恋愛万華鏡

菊池昭仁

恋愛万華鏡

心中志願

 春の陽だまりを浴びて、私と聡美は海辺を裸足で歩いていた。

 私と聡美はこの海が好きだったがお互いに忙しく、海に来るのは久しぶりだった。


 聡美のフレアスカートが揺れ、さざ波とシンクロしていた。

 ダイヤモンドを散蒔ばらまいたように煌めく夕暮れの海。

 彼女は美しい亜麻色の髪を潮風に解き、私を見つめて言った。


 「ねえ、一緒に死んでくれない?」

 「いいよ」


 聡美は悲しそうに笑った。

 聡美は人妻だった。


 私たちは出口のない恋愛に手をつなぎ、黄昏の海を彷徨い歩いた。

 このまま時間が止まればいいと願いながら。

 



ネオンの海を泳ぐ 2匹のランブル・フィッシュ

 「ほっぺが落ちちゃいそう! やっぱり『魚門』の中トロは最高!

 ありがとう山ちゃん! ミュウちゃん、凄くしあわせー!」

 「良かったな? どんどん食べて、ジャンジャン飲め」

 「それじゃあ遠慮なく。大将、ウニとカッパ巻ね!」

 「あいよ! ウニとカッパね!」



 歓楽街の寿司屋は下心でいっぱいの同伴客たちで賑わっていた。

 そして俺もその中のひとりだった。


 ミュウは『マンハッタン・カフェ』のナンバーワン・キャバ嬢だった。

 ルックスもプロポーションもトークも性格も、すべてにおいてミュウはナンバーワンだった。


 だが、私が彼女に惹かれた1番の理由は、時折見せる彼女の寂しい横顔にあった。

 いつも私を楽しませてくれるミュウだが、その横顔がいつも気になっていた。



 食事を終え、下に降りるエレベーターを待っていると、


 「あー、美味しかったー。ごちそうさまでした。

 ほら見て見て、お腹ぽっこりになっちゃった」


 ミュウは自分の臍のあたりに私の手を導いた。


 

 「ホントだ」

 「でしょう? どうしよう、こんなんじゃホテルで脱げないよ。うふっ」

 「脱がなきゃいいだろう?」

 「そうか? そのまますればいいか!

 じゃあ決まりー! 早く行こう! ホ、テ、ル」

 「これから店に同伴じゃなければな?」

 

 俺は笑って彼女のリップサービスに応えた。

 すると彼女は私に抱きつき、耳元で意外なことを囁いた。


 「今日はお店に行かなくてもいいんだよ。今日はお休みしたの、お店・・・」



 エレベーターに乗ると、ミュウは私に熱いキスをしてくれた。

 それはトロリとした上質のブランデーのようなキスだった。


 私はキスをしたままそっと手を伸ばし、エレベーターのドアを閉め、1階へのボタンを押した。



 1階に着くまでの間、私はミュウの腰に手を回した。



 1階に着き、ドアが開くと目の前にはネオンの海が広がっていた。



 私たち2匹のランブル・フィッシュ闘魚はネオンの海に泳ぎ出して行った。


 お互いの寂しさを埋める闘いに向かうために。




エリーゼのために

 「遼もピアノ、弾けるんだね?」

 「これしか弾けないけどな?」


 私は美佳子の家のピアノで、『エリーゼのために』を弾いてみせた。


  

 「本当はベートーヴェンの楽譜には「テレーゼのために」と書かれていたらしい。ベートーヴェンの酷い癖字のおかげで「T」が「E」になって見えたらしい。

 テレーゼ・マルファッティはベートーヴェンと付き合っていたようで、彼女の書類の中から発見されたその楽譜は、彼女のために作曲された物だと思われていたが、最近になってドイツのある音楽研究者がこの曲はテレーゼのためではなく、オペラ歌手のエリザベート・レッケルのために書かれた物だと主張した。

 つまり『エリーゼのために』で誤りではなかったという話だ。

 エリザベートのドイツ語圏での短縮形は「エリーゼ」だからね?」

 「へえー、知らなかった。

 私、この曲好きよ。

 単純な主題でもいろんな技巧が試される曲でもあるわよね?」

 「ベートーヴェンは凄いよな? 彼のエリザベートに対する切なくて複雑な想いが込められている。

 ピアノの詩人がショパンなら、ベートーヴェンはピアノの恋愛小説家だ」

 「どうして?」

 「彼女は既に作曲家と結婚していた。ベートーヴェンのエリザベートへの果たせぬ深い想いがこの曲には込められていたはずだ」

 「ねえ、アンコールしてもいい?」

 「イヤだよ、ミカの方が上手いくせに。お前が弾けよ」

 「しょうがないなあ、じゃあ弾くね? 遼のために・・・」



 美佳子はピアノの前に座り、彼女の美しい白い手が鍵盤に踊った。

 レースのカーテンから差し込む午後の気怠い光に包まれて、美佳子は『エリーゼのために』を弾いた。


 美佳子が弾く『エリーゼのために』は、私の心を抉った。


 そう、私もまたエリザベートと同様、私にも伴侶が存在していたからだ。

 美佳子は何度も『エリーゼのために』を弾いた。


 彼女は泣いていた。




コートの下は

 凍える雪の降る深夜、彩からLINEが届いた。


 

