第12話 えむ視点

「ねえ、今日もハグしていい?」


小林さんの部屋の中、いつもの様にベットに並んで座って、本を読んだり、ゲームをしたりして過ごしていると、小林さんがそう聞いて来た

ドキッと心臓が大きく跳ね上がる


「うん、いいよ」


出来るだけ普段通りに過ごしていたけど、部屋に入ってからずっと、今日はいつ言われるんだろうとドキドキしていた

そもそも、小林さんのおうちで過ごす時の小林さんの格好は卑怯だ。外に出ないからか、部屋着のままで、薄めの生地のショートパンツと胸元が少しゆったりしたTシャツを着ていて、色々我慢するのが大変だった


だから私は、緊張する気持ちと、待っていた瞬間が来たことへの喜びを感じながら、両腕を横に広げて小林さんを受け入れる


私の腕の中に、すっぽりと小林さんが収まる

少し高い体温が、柔らかい体が、私の体と頭を溶かしていく

何回しても、私はこの行為に慣れそうになかった



小林さんの部屋に初めて来てから10日が経った

その間、土日以外は毎日ここに来て、毎日こうしてハグをしている。毎日10分くらい。いつやるかは日によって違った

一番最初にハグをしようと言ったのは私だったけど、それ以降はずっと小林さんが言ってくれている


本当は、私はもう小林さんとハグをするつもりがなかった。あの日だけで終わりにするつもりだった

小林さんとハグをするのは好きだし、ずっとしていたいという気持ちはあるけど、こんなことをしていると、私の中の気持ちがいつかあふれ出してしまうだろうと思ったから


というか現に今も、私は私の衝動を抑えるのに必死だ。ここが小林さんの部屋で、ベットの上というのも良くない。このまま小林さんを押し倒したくなる。唇を奪いたくなる


でも小林さんからハグを求められてしまったら、私は断ることができない。ハグをしたいという欲求をぎりぎりのところで我慢しようとしていた私は、小林さんが優しく背中を押すだけで、簡単に欲求に飲み込まれてしまう。そしてまた、別の欲求に飲み込まれないように耐えている


小林さんはどうして、毎日私にハグをしたいと言ってくれるのだろう

そのことがずっと気になっている。こんなことを毎日していると、私はどんどん期待してしまう。小林さんにもっと触れたいという欲求がどんどん私の中に溜まってしまう。もう我慢の限界はそこまで来ていた


「ねえ、小林さん」

「ん?」

「どうして小林さんは、私とハグがしたいの?」


好きって言う勇気も、押し倒したりする勇気もない私は、遠回しに聞くことを選んだ

ないだろうけど、私のことが好きだからって、小林さんが言ってくれることを少しだけ期待して


「んー、安心するからかな」

「安心する...」


そしてその少しの期待は、予想通り裏切られた

確かに私も安心感を少しは感じる

でも私の場合は、緊張だとか喜びだとかがそれを上回ってしまう

安心するというのが喜ばしい反応なのかどうか、よくわからない

安心してくれるのは嬉しいけど、私のことを意識してくれていない証拠のような気がして、素直に喜べない


「私さ、私が1歳の時に両親が離婚してて、お父さんと2人でここに住んでるんだ」


小林さんの答えについて考えていると、いつもと変わらない様子で小林さんがそう言った

すごく唐突に感じたし、話題が話題だったから驚く


今まで小林さんからそういう話を聞いたことはなかった


きっとお互いに家族の中に問題を抱えていることはわかっていたけど、そこには踏み込まないようにしていた


「お父さんは私に結構厳しいし、お母さんに甘えたような記憶もなくて、だからこういうのに憧れてたんだと思う」


1歳からお母さんがいない生活。それを私は上手く想像することが出来ない。あんな両親だけど、お父さんは仕事をちゃんとしていて、お母さんは家事をしてくれている。そのどちらかが欠けてしまったら、私の家はちゃんと機能するのだろうか。いや、今もちゃんと機能しているのかは怪しいけど、もっとひどいものになりそうな気がした


