七分咲き

あれから幾度も虧月きげつが訪れ、木々の葉に霜が降りる季節となった。


「花筏ぁ!今日は寒いし修行はやめとこう!?早く帰って暖かいご飯食べてゆっくりしようぜ!!」


捌ノ山はちのやま随一の大瀑布、『枝垂滝しだれだき』の上滝で、情けなく喚いているのは九重。


「ふん、軟弱者め。この気温だからこそ修行が捗るというもの。今日はいつもより長めに稽古をつけてやろう。」


「は!?嘘だろ!!凍え死んだらどうするんだよ!?」


「これくらいで死ぬようならそこまでだ。現に今までの修行でも貴様を死なせたことはないだろう。」


「いっつもあと一歩で死ぬってところでしか助けてくれねえじゃねえか!」


「植物も動物も、死を覚悟したその瞬間に強くなる。存分に生死を彷徨え。」


「この鬼畜爺〜!!!!!!!!」


「ぬかせ餓鬼。貴様が俺に稽古をつけて欲しいと言ったんだろうが。早く帰って暖かい飯が食いたいのなら、さっさと滝底から這い上がってくることだな。」


そう吐き捨てると、九重を滝底へと蹴落としてやった。

九重が悲鳴を上げながら瀑布に飲まれてゆくのを見守ったあと、背後の気配へと話しかける。


「五色米、何の用だ。」


「……今日も坊主虐めに精が出るなあ、花筏。」


「質問に応えろ。」


「いやなに、面白い実が山に生ったので、差し入れを持ってきただけだ。」


「……下手な嘘はいい。数日前から何かと理由をつけては訪ねてきおって……どういう心算だ。」


「はっはっは、そう角を増やすな。……最近のお前は心穏やかでは無さそうだからなぁ。何かあったのかと、弟子なりに心配してのことだ。」


「……弟子に心配される程、落魄れてはいない。放っておけ。」


「そう言うと思って、何もしとらんのさ。」


こいつは昔から、妙に勘のいい奴だった。

五色米の言う通り、近頃の俺は心穏やかとは言えない。原因は……。


「あの坊主だろう。」


ぼちゃん


持っていた哪吒なたが滝底へ落ち、九重のすぐ横に刺さった。

何が起こったのか理解した九重が、勢いよくこちらを睨めつけ、喚く。


「お前、ふざけんなよ!流石にこれは無いだろ!本当に死ぬって!」


「……手が滑った。」


「はぁ〜!?」


真実だ。


「はっはっはっは!お前が手を滑らせるとは、随分とご執心のようだなあ。」


腹を抱えて笑う五色米に一瞥をくれてやる。


「おっと、癇性かんしょうな年寄りは嫌われるぞ。」


「……ふん、あんな拾い子に特別な感情など無い。杞憂だったな。」


「あんな札を首に掛けさせておいてか。」


五色米が九重の胸元を見やる。そこには俺が胸に掛けているものと同じ札があった。

数ヶ月前、何かあった時のためにと魔力を込めた札を持たせてやったのだ。それを九重は肌身離さず毎日首にかけている。


「……目敏いやつだ。知らぬところで野垂れ死にでもされれば寝覚めが悪いからな。他意はない。」


「くく、花筏……嘘をつくのが下手になったか?」


「……お前、一番弟子だからと甘く見てやっていれば……。」


「なに、一番弟子だからこそ、師の力になろうと……。」


「帰れ。お前に話すことは無い。」


五色米が並べ立てる体のいい言葉を遮り、その冴えた目から逃げるようにして大岩の上へと跳びうつった。


「……全く、筋金入りの頑固さは健在のようだなあ。」


五色米はそう言うと、大きな背中を見せて帰っていった。


一方、九重は滝の端の岩場によじ登り、縮こまっている。


「お、おい、花筏っ!もう無理だってっ!早く帰ろうぜ!な!助けてくれよぉ!」


「……。」


まただ。


濡れた服に透けた肌、悴んで赤くなった鼻や頬、髪から滴り落ちる水の一雫まで、こいつの何もかもが俺の視線を奪った。


この感情が何かを俺は知っている。

紛れもなく「恋情」だ。

何に惹かれたのか、いつそうなったのかも、全て答えられる。それ故、理解しきっても尚、払拭できないその感情に手を焼いていた。


「帰りたければそれなりの気概を見せろ。このくらいで音をあげるなど、まだまだ生ぬるいわ。」


「く、くそぉぉ!」


近頃、五色米が俺の山に足蹴く訪れている理由は概ね想像できる。

「鬼でもない九重を相手に、やり過ぎだ。」

「そう手厳しいと嫌われてしまうぞ。」

と、そんなことが言いたいのだろう。


嘗められたものだ。関係を築くのが下手な老人とでも思われているのか。いや、若い衆の眼にはそう映っても仕方の無いことなのかもしれん。


想い人に態々嫌われようとする胸懐など、理解しがたいものなのだろう。

それでも俺は、いっそ嫌ってくれれば良いと、諦め去ってくれれば良いと願っている。


────このまま此奴の死に目に合うくらいならば。


*


その宵、九重は風邪をひいた。


「ぶぇぇっくしょぉぉい!!」


七宝柑ほどでは無いが、随分と豪快なくしゃみが山に響く。


「……喧しいくしゃみだ。もう少し慎ましく風邪をひけ。」


「お前!誰のせいだと思って…は、は……はっくしょいいいぃぃ!!!」


「……このくらいで風邪をひくようならお前は修行に向いていない。やはり諦めて家に帰るべきだろう。」


辛辣な言葉が口を衝いて出る。


「はあ?このくらいの風邪、どうってことねえよ。ま、ひでえ修行だけど結果は出てるし、ここは食いものも美味いからな!暫くはここに居座らせてもらうぜ!」


「……はあ。」


その言葉に、安堵とも、憤りともとれない溜め息が出た。


「何だよ!だって、帰り道も見つからねえし!飯が美味いし…!」


「貴様、飯のことばかりか。」


「う、うるせえ!大事だろ食いものは!……それとも、俺が居たら、迷惑か……?」


不安げにぽつりと尋ねる九重は、蝋燭の光を眼に孕ませ、縮こまった様子でこちらを見詰めていた。


「………………ふー……好きにしろ。」


これに関しては煮え切らない俺も悪い。

しかし、行く宛ての無い迷い人を突き放せるほど鬼にはなれなかった。


「明日は休暇をやるから安静にしていろ。いつまでも俺の治癒術に頼ってばかりでは自己治癒力も下がる。偶には風邪くらい自分で治してみるといい。」


「え!?治してくれねえのかよ!?」


「……治してやってもいいが、それならば休暇の話は無しだな。」


「えっ……くそ、分かったよ、治せばいいんだろ!」


九重はそのままふて寝し、朝まで大きないびきを響かせるのだった。


翌朝、九重はすっかり元気になっていた。


「おうい、花筏!見ろ!もう完全復活だぞ!体が強くなった証拠だな!」


「そうか、それは良かったな。では修行にでも行くか。」


「いっ!?いや、今日は一日休暇のはずじゃ……」


「完全復活なんだろう。療養のための休暇だったからな、もう必要無い。」


「あー……いやあ、待てよ、まだちょっと頭が痛い気がするな……ごほ、ごほ、あ、咳も出てきたし、やっぱり寝ておこう……。」


「……ふん、冗談だ。まだ病み上がりだろう。一日しっかりと休んで明日に備えろ。」


「!……なんだよ、優しいところもあるじゃねえか!へへ!」


嬉しそうにはにかむ九重は、朝日よりも眩しく、俺の薄黒い劣情をより際立たせた。


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