花盛り

あれから寸刻、山肌が暮相に染まった頃。

食事を作ったので食わせてやろうと九重の部屋を訪ねると、開け放たれた窓から霜風が吹き込んできた。

部屋の中を見回すもそこに九重の姿は無く、もぬけの殻だった。


「あの餓鬼め……病み上がりで外に出るのは危険だと言っただろうが……。」


昨晩は綿雪が降ったので足元も悪いはずだが、山の散策にでも出かけたのだろうか。何処かの崖から滑落して骨でも折っているんじゃああるまいな。この寒さの中、出血しようものならすぐに凍えてしまうだろう。


「まったく、世話がやける小僧だ……。」


九重に渡した札は、俺の魔力をたっぷりと吸っている。少し意識を集中させ、念を送れば共鳴し、居場所が分かる仕組みだ。

放っておいても良かったが、何やら妙な胸騒ぎがした。仕方がないので、念の為様子を見てやろうとした時だった。


「……念が、届かん。」


俺は一瞬で九重の身に何かが起こったことを悟った。同時に、全身から血の気がひいていく。これ迄、どれだけ離れていようとこの念が届かなかったことは無い。

否、「届かない」というよりは、「何処かへ消えていく」ような感覚。

それも、俺が感知できないほどの遠方へ。


「九重……っ!」


とにかく居場所を探らなければ。九重を初めて見つけた時と同じように、砦の裏に生える大桜の根から山の様子を伺う。あの妙な気を撒き散らしていればこの山の何処にいようと感知できるはずだ。そのはずだった。


────居ない。


では、他の山は。もしかすると他の鬼のところへ行ったのかもしれない。捜索範囲を拡大し、精神を統一する。

壱ノ山、弐ノ山、參ノ山、肆ノ山、伍ノ山、陸ノ山、漆ノ山……。


居ない。


居ない。居ない。何処にも。


山にも、空にも、川にも。


九重が居ない。


「……っどういうことだ!一体何故……!」


「花筏。」


不意に名前を呼ばれ、振り返った。聞き覚えのある、落ち着き払った声だ。


「……苺雲。」


そこに佇んでいたのは苺雲。俺の三番弟子だった。恐らく俺の乱心にいち早く気付き、案じて来てくれたのだろう。師のこのような姿を見せてしまい、面目ない限りだ。だが、奴は五感が鋭く、獲物を臭いで追うこともあった。第六感の才もある。何か知らないかと、藁にも縋る思いで苺雲に問う。