    今すぐ迎えに来て



 相変わらず気まぐれで我儘な女だと思った。

 時間も私のこともお構い無し。すべて自分中心の女だった。


 男はアホだとつくずく思う。

 だが私は彩に振り回されるのはイヤではなかった。


 私は彼女の家にクルマを走らせた。

 雪を振り払うワイパーが、彼女の揺れ動く感情のようにも見えた。




 家の前で傘も差さずに立っている、黒のカシミアのコートには見覚えがあった。



 「遅い! 凍死するところだった!」



 彩の自慢の長い黒髪が雪で濡れていた。



 「俺はタクシーじゃないぜ」

 「何よ偉そうに! 私の召使いになるって約束したくせに」

 「そんなこと言ったかなあ?」

 「言ったの!」

 「じゃあ言った」

 「じゃあって何よ」


 と言って彩は微笑み、冷たくなった自分の頬を私の頬に付け、キスをした。


 「冷たいキスでしょ?」

 「キスは熱いよ」


 

 車に乗ると、彩はコートの前を開いた。

 驚いたことに彩はブラとショーツしか身に付けてはいなかった。


 「風邪を引くよ」


 私は後部座席から自分のコートを取り、彩に掛けた。



 「これ、一度やってみたかったの。どう? 興奮した?」

 「うん、興奮した」


 彼女はその私の言葉に満足すると、


 「寒いから早く温めて」


 私は当分、この子猫から離れることは出来そうもない。

 雪は激しく吹雪になった。


 彩との熱い夜が始まろうとしていた。


 


懲りない女

 「あたし沙月さつき。覚えてる?」

 「どうした急に?」

 「どうしているかなあと思って電話しちゃった」

 「俺は相変わらずだよ、あの時沙月を泣かせた俺のままだ」

 「今、飲んでるの?」

 「ああ」

 「ひとりで?」

 「俺みたいな変人と酒を飲みたい奴なんていねえよ」

 「お酒、付き合ってあげようか?」

 「・・・。」


 俺は返事をすることができなかった。

 沙月と別れて3年、俺は俺なりに苦しみ、後悔もしたからだ。


 付き合って5年。女は知らないが、男が恋人を卒業するには付き合った年月が必要になる。

 俺はまだリハビリ中で、俺が沙月を忘れるためにはあと2年が必要だった。



 俺の沈黙に耐え切れず、沙月は言った。


 「ダメだよね? 今更。 私から離れていったのに・・・」

 「ダメじゃない。でもそれはまた、お前に悲しい思い出が増えるだけだ。

 それでもいいのか?」

 「それでもいい、それでもいいの。あなたに会いたい。今すぐに」

 「バカな女だ。好きにしろ」

 「好きにする」


 俺はグラスにジンを注いだ。

 アパートの外を貨物列車が通る音が聞こえ、部屋が揺れた。




床に落ちたハンバーグ

 家に帰るとハンバーグが食卓に置かれていた。


 「ただいま」

 

 娘の綾香は私を避けるように、無言で2階の自室に上がって行った。

 女房の早苗はキッチンで洗い物をしていた。


 俺はネクタイを緩め、冷蔵庫から缶ビールを出してそのまま飲んだ。


 「今日も残業?」

 「ああ」

 「女と会うことも残業って言うんだ?」

 「・・・」


 俺は早苗の言葉を無視してテレビを点けた。


 「何とか言いなさいよ!」

 「・・・」

 

 すると早苗はテーブルの上の料理を全て払い除け、皿が割れて料理が床に散乱した。


 「別れてあげるわよ!」

 「・・・」


 俺は床に散らばった食器の破片や料理を片付け始めた。


 般若のように俺を睨みつける早苗。


 「もう無理! 限界! こんな生活耐えられない!」


 泣き喚く早苗。

 私は床に転がったハンバーグを呆然と見つめていた。


 砕け散った食器や料理が、俺の家族のようだった。



 


君の瞳に乾杯

 「同じものを」

 「かしこまりました」


 週末の儀式はこのBARから始まる。

 沢山の仕事の山に上司のセクハラ。私はいつもクタクタだった。

 そのお清めとしてのお酒だった。


 恋人はいなかった。

 それなりに恋をした男もいたが、どれもただの気晴らしに過ぎなかった。

 私を本当に楽しませてくれる男はいなかった。


 私は今年で32歳。そろそろ子供も欲しい年齢になっていた。

 田舎に帰る度、母親はしきりに私にお見合いを勧めた。


 「菜緒ちゃん、恋愛結婚なんて苦労するだけよ。

 お見合いがいちばん。だって他人から見る評価の方が冷静になれるでしょう?

