Day18 蚊取り線香
吾輩は豚である。名前はまだない。
夏季、主人の居宅へ侵入しようとする、あるいは侵入せしめた外敵に対し、我が体から吐き出す煙を以て守護するのが使命であったが、後進に道を譲り、老兵はスーパーの買い物袋に包まれて暗闇に住まうこと幾年。今年は出してくれるかしら、とは木箱の中の隣人である。それは無理だろう、と言うと、埃をかぶったオセロ盤が「なぜ」と目を白黒させた。
「我らは老兵。過去の功績を夢見て主に縋りつくなど……」
言葉を止めた。暗闇の向こうに気配がする。頑なな事を言ったが、自分とて再び世に出ることを夢見ないわけではない。けれど現実とは酷である。電気によりスマートに敵を排除する後進を目の当たりにした衝撃は未だに忘れられない。あれに敵うことは一生あるまい──と、暗闇に光がさす。まさかと期待を込めて穴だけの目を向けると、小さな暴君が手を伸ばした。
途端、吾輩は転がり落ちた。皆が悲鳴を上げる中、すのこの上で止まった体は奇跡的にも割れずに済んだ。暴君の攻撃は止まらない。スーパーの袋を鋭い爪でひっかき、はがし、露わになった吾輩の体を小さな手でつつきまわす。
「やめんか、その毛だらけで触られるとくしゃみが」
声が届いたのか、暴君は動きを止めた。ほっとしたのも束の間、今度は我が口に頭を突っ込む。すんすん、とピンクの鼻を鳴らし、その小さな体を滑り込ませてむこうへ行ったりこっちへ行ったり。その内に、体を丸めて落ち着いてしまった。
「あっ、いた」
久方ぶりに聞く主人の声に幼さはなかった。大きくなられましたね、ですが今はこの無様な姿を見ないでいただきたく……
「ねえ、お母さんほら見てよ。これかわいい」
えっ、と暗闇の中で一同が息を飲む。吾輩は心の中で目を見開いた。もう一人の主人が現れ、ほんとだと笑う横でかしゃりと何かが落ちる音がした。主人の持つ薄い板から聞こえたような。
「これもう蚊取り線香入れたりしないでしょ? この子の家にしない?」
「いいわよ。でも家というか寝床みたいだけど」
いいの、と主人の手が恭しく吾輩を持ち上げる。
幾年ぶりの光、幾年ぶりの主人の手、幾年ぶりの風、背中に仲間たちの声援を聞きながら、吾輩は新たな門出に胸を躍らせていた。
吾輩は豚である。名前は、チョコちゃんの家である。
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