それを想像すると怖くなる。きっとすごく大変だっただろう。お父さんとあまり仲が良いようにも見えなかったし、そうなるとなおさら

そう思うと思わず、小林さんを抱きしめる力が強くなってしまった


「いつでも私が抱きしめてあげる」

「ふふ、ありがとう。上井さんも抱きしめて欲しい時ない?」


小林さんが寂しい時、抱きしめて欲しい時は、私が抱きしめたい。そう思った。その気持ちを少し恥ずかしいと思いながら口にすると、小林さんから予想外のことを聞かれた


私が抱きしめて欲しい時。私はいつだって小林さんとこうしたいと思うけど、そういうことじゃないだろう

思い浮かぶのは、両親が喧嘩をしているとき、部屋でイヤホンをつけて、ベットの上で丸くなっている自分のこと

ああいう時に、小林さんが近くにいてくれて、抱きしめて、大丈夫だよって言ってくれたら、きっとすごく安心できると思う


喧嘩している最中じゃなくてもいい。2人が喧嘩しているのを聞いていると、私の中の何かが欠けていくような気がする。2人が喧嘩をした翌日にこうしてハグをしていると、その欠けたところが埋まっていくような感覚になる。虚無感がなくなっていく


「ある。お父さんとお母さんが喧嘩してた時とか」


たぶん、小林さんもそのことを思って言ったと思ったから、私も気にせず両親の喧嘩のことについて触れた


「そっか。いつでも抱きしめてあげるから、ちゃんと言ってね」

「うん」


こうして、私と小林さんの間に不思議な約束が結ばれた

たぶんいつもより少しだけ長くハグをした後、いつも通りの時間を小林さんの家で過ごした

そしていつもの時間に私は小林さんの家から出て、自宅までの道を歩いた


夕方の6時だけど、まだ明るい。だけど昼間よりは心なしか涼しくなった空の下を歩きながら、今日のことを考える


結局、小林さんは私のこと、どう思っているんだろう?

たぶん友達としては、それなりに小林さんの中で高い位置にいると思う

間違いなく、夏休みは私と過ごしている時間が一番長い。きっと一番仲が良さそうだった斎藤さんよりも。それはたぶん、斎藤さんが部活で忙しいせいってだけじゃない


問題は、この関係の先に、私が期待するような恋人の関係があるのかということ

あると思いたい


たぶん私は、小林さんの特別な人にはなれていると思う

きっとハグをするのは私くらいだと思うし、今日した約束も、私たちの関係をより特別なものにしたと思う。小林さんが私とハグすると落ち着くと言ってくれたことも、私のことを心配してくれたのも、嬉しかった


だけど、やっぱり不安だ。考えれば考えるほど、どんなに仲良くなっても恋人にはなれないような気がする


約束が嬉しかったのは本当だけど、ああいう約束が出来たのは、小林さんの中に恋心がない証拠のような気がしてしまう

ハグで安心感を感じると言っていたのも、同じような理由な気がする。子どものころからお母さんがいなかった小林さんはお母さん的なものに憧れていて、私はお母さんの代りなのかもしれない


どんどん私の中から、小林さんと恋人になれるかもしれないという希望が消えていく


もしかしたら、私と小林さんの関係は、ずっとこのままかもしれない。偶にハグをするちょっと変わった友達関係


私はずっと、この胸が弾けそうな苦しい気持ちと共に生きていくのかもしれない。小林さんに全く会わなくなれば感じなくて済むかもしれないけど、そんな選択は取れそうにない。さっき小林さんの家を出たばかりなのに、もう会いたくなっているくらいだから


きっと私は、小林さんに無害な自分を演じて、少しだけ特別な友達という立ち位置を維持することしかできないのだろう


そんなことを思うと、明日小林さんと会うのが楽しみな感情に、少しだけ憂鬱な感情が混じった

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