五分咲き
日も落ちて、春容は闇に身を隠した。
酒と肴を並べて弄月に浸るような宵。
風韻なき声が響く。
「叱咤激励だああ!」
「ひいい!」
九重を滝から落とそうとしている七宝柑と、その腕に必死でしがみつく九重である。
「無理だって!俺鬼じゃないし!死ぬう!」
「わっはっは!死ぬ前に助けてやると言っているだろう!お前も中々強情なやつだ!!」
「絶対その前に死ぬから!うわぁぁ!」
無慈悲にも、泣き叫ぶ九重を放り投げる七宝柑。
「七宝柑、奴は鬼人ではない。あまり無茶をさせると本当に死ぬぞ。」
俺は軽く咎めるように一声かけた。
「わっはっは!何だ花筏ぁ!お前も丸くなったものだなぁ、昔は血も涙もない鬼だっただろう。大丈夫だ!いざとなれば花筏の術で救命出来るだろう!」
「そうなる前に貴様の念でなんとかしろ。」
「まあ、そのつもりだったが……見てみろ花筏!奴は言うほど貧弱でも無さそうだぞ。」
七宝柑に誘われ、落ちていった九重の方に目をやる。そこには、瀑布を掻き分けている岩を足場に、うまく身を翻しながら落ちていく九重の姿があった。粗削りではあるが、其の身のこなしは幾度かの経験を経て身についたものだと分かる。
「……ほう。唯の生意気な餓鬼かと思っていたが、やはり何かありそうだな。」
意外なものを見せられ感心していると、最後の小岩で足を滑らせたらしく、九重の体幹がぶれた。
「おっ、とっ、とっ……う、うわぁ!」
ぼちゃん
無様な音を立てて滝壺へと飲み込まれる。
「……気のせいか。」
阿呆面を晒す九重を肴に、盃にうつった月を呑み下した。その様子を見てか、九重は恨めしそうに俺の方を睨めつけている。
「おい!全然助けてくれないじゃねえか!どうやってそこまで登るんだよお!」
「こうやって見下すのも二度目だな。人に助けを乞う時の態度は教えてやった筈だが。」
「く、くっそお……俺は嫌だって言ったのに無理矢理落としたんだろお!」
「……だそうだ、七宝柑。」
「わっはっは!これが八仙角流の持て成しだあ!これでお前も我らの仲間よお!」
「普通仲間にこんなことしないからな!?」
「はっはっは、七宝柑、花筏、揶揄うのはその辺りで勘弁してやれ。まだ子どもだろう。」
五色米から放たれた深みのある声が響き、九重は滝壺から掬いあげられた。其の逞しい腕に抱かれる様を見ていると、九重が一層小さく見える。
「はぁ、はぁ……だから、俺は、子どもじゃねえって……!で、でもありがとう…五色米さん…。」
べしゃりと俺の前に崩れ落ちた九重は、肩で息をしながら震えていた。片側だけ長く垂れた髪から水が滴り、敷布を濡らす。
宴の席が台無しになる前にと、春風を纏わせ、水気を切ってやった。
「うおっ……さっきまでずぶ濡れだったのに、もう乾いた…!?なんでだ!?」
「さて、歓迎の儀も済んだ。一先ず、『子どもではない』という言い分も含め、お前の素性を明かしてもらうこととしよう。」
「す、素性……って言ってもなあ。自分が住んでた村で、見張りをしてたんだけど、見張り台から川に落ちちまって、気付いたらあの穴の中に居たんだよ。」
「……ふん、疑問が多い話だが、ここに来た経緯は分かった。お前の生い立ちや生態、その村についても話してもらおうか。」
「生い立ち……!?え、えっと、あんまり記憶にないんだよなぁ、ははは。気付いたらこうだったというか……。生態……、生態ってなんだよ!?」
「お前の種族の特徴や、食生活、文化まで全て教えろ。」
「な、何でだよお!?なんか怖いぞお前!」
「はっはっは、九重、そう怯えなくともいい。こいつは知らないことを聞くことが好きなんだ。お前のような珍しい者に出会って少々興奮しているらしい。花筏も加減してやれ。」
怯えた様子の九重を見て、五色米が口を出す。
続いて、七宝柑も口を開いた。
「そうだぞ花筏!酒と肴でも渡しておけば勝手に喋るもんだ!なあ苺雲!」
木の枝に潜んでいた苺雲が、無言のまま弓を引き、川の方へ射た。五矢全て魚に命中。それを七宝柑が念で席まで運び、火にかける。
「うおお!?何だよ、誰かいるのかよ!?す、凄い弓の腕だな!?」
「苺雲ぉ!お前も降りてこい!今日は無礼講だ!わっはっは!」
寸秒後、俺の後ろに立っていた苺雲を見て、九重が腰を抜かした。
「うわぁあ!!」
「これは苺雲だ。口数が少ないが、悪い奴ではない。弓の腕は慥かだ。」
それを聞き、九重が丸い瞳を輝かせた。
「ゆ、弓…!さっきの弓を引いたのはあんたか!苺、雲さん?凄いな!俺に教えてくれよ!」
弓に興味があるのか、苺雲に教えを乞い、矢継ぎ早に問いを重ねる九重。
一方、苺雲はというと、慣れない者からの積極的な接触に、応え倦ねていた。
「九重、俺は貴様の話をしろと言ったはずだ。席へ戻れ。」
「ええ〜!何だよ!少しくらい良いじゃねえか…!」
「わっはっは!二人ともそう急くな!九重も、弓に関心があるのなら苺雲の師に指南してもらうといい!」
酒を一壺呑みきり、すっかり酩酊した七宝柑が要らぬ口を出す。
「えっ、苺雲さんの師匠!?そんな凄い人もいるのかよ!?一体どんな人だ!?」
「……。」
その場にいる弟子共の視線が一点に集まる。
「……え?」
えええええええええええ!?
と、耳を劈くような声が夜山を走り、木々が騒いだ。
「……はあ、喧しいという言葉を形にした様な男だ。」
その騒々しさに呆れながら杯を煽る。
「なっ、えっ、だ、だって……!花筏が苺雲さんの師匠!?信じられねえ!」
「苺雲だけではないぞお!ここに居る鬼共は皆、花筏に拾われ、仕込まれてきた者だ!」
「ここでは一番の老儒だからなあ。何か分からないことがあれば、花筏に聞くといい。」
七宝柑と五色米がやいのやいのとあれこれ述べたてる。苺雲はそれを聞きながら静かに頷いていた。
「……もういい。兎に角、俺がこの山々を治めているということは分かっただろう。郷に入っては郷に従ってもらう。」
「く、くそぉ……。わかったよ!聞きたいことは何でも話す!その代わり……俺にも稽古つけてくれよ、花筏!」
「……ふん、助けてやる条件として貴様が喋るのだろうが。話が通じん餓鬼だ。……まあいい。その生意気さ、叩き直してやろう。」
「が、餓鬼だと!?おい、もっぺん言ってみろクソジジイ!」
「子どもではない」と抜かすその男の笑顔は、やはり未だ幼く、同時に春の萌芽のような快活さを孕んでいた。
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