 ほら見て御覧なさい、なかなかのイケメンじゃないの、仕事は役場職員で安泰だし」

 「イヤよ、田舎に帰るのなんて。

 私は東京が好きなの!」


 母の魂胆は分かっている。老後の面倒を私に看て欲しいのだ。

 母は家の跡を継いでいる兄嫁とは折り合いが悪かった。



 私はお替りをした2杯目のキール・ロワイヤルに口をつけた。

 するとそこへスーツ姿の男性が、私のひとつ隣の席に座った。

 常連のようだった。



 「いらっしゃいませ、陣内様。

 今日はこれからお食事ですか?」

 「うん、焼肉でも行こうかなあと思ってね?」

 「いいですね? 週末の焼肉は」

 「でもひとりで焼肉だよ、色気がないだろう?」


 その男性は何度か見かけたことがあったが、軽く会釈を交わす程度の関係だった。

 エルメネジドゼニアのスーツを着こなし、靴はBALLY?

 時計はロレックスではなく、フランクミューラーだった。

 今ではめずらしい、趣味の良いちょいワルなオヤジといった感じだった。



 「いつものを」

 「かしこまりました」


 バーテンダーは素早くアイス・ピックで氷塊を球体に整えると、水道でそれを洗い、ロックグラスに入れてラフロイグを注いだ。



 「どうぞ」

 「ありがとう」


 男は酒を一口含むとタバコに火を点けた。

 するとすぐに私に気づき、


 「あっ、ごめんなさい。お嬢さんがいるのにタバコに火をつけちゃった」


 その男は慌てて火を消そうとした。


 「いいんですよ、私も吸うので」


 私もバッグからメンソール・タバコを出して火を点けた。

 男も安心したようにタバコを吸い始めた。


 「どこもかしこも禁煙、禁煙って煩いよね?

 ここだけなんだよ、タバコが吸える店は」

 「仕事終わりの一服って、美味しいですものね?」

 「そうそう、そうなんだよお嬢さん」

 「もうお嬢さんじゃありません、です」

 「じゃあおばさんだ。たまに見かけるけど人妻さんなの?」


 私は左手を挙げて彼に見せた。

 するとその男性も同じ仕草をした。


 「あはは 一緒だね?」


 私たちはいつの間にか、隣同士で飲んでいた。


 

 「マスター、ビットウィーン・イン・ザ・シーツを頂戴」

 「それじゃあ俺はロブロイを」

 「かしこまりました」

 「どうやら俺たちは気が合うようだ」

 「合うのは気持ちだけかしら?」

 「それは俺次第というわけだね?」


 私は静かに「今夜はOKよ」という意味のカクテルを艶かしく口にした。


 今夜は全てを忘れて女に戻れるような気がした。

 

 


天の川を見に行こう

 「天の川って見たことあるか?」

 「日本でそんなの見えるの?」

 「もちろん! 今度一緒に見に行こうよ」

 「行きたい行きたい! どこに行けば見えるの?」

 「いろんなところで見えるよ、空気がきれいなところなら。

 海とか山とか」

 「お船は怖いから山がいいなあ」

 「それなら今度の連休、立山に登ろう」

 「立山って富山の?」

 「そうだ、俺の第二のふる里だ。

 でも、見えるかどうかは紀子の普段の行い次第だな? ほら、君は雨女だから」

 「そうかもね? 私、雨女だからちょっと心配だなあ。

 結婚式も雨だったもんね?」


 私たちは夜の街をドライブしながら笑った。




 だがその日は素晴らしく晴れ、雲ひとつない新月の夜だった。


 「いいかい、俺がいいというまで目を開けてはいけないよ」


 私は立山の山岳ホテルから妻の紀子の手を引いて、屋外へ出た。

 恐る恐る歩みを進める紀子。



 「もういいよ、目を開けてごらん」


 紀子が叫んだ。


 「うわーっ! 星が降って来そう!」


 

 彼女は息を飲んで満天の星空を見上げた。



 「あっ、流れ星。 またあそこにも!」

 「ほら、見えるかなあ? あれが人工衛星だよ。ツッーって流れて行くだろう?」

 「うん、見える見える! そしてこの星の大河が天の川なのね? きれい・・・」

 「この空にはこんなにも沢山の星が隠れているんだよ。

 すごいよね? 宇宙って」

 「宇宙もすごいけど、この星のページェントを見せてくれたあなたはもっと素敵よ!

