯を重ねていた。


「黒川さん、大丈夫ですか?」


 美咲が心配そうに尋ねた。


「ええ、大丈夫です」


 隼人は少し赤らんだ顔で微笑んだ。

 しかし、酔いが回るにつれ、隼人の表情が曇り始めた。


「佐藤さん」


 隼人が突然、美咲に向かって言った。


「人を好きになるのって、怖いですよね」


 美咲は驚いた。


「え?」


「僕ね、昔…上司と付き合っていたんです」


 隼人は視線を落としたまま話し始めた。

 それは3年前の話だった。隼人は当時の会社で、魅力的な女性上司と出会い、恋に落ちた。社内恋愛を推奨していない会社であったため、二人は周囲の目を気にしながらも、密かに交際を続けていた。


「彼女は本当に素晴らしい人でした。仕事も出来て、優しくて……」


 隼人の目に懐かしさが浮かぶ。

 しかし、その幸せは長くは続かなかった。ある日、彼女は突然、別れを告げたのだ。


「私には家庭があるの。これ以上、あなたとは続けられない」


 その言葉に、隼人は打ちのめされた。彼女には夫がいたのだ。それも、隼人が担当している重要な取引先の社長だった。


「彼女にとって、僕はただの気晴らしだったんです」


 隼人の声が震える。


「彼女は、夫である社長に私との関係を明かしました。僕から彼女に迫ったという形で。結果的に私は仕事も、恋も、すべてを失いました」


 美咲は言葉を失った。隼人の心の傷の深さに、胸が痛んだ。

 酔いが抜けていない隼人だが、美咲の目をまっすぐ見た。


「ですので、もう二度と職場の人との恋愛はできません」


 その言葉に、美咲は自分の胸の痛みを感じた。隼人の気持ちは分かる。でも、自分にも想いがあるのだ。


「……黒川さん」


 美咲は優しく隼人の肩に手を置いた。


「辛かったんですね」


 隼人は小さく頭を下げた。


「……すみません、変なこと話してしまって」


「いいえ、聞かせてくれてありがとうございます」


 飲み会が終わり、美咲は隼人をタクシーに乗せた。車が走り去るのを見送りながら、美咲の胸は複雑な思いで一杯だった。


 家に帰り、ベッドに横たわった美咲は、隼人のことを考え続けた。彼の優しさ、真摯さ、そして隠された傷。すべてを知った今、美咲の想いはさらに強くなっていた。


「癒してあげたい」


 美咲はつぶやいた。


「隼人さんの心の傷を、この手で癒したい」


 しかし、それは簡単なことではないだろう。隼人の心の壁は、想像以上に高く厚いかもしれない。それでも、美咲は諦めたくなかった。


「きっと大丈夫」


 美咲は自分に言い聞かせた。


「ゆっくりでいい。一歩ずつ、隼人さんの心に近づいていく」


 窓から差し込む月明かりの中、美咲は決意を新たにした。明日からまた、隼人と向き合う。そして少しずつ、彼の心の扉を開いていく。

 それは長い道のりになるかもしれない。でも、美咲には隼人を想う気持ちと、彼を幸せにしたいという強い願いがあった。その思いが、きっと二人を結びつける力になるはずだ。

 美咲は目を閉じ、隼人の笑顔を思い浮かべた。いつか必ず、その笑顔から全ての影が消え去る日が来ることを信じて。

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