「っ……九重を、見なかったか。今朝まで、捌ノ山の砦に居たんだが、突然っ……居なくなった。何でもいい、知っていることや、分かることは無いか。」


苺雲は、真っ直ぐと射抜くような視線を下に落とし、ゆっくりと首を横に振った。


「……花筏、お前に分からないことは俺にも分からない。それはお前が一番解っているだろう。」


───そう、この花筏こそが八仙山の長。

この山のこと、この山で起きた出来事も、全て把握しうるのは俺だけだ。そんなことは解っている。

だが、その俺でさえ見つけられないのだ。


「───っ……!」


万事ことごとく休す。

俺はその場に立ち尽くす他なかった。

そんな様子を見かねてか、苺雲が口を開く。


「……九重、といったか。そいつとは何処で会ったんだ。出会いの場所に行けば、もしかすると何かが分かるかもしれない。」


「出会いの場所……。ああ、そうか、覚えている。川の下流、雑木林の近くだ。そこに大穴があいていて、奴はそこに居た。」


「……向かうぞ。」


弟子に導かれる日が来ようとは。俺もまだ未熟者だということか。それとも、苺雲が逞しく育ったのか。

大きなその背中を頼もしく思いながらも、共に川の下流へと向かった。

見ると、その大穴の中は空で、生き物の気配も無かった。


「……何も居ないようだな。」


「……いや、待て。かすかに妙な瘴気を感じる。九重と出会った時と同じものだ。もしかすると、この辺りに何か手がかりがあるのかもしれない。」


「瘴気……?俺には感じないが……。」


「非常に微量だ。この山の主だからこそ、分かるようなものだ。しかし、お前がいざなってくれなければこれにも気付かなかっただろう。感謝するぞ、苺雲。」


「……。」


苺雲は淡い安堵の表情を浮かべ、いつものように口を閉ざした。

ほんの一筋の希望だが、弟子が見出してくれた糸口だ。掴まずして何が師か。


俺はその晩から、一睡もせず、九重の捜索に尽力した。弟子達は俺の身を案じて食事を持ってきたり、俺の山の面倒を見たりと、協力してくれた。


「花筏、少し寝た方がいい。」


「腹が減っては見つかるものも見つからんぞ!」


「休養が肝心だと、お前が教えてくれたんだろう。」


弟子たちは口々に、休んだほうがいいと声をかけてくる。勿論それが最善手であることは百も承知、二百も合点だ。だが、九重の発言や現場の状況などから出した俺の推測が合っているならば、この「妙な瘴気」は異世界から漏れ出ているもの。つまり、九重は何かの拍子に異世界からこちらに紛れ込み、また異世界へ帰ってしまったのではないか。

いや、帰ることが出来ていたらまだいい。もし未だに此処でも故郷でもない妙な異世界を彷徨っていたとしたら、九重が無事だという保証は無い。そして、あの九重が自力で帰る方法を見出すのは難しいだろう。ならば異世界と繋がる可能性の高いこの土地で念を送り続け、九重に道を示す他ない。

奴が苦しみ続けているかもしれない中、一刻も無駄にはできなかった。


───いや、そんな考えは建前かもしれない。我ながら馬鹿らしい。あれだけ突き放しておいて、あれだけ辛く当たっておいて、いざ居なくなればこのざまか。きっと今、床につこうとしたところで一睡もできない。食事をとろうとしたところで一口も喉を通らないだろう。俺は元より、この命尽きるまで九重に念を送り続けるしかない。


ただ、それ程までに奴が恋しいだけだった。

また逢いたい、それだけだった。

ここで諦めたとて、このまま続けたとて、この想いは哭恋となるのだろう。齢八千の老体になって、身を焼くほどの愛を知るか。悪くない一生だ。


「九重……。」


もうこの名を呼ぶのも何度目か分からない。

喉は渇き、声も枯れてきた。目も十分に開けられない。それでも瞼の裏には、お前の笑顔が焼き付いている。その瞳が、その髪が、その声が鮮明に思い出される。匂いまでも……。


「……匂い……?」


僅かだが、たった今、確かに九重の匂いがした。


一気に心臓が早鐘を打つ。九重の匂いがするということは、この異世界の「穴」の周辺に九重が近づいたということ。俺は間髪入れずに今までで最大の念を送った。


「気付け、九重……!」


束の間に、目の前の大穴から水が吹き出した。

その場の全員が、予想もしなかったことに目を見張った。


「何だあ!?新手の余興か!?源泉でも当てたか!?」


頓狂な声で騒ぐ七宝柑。


「凄い勢いだなあ。花筏、お前がやったのか?」


慌てず冷静に問う五色米。


「……………………。」


何を思うてか思わずしてか、絶句する苺雲。


吹き出した水柱は崩れ、辺りに散らばった。そしてその中央に、人影がひとつ。


「……っ……。」


言葉が出ない。目が離せない。ただ、震える手を伸ばした。


「ぶはぁー!!!げほっ、げほっ、ごほ、……はぁ、は……し、死ぬかと思っ……………あれ…?」


少し生意気だが、底無しに明るく、耳に残る声。


「………………!!」


視界が曇る。それでもはっきりと眼に映る白。


「花筏……!?」


その口が動いた瞬間、花を台風から守る子どものように、九重をこの胸に納めた。


「九重……っ……!」


「えっ、なんっ……!?お、おい、花筏っ……!」


「………………遅い。」


枯れた声で、その一言を絞り出す。

九重は笑いながら俺を抱き返した。


「……悪かったよ、道に迷っちまってな。」


九重の高い体温が、身に染みた。

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