 ありがとう、あなた」

 「どういたしまして」


 私たちは体を寄せ合いながら、この無限の星たちの競演をいつまでも眺めていた。


 ピンと張りつめた山の空気が心地良かった。




ダブルベッドとお好み焼き

 俺たちは下町にある、いつものお好み焼き屋にいた。

 


 「お好み焼き作るの、いつも上手だよね?」

 「こんなの誰でも出来るよ、ただ混ぜて焼くだけじゃないか?」


 褒められて嬉しくない人間はいない。

 俺は調子に乗っていた。



 「そうでもないよ、具材を焼く順番とか生地と空気の混ぜ具合、ふんわりさせる返しのタイミング。

 ソースの塗り方に鰹節、青海苔の量とその掛け方。

 マヨビームにマスタード、それから九条ネギ。

 裕ちゃんのお好み焼きは最高だよ」

 「相変わらず、うるせえ女だな? お前は」

 「だから誰とも長続きしないのかもね? 私」

 「でも世の中にはそんな女が居てもいいという、変わり者の男もいるぜ?」

 「どこに?」

 「ここに」



 俺は手にした金小手で、自分に向けてお好み焼きをひっくり返して笑った。


 伊代と付き合い始めて1年半、お互いに平日は仕事が忙しく、会うのは週末だけだった。

 そして今日は月に1度の「お好み焼きの日」



 「よく一緒に焼肉を食べに行けたら親密だって言うけどさ、俺はお好み焼きなんだよ」

 「どうして?」

 「だって女に自分がお好み焼きを焼くところを見せられるじゃねえか?」

 「なんで見せたいの? お好み焼きを焼くところ」

 「だってそうだろう? 男が女に愛してるなんて言うのってキモいだろう?」

 「じゃあ、愛してるって想いを込めて焼いてくれているってわけ? お好み焼きを?」


 俺は何も言わず、笑って見せた。



 「ねえ、ダブルベッドで寝てる夫婦って離婚し易いんだって」

 「それ、よく聞くよな?」

 「どうしてだろうね? ラブラブだからダブルベッドなのに」

 「あまりに近いからじゃねえのか? ふたりの距離が」

 「適度な疎遠が必要だということ?」

 「自分が無いと窮屈になるんじゃねえかなあ? お前だっていつも俺と一緒にいたら疲れるだろう?」

 「裕は疲れるの? 私と一緒だと?

 私、前の旦那とはダブルベッドで寝てたの。だから別れちゃったのかな?」

 「俺は寝たいよ、伊代とダブルベッドで」

 「じゃあ離婚だね?」

 「その前に結婚しないとな?」

 「その話、今ここで言うことかなあ?」

 「いいから食えよ、俺がお前のために焼いた、のお好み焼きを」

 「愛してるって言って」

 「この中に入れといたよ」

 「ヘンな人」




クリスマス・イブの約束

 三年前のイブの夜、私はこの場所で慎一郎を見送った。

 

 慎一郎がニューヨーク支店に転勤することになり、私は彼にニューヨークへ誘われた。



 「一緒にニューヨークで暮らさないか?」



 だがその時私はそれを躊躇った。

 やっと仕事が認められ、新しいプロジェクトのリーダーにも抜擢されたばかりだったからだ。

 私は彼より2歳年上のお姉さん、迷いはあった。

 そして私は仕事を選んだ。



 (成田で彼を見送れば、自分を忘れて彼にすがって泣いてしまう)



 私は駅のコンコースで慎一郎を見送ることにした。

 慎一郎は言った。



 「三年後のクリスマス・イブ、夜の9時。もし奈美の気持ちが変わっていなければ、またここに来て欲しい」



 そう言って彼は私を振り向かず、片手を上げて新幹線の改札口を出て行った。


 彼の後ろ姿が涙に沈んで見えた。私は声を上げて思い切り泣いた。




 そして今夜が三年後のイブ、時計は21時になっていた。

 私はあの時、慎一郎と約束した場所にやって来た。

 

 髪を洗い、彼が好きだったシャネルの19番をつけ、クリスマスケーキとシャンパンを買って私は彼を待った。

 


 (慎一郎は必ず来る、絶対に来るはず)



 私はそう信じて彼を待った。

 だがすでに3時間が過ぎ、あと3分で午前零時になろうとしていた。

 


 (イブが終わる。私の恋も終わる・・・)



 諦めて私が帰ろうとした時、後ろで慎一郎の声がした。


 「奈美!」


 振り返るとそこには慎一郎が立っていた。

 会えなかった三年間、彼は素敵な商社マンの顔になっていた。


 「慎一郎・・・」

 「僕は賭けをしたんだ。柱の影でじっと君を見ていた。

 もし君がすぐに帰ってしまったら、僕の負けだと。

 イブが終わるまで、奈美が僕を信じて待ち続けていてくれたら、君は僕を本当に愛してくれていたんだと。

 この三年間、ずっと。

 僕は賭けに勝ったんだ! ただいま、奈美」

 

 私は慎一郎に抱きついて泣いた。


 「会いたかった、凄く!」

 「僕もだよ、奈美!」


 人も疎らになった駅で、私たちは強く抱き合い熱いキスをした。

 そしてイブが終わり、私たちの未来の扉が開いた。


 恋人がサンタクロース。

 最高のプレゼントを持って私の前にやって来てくれた。



 駅に流れるクリスマス・キャロル。


 来年のクリスマス・イブは、彼とマンハッタンで迎えることになるだろう。




出会った時から決まっていた

 孝は病院のベッドで吹雪の外を眺めていた。


 「桃の缶詰でも開けようか?」

 「そうだな? 悪いけどそうしてくれるか?」


 いつも孝は私を気遣う。


 私はお見舞いに来てくれた彼の友人、悟さんが持って来てくれた桃の缶詰を開けた。

 彼は桃が大好きだった。

 だが今は冬。生の桃は無かった。

 そんな彼のことを想って、悟さんは桃の缶詰をプレゼントしてくれた。


 「孝、お前、桃、好きだったよな?」

 「ありがとう、悟」



 私は孝が食べやすいように、桃をサイコロくらいの大きさに切って、それを彼の口に入れてあげた。


 「美味しい?」

 「うん」


 味わうようにゆっくりと桃を食べる孝。

 2口だけ食べて、

 

 「ありがとう。もういらない」


 と孝は言った。

 私はフォークを置いた。



 彼の病状は一進一退を繰り返し、手術をしてから3ヶ月が過ぎていた。


 「年越しは無理かもしれないなあ」

 「何を弱気なことを言っているの? 孝らしくないぞ。

 来年の春には一緒にお花見に行くって言っていたじゃない」

 「・・・」

 

 その時、孝の目から涙がこぼれた。

 いつも弱音を吐かない孝の涙を初めて見て、私は泣いた。



 

 翌朝、孝はみんなに看取られ、苦しむことなく静かに旅立って行った。

 私を残して。


 私はまだ温かい彼の手を取って言った。


 「うちに帰ろう、明日はクリスマス・イブだから・・・」



 私は嫌な夢を見ていると思った。だがそれはいつまでも覚めない夢だった。




馬鹿な男

 海辺の温泉街にある、大きなホテルに加奈子とやって来た。

 久しぶりの旅行だった。

 朝、加奈子が俺に寄り添い言った。


 「ねえ、もう一回してもいいよ」

 「それを言うなら「もう一回して」だろう?」


 俺は加奈子の浴衣の帯を解き、全裸にした。

 昨夜の行為の後でもあり、パンティは履いていなかった。


 キスをして、俺はいきなり加奈子の乳首を甘噛した。

 加奈子の乳首はツンと尖っていた。


 「それ、好きかも・・・」


 セックスも小説も意外性が大切だ。

 ただ穴に入れるだけの行為に、愛はない。



 私たちはモーニング・セックスを終え、部屋の露天風呂に浸かり、海を見ながら冷たいビールを飲んだ。


 「お腹空いた」

 「朝食ビュッフェに行くか?」

 「うん」


 

 俺と加奈子は浴衣に羽織を着て、大食堂へと降りて行った。

 和食に洋食、様々な料理が大皿に置かれていた。

 卵料理はコックが注文に応じて調理してくれた。


 お互いに好きな物を取り、テーブルに座って食べ始めた。


 「あの「イカそうめん」って美味しいのかな? ウズラの生卵が乗っているけど」

 「取って来てやるよ」

 「それからあのローストビーフ、柔らかそうだよね?」

 「それも取って来て欲しいのか?」

 「ごめんね、催促しているみたいで」


 加奈子はいつもそうだった。

 決して自分で動こうとはしない。

 

 「食べたい」とか「欲しい」とは言わない女だった。

 加奈子は俺に物を強請ねだったことがない。

 だがそれを必ず手に入れる。

 それは俺がそれを買えることを、そして買ってくれることをわかっているからだ。


 「指輪が欲しい」とか、「バッグが欲しい」とは言わない。

 加奈子はそんな女だった。



 「あっ、新作のバッグだ。日本でも発売されたのかあ」

 「欲しいのか?」

 「こんな高いの、買えないよ」

 「買ってやろうか? そのバッグ」

 「いらないよ、私には贅沢だもん」



 後日、俺はそのバッグを買い、加奈子に渡した。


 「これ、お前が欲しがってたバッグ。やるよ」

 「うれしい! このバッグ凄く欲しかったの! ありがとうケンちゃん!」


 そう言って満面の笑顔でバッグを抱きしめる加奈子。

 俺はそんな加奈子をずっと笑顔にしてやりたいと思った。

 

 俺はいくつになっても馬鹿な男だ。




「鬼が嗤うよ」

 「謙三にもっと早く会いたかったなあ」


 そう言って晴れ着姿の琴音ことねは笑った。

 俺と腕を組んで近くの神社に初詣にやって来た。


 「かなり並んでいるなあ?」

 「そりゃそうよ、元日だもの」

 「寒くないか?」

 「大丈夫だよ。謙三は?」

 「俺は大丈夫だ」


 最近、不整脈が続いていたこともあり、私は十分すぎるほど厚着をしてカイロも左胸に貼っていた。


 「カイロ、握っていろよ」


 私は予備に持って来たホッカイロを琴音に袋を破って渡した。


 「ありがとう。そういうところが謙三は大人だよね?」


 琴音は無意識に以前付き合っていた男と私を比較しているようだった。

 私と琴音は17歳も歳が離れていた。

 琴音は23で私は40歳。まるで親子のようだった。


 

 ようやく私たちの番になり、私たちはお賽銭を入れて鈴を鳴らした。

 琴音が何を願っているのかは想像がつくが、彼女は私が何を祈ったのかは知らない。


 

 「ねえ、おみくじ引こうよ」


 琴音がおみくじを引いた。「凶」だった。

 琴音は落胆した。


 「もう一回引いてみる!」


 二度目は「末吉」だった。


 「末吉かあ~、もう一回・・・」

 

 私はそれを制した。


 「末吉はね? これから良くなって行くという暗示だからそれでいいんだよ。

 さあ、あの枝に結んでおいで」

 「謙三はおみくじ、引かないの?」

 「俺はロマンチストじゃないからね」

 

 私はおみくじを引くのが怖かった。

 大晦日の晩には軽い心臓発作が起きたからだ。

 私は一休禅師の言葉を思い出していた。


 

    元旦は 冥土の旅の一里塚 

    めでたくもあり めでたくもなし



 私は神に祈ったのではなく、感謝したのだ。

 琴音と新年を迎えることが出来たしあわせに。


 「ねえ、来年もまた来ようね?」

 「そうだな。でも来年の話をすると、「鬼が嗤う」ぞ」

 「来年は謙三と一緒に暮らしているといいなあ」


 私はただ微笑んでいた。

 たぶんそれは叶わないだろう。


 ちらちらと雪が舞い降りて来た。

 私は琴音の肩を抱いて泣いた。

 



仙台・光のページェント

 「杜の都、仙台に星が降って来たみたい」


 地下鉄を降りて定禅寺通りのイルミネーションを見た雪乃は歓喜し、目を輝かせていた。


 「どうしてもお前に仙台の、『光のページェント』を見せたくてね?

 良かった、喜んでもらえたようで」

 「こんなに凄いとは思わなかったわ。おとぎの国にいるみたい・・・」


 私が雪乃をこの『光のページェント』に誘ったのには理由があった。

 それは、仙台の『光のページェント』を見に来たカップルは、「必ず別れる」というジンクスがあったからだ。

 私は女と別れたくなると、いつも仙台の『光のページェント』に女を誘う。

 そしていつも別れた。


 別れた理由は特別なかった。

 ただ気付くといつの間にか疎遠になっていた。


 今回も雪乃と別れることが目的だった。

 私は欅の光のトンネルの中を雪乃と歩いた。



 「ねえ知ってる? 仙台の『光のページェント』を見に来た恋人たちは別れるって都市伝説があるのを?」

 

 ドキリとした。


 「そうなのか?」


 私はとぼけてみせた。


 「私、絶対に別れないからね? たとえあなたに奥さんと子供がいても」

 「・・・」


 どうやら彼女はすでに私の魂胆を見透かしていたらしい。


 「牛タンでも食べに行くか?」

 「うん、牛タン大好き!」


 私たちは国分町にある『太助・本店』に腕を組んで歩いて行った。

 

 クリスマスが終わった街にはミュージカル、『キャッツ』の『Memory』が流れていた。


 


深夜のバス・ターミナル

 和也と別れて田舎に帰ることにした。

 私はひとり、夜行バスに乗るために、『バスタ新宿』にやって来た。

 東京に未練がないわけではない。でも私は彼の重荷にはなりたくなかった。


 バスに乗る列に並んで、あと3人で私がバスに乗る順番になった時、腕を掴まれた。

 和也だった。


 「留美子」

 「和也・・・」


 和也に強く抱き締められた。

 そんな私たちを追い抜いてバスに乗り込んで行く人たち。


 「バスに、乗り遅れちゃうよ」

 「もうどこにも行かないでくれ、ずっと俺の傍にいてくれ!」

 

 和也は泣いていた。


 「私がいると和也がしんどくなるわ・・・」

 「俺のことが嫌いか?」

 「和也なんか大っ嫌いよ」


 私もそう言って嗚咽た。


 「ということは「大好き」ということだな?

 嫌いな男にならこう言うはずだ。

 「私がどれほどあなたのことを考えていたと思うの?」とな?

 女はそういう生き物だ」

 「女の気持ちなんか何も知らないくせに。バカみたい」

 「腹減ったな? 味噌ラーメンでも食って帰ろうぜ」

 「餃子とビールも付けてよね?」

 「ああいいよ、ついでに留美子の好きな杏仁豆腐もな?」

 「ちゃんとクコの実の入っているやつだよ」

 「あの紅いやツな?」

 「うん」


 和也は私の大きなキャリー・ケースを転がしながら、私たちは眠らない新宿の街を歩いて行った。

 きつく手を繋いで。


   


覚めない初夢

 初夢で目が覚めた。

 純也とチャペルで誓いのキスをしている夢だった。

 私は隣で寝ていた純也を起こした。


 「ねえねえ、凄い初夢を見ちゃったんだけど」

 「うーん、どんな夢だ?」

 「内緒」

 「俺も今、夢を見ていたんだ。

 いいところで起こしやがって」

 「ごめんごめん、どんな初夢だったの?」

 「お前と教会で結婚式をしている夢だ」


 私はベッドから跳ね起きた。


 「私も同じ夢だったの!」

 「お前もか・・・」

 「うん! 凄い偶然! 夢でも覚めないで欲しかったなあ」

 

 すると純也が私の頬を軽く抓った。


 「痛いか?」

 「ううん、痛くない。気持ちいい」

 「お前はドMだからな?」

 「痛くないからやっぱり夢なのかな?」

 

 すると純也はベッドから下りてシャツを着た。


 「指輪、買いに行くから早く支度しろ」

 「えっ・・・」

 「夢が覚めないうちにな?」

 「うん・・・」


 その初夢は「正夢」になった。

 

 


夜のラムレーズン・アイス

 「ごめんなさいね。風邪なんか引いて」

 「子供の頃、俺は小児喘息でさ。 発作が起きるとおふくろが泣いて一晩中看病してくれた。

 「カズ君が死んじゃう」ってな?

 横になると苦しいから布団に横になることが出来なくて、布団を後ろに積んでもらって座椅子代わりにしてもらうんだが、次第に意識が朦朧として来る。

 子どもながらに思ったよ、おふくろに迷惑掛けているなあって、情けなかった。病気持ちの自分が。

 だからお前は何も心配するな。安心して休めばいい。

 俺がお前の母親代わりになってやる」

 「ありがとう。ただの風邪なのにね?」

 「ただの風邪じゃないだろう? インフルなんだから」

 「カズに移したら大変だから、もう帰ってもいいよ」

 「大丈夫だ。俺はインフルには罹らない。

 だって俺はバカだから。

 「バカは風邪を引かない」って言うだろう?」

 「カズのバカ・・・」

 「アイスでも食べるか?」

 「ハーゲンダッツのラムレーズンなら食べたい。

 でも冷蔵庫にはないからいいよ」

 「眼の前にファミマがあるじゃないか?」

 「寒いからいいよ」

 「俺は『雪見だいふく』が食べたいからちょっと待ってろ」




 息を切らし、俺は両手にレジ袋を持って帰って来た。


 「鍋焼うどんだろ? それからプリンにヨーグルト。熱々のおでんにホットラテ。

 そしてこれがお前のリクエスト、ハーゲンダッツのラムレーズンだ。

 それからサンドイッチもあるぞ。

 さあどれが食べたい?」

 「ありが、とう・・・、カズ」

 「何も泣くことはないだろう? 風邪引くぞ」

 「もう引いているよ」

 「あはは。そうだな?」


 俺は佐知子の額に手を当てた。

 まだ熱が高い。


 「カズの手、冷たくて気持ちいい」

 「手袋して行かなかったからな?」

 



 そして数日後、やっと佐知子の体調が戻った時、今度は俺がインフルエンザになってしまった。


 「ごめんなさい。私のインフルが移ったんだよね?」

 「良かったよ。どうやら俺はバカじゃなかったようだ」

 「卵粥、作ってあげるね?」

 「ああ頼む。ついでに卵酒もな」

 「わかった」


 佐知子がマスクを外し、俺にキスをした。


 「バカ、またインフルが移るだろう!」

 「大丈夫だよ、どうせ私のインフルだから」




 翌年、俺たちは結婚した。

 だが生活は何も変わらなかった。

 佐知子の苗字が俺の苗字に変わっただけで。

 

 


恋人と愛人の違い

 激しいセックスが終わり、「賢者タイム」になった。


 「恋人と愛人の違いってなあに?」

 「お前は俺の恋人だ」

 「そうじゃなくて何が違うのかって訊いてるの!」

 「恋人は何でも欲しがる女。そして愛人は何も望まない女だ」

 「じゃあ私は愛人だ。何も欲しくないから」


 雪はそう言って俺の胸をなぞった。


 「私、奥さんと別れてなんて言ったことある?」

 「でも別れて欲しいと思ってはいるだろう?

 もうすぐお前のその願いも叶うよ」

 「どうして私は妻子持ちの男を好きになっちゃうのかなあ? その結末はわかっているのに」

 「それは妻子持ちの男に父親の匂いを感じるからかもしれないな?」

 「私、父親の顔をよく覚えていないからかも。

 じゃあ課長はどうして私と付き合っているの? リスクを冒してまで。

 会社で噂になっているのよ、私たち」

 「雪といるとラクだからだ」

 「ラク? 失礼ね。でも、それってうれしいかも」

 「お前は俺に指図をしない。

 あれをしろとかそれはしないでとかな?

 俺は自由でいたいんだ。誰にも命令されたくはない」

 「私はあなたに束縛されたい・・・」

 「本当はな、愛人とはただのセフレのことだ」

 「だったらやっぱり私はあなたの愛人じゃない?」

 「お前ならどっちを選ぶ? 明日のない恋人と、ただ俺を慰めるだけのセフレとしての愛人」

 「明日のある愛人になりたい。奥さんと別れて」

 「バカな女だ」


 そして砂に水を注ぐような、愛のない交わりが再開された。




吹雪の夜に

 酷い吹雪の夜だった。

 私は会社に帰る途中、街外れのバス停にひとりで立っている女を見付けた。


 バスがいつ来るのかは知らないが、私は彼女を気の毒に思い、クルマを停め、声を掛けた。


 「凄い吹雪ですね? どちらまで行くんですか?」

 「駅までです」

 「同じ方向ですから良かったら乗りませんか?」


 私は怪しまれると思い、クルマを降りて彼女に名刺を渡した。


 彼女が私から名刺を受け取った時、手袋をしていない彼女の手は、氷のように冷たかった。


 「お言葉に甘えてもいいんですか?」


 透き通るような白い肌をした、美しい人だった。


 「はいどうぞ。決して怪しい者ではありませんが、念のために後部座席へどうぞ」


 私はカタログを片付けると彼女の座るシートを空けた。

 暖房をマックスにしてクルマを発進させた。



 「本当に助かりました。バスが来るまであと1時間もあったので、凍死するかと思いました。

 ご親切にありがとうございます」

 「あそこではタクシーも通りませんからね?」


 私はラジオを点け、会話もしないまま、彼女を駅まで送った。



 「ご親切にありがとうございました。風間慎吾さん」

 「どうして私の名前を!」

 「うふふっ だって名刺にお名前が書いてありましたから」

 「忘れていました。あはははは

 ではお気をつけて」


 そう言って、彼女は駅の電話ボックスに向かって歩いて行った。


 後部座席を見ると、彼女がマフラーを忘れて行ったことに気付いた私は、すぐに彼女の後を追い駆けた。


 既に電話ボックスには彼女の姿はなく、電話ボックスのドアが開いた形跡はなく、人の足跡もなかった。

 ふっくらとした新雪のままだった。


 もしかすると彼女は「雪女」だったのかもしれない。

 そして私は「雪女」にまた会いたいと思った。


 そんな吹雪の夜だった。


 


夫婦茶碗(めおとちゃわん)

 月之新つきのしんは太刀を差し、登城の支度を整えた。


 「お絹。それでは行って参るぞ」

 「お役目、ご苦労様です」

 「うむ」


 月之新はお絹の腹にそっと手を置いた。


 「トトはこれからお勤めを果たして参るゆえ、あんじょうしておるのだぞ」

 「トト様、お気をつけて。うふっ」

 「ではくれぐれも無理はするでないぞ。

 腹の子にさわるでの」

 「はい旦那様。言ってらっしゃいませ」


 お絹は月之新を笑顔で見送った。



 夕刻となり、月之新はお勤めを終え、家路を急いでいた。


 城下の瀬戸物屋を通りかかると、月之新は美しい夫婦茶碗めおとちゃわんを見留た。


 (そういえばお絹の茶碗が少し欠けておったはず。これを買ってまいるとするか?)


 「主人、この茶碗をいただこう」

 「ヘイ、ありがとう存じます」


 店主は月之新に茶碗を渡した。

 月之新はうれしそうにそれを携えた。



 日の落ちた川辺りを歩いていると、三人の侍が行く手を阻んだ。


 「中村月之新でござるな?」

 「いかにも」

 「訳あってそこもとの命、頂戴する。覚悟されたし」


 三人の侍が刀を抜いた。


 「示現流か? 生憎ワシはまだ死ぬわけには参らぬ」

 

 月之新は夫婦茶碗を静かに置き、太刀を抜いた。


 月之新は人を斬ったことがない。

 相手は相当の手練てだれの者たちであった。

 二人の武士は左右から月之新に同時に斬りかかり、そしてそのかしららしき男は月之新の心の臓を突いた。


 「うぐっつ お絹、我が子よ・・・」


 無念の死であった。

 薄れゆく意識の中で、月之新は夫婦茶碗に手を伸ばした。



 「許せ。これもお役目なのじゃ」


 三人の侍は、血糊の付いた刀を川で濯ぎ、去って行った。 





 その頃、お絹はお腹の子に話し掛けていた。


 「今宵はトト様、お帰りが遅いわねえ」


 パリン


 突然、月之新の茶碗が割れた。


 お絹はそれですべてを悟った。


 「月之新様・・・」


 それは武士の妻として覚悟であった。


 


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恋愛万華鏡 菊池昭仁 @landfall0810

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