【SF小説】 ぷるぷるパンク 第20話 夜は夏に更ける

●2036 /06 /19/15:46 /藤沢・芦原邸地下研究室


 一抹の静寂が芦原の研究室を撫でるように過ぎた。


 部屋の中央には、真紅のアートマンを纏った荒鹿に両腕で抱き抱えられたセーラー服の少女こと大野琴。その周囲ではそれをただ、じっと見つめる双子に小舟、そして芦原、鳴鹿、平泉寺とすこやか。


「九頭竜くん。よかった。」


 荒鹿の胸に顔を埋めた大野琴の目から、涙の粒がきらりと光る一筋の線を描き、陶器のような白い頬を伝って荒鹿のアートマンの胸に落ちた。血のような赤いアーマーに、白い小さな花のような点が生まれた。白い筋が残った。


 もう一粒、そしてもう一粒。


 涙がアーマーに落ちるたびに、その部分だけが、小さな花のように白くなり、細くて長い茎のような筋が残る。


 泣きながら目を開き、不思議そうにそれを見ていた大野は、指先でそっと、荒鹿の胸をなぞると、やはり涙に濡れた指の跡が白くなった。不思議に思って指先を見ても、指先に赤い色はついていなかった。


「とにかく、よかった。ちゃんとこっちの九頭竜くんに会えました。嶺博士。」細い親指の付け根で涙を拭いながら、体を起こして、荒鹿の腕を降りて立ち上がった大野は独り言のように呟いた。


「アートマンも私のシミュレーション通りにかっこいい。」


 荒鹿は呆然としながらも芦原に視線を送る。芦原はただ肩をすくめただけだった。


 何となしに荒鹿の視線を追った大野は、突然背筋をピンと伸ばして、咄嗟に気をつけの姿勢をとり芦原に向けて敬礼をした。


「芦原中尉、それに平泉寺少尉、失礼しました。気がつきませんでした。」敬礼を送られた芦原も、ATMA時代に体に染み付いた癖が突然甦り、咄嗟に敬礼で返してしまった。それを見ていた平泉寺は「ふふっ」と笑みを浮かべた。


「大野琴・・・。」芦原が敬礼を崩さずに彼女の名前を呟くと、すぐに大野が口を開いた。


「大野琴軍曹。芦原中尉の中隊所属。現在はISFの別ミッションで、嶺博士に派遣され、生体シミュレーションで九頭竜荒鹿伍長を捜索中です。」


 芦原は目を大きく見開いて、敬礼の姿勢で固まったまま、大野を見つめ返し、ゆっくりと平泉寺に目をやった。


「大野ちゃん、お話を聞かせてくれるかしら。」平泉寺が横から落ち着いた声で話しかけると、大野はてきぱきと平泉寺に振り返り「はい!」と言って敬礼した。


 送られた敬礼に、平泉寺はにこやかな笑顔を返した。


 ノースはアートマンを纏ったサウスの隣で腕を組み、柄の悪い猫科の大型動物のように大野を睨んだ。


 しかし、サウスのアートマンが突然解かれ、幻覚マーヤー状態に入ってしまったので、そのまま突っ伏しそうになったサウスを咄嗟に抱き止めて、彼女を支えなければならなかった。すぐにそれに気がついた大野琴が、ノースに駆け寄りそれを助けた。


 二人でサウスを抱え、接続ユニットに運びながら大野はノースに囁いた。


「ノルテ。大野だよ、わかる?」誰も知らないはずの本名を突然呼ばれて、驚いたノースはついその手からサウスを落としそうになってしまった。


 同時に幻覚マーヤー状態に入ってうずくまった荒鹿を、姉の鳴鹿と小舟がもう一台の接続ユニットへ引き摺るようにして運んだ。


 二人をユニットに運び終えるのを確かめると、芦原は大野を先導して部屋を出た。エレベーターに乗りあぶれた小舟は、一緒に残ったノースに声をかけた。


「ノースさん・・・。」小さな、丸い小石のような声だった。


「ノースでいいよコフネ。前に会った小舟はノースって呼んでくれたんだ。」ノースは遠くに視線をやって微笑んだ。深緑の瞳の奥に微かに光る寂しさが浮かんでいるのを見つけて、小舟は、そこに吸い込まれそうになってしまった。


「うん、ノース。私ね、ループとかアートマンとか、色んなこと、分からないんだけどね、なんか分かるような気がするの。」ノースは小舟の話を聴きながら彼女の瞳を覗き、手を取ると、黙ったままそれを握った。


「私、みんなと初めて会った気がしないから、突然巻き込まれたけど、なんか信じられるんだ。あの・・・、荒鹿くんを好きな事だって、ほんとだし。」


 無言で小舟の手を握るノースの手に力が入る。


「だからね、ノース。大丈夫だよ。」


 黙って頷いたノースの目の淵には、深緑に光る涙が浮かんでいた。


 二人がエレベーターに消え、研究室から人がはけてしまうと、しばらくして目を覚ましたサウスが冷たい天井を見ながら呟いた。


「アラシカ、起きてる?」


●2036 /06 /19 /15:46 /藤沢・芦原邸2階


 荒鹿とサウスが並んで接続ユニットに横たわっている研究室の上階、アパレルショップのさらに上の2階の薄暗い居間に、残りのメンバーを集めた芦原が、勢いよくカーテンを引いた。


 薄いグレーの雲に覆われた空が、部屋の中で2次元のシルエットだった人や家具を、3次元に引き戻す。カーテンに引っかかっていた白檀の目に見えない小さな粒子が、微かな香りとなって部屋の中に漂った。


 コの字型のソファに深く沈み込んでいる面々は、長い間、誰も口を開こうとしなかった。それぞれが頭の中で、それぞれに起こった一連の出来事に対するそれぞれの見解を繰り返していた。


 口火を切ったのは大野琴だった。


「芦原中尉、まずは状況を説明させてください。」そう言って大野は、長い話をゆっくりと、しかしはっきりとした口調で話し始めた。


 向こう側の世界について。まずは、宇宙を巻き込んだ大惨事を生き延びた人類の現状や地球環のこと、近頃身近に起こった空港でのテロ制圧作戦、AG-0での嶺博士との会話。


 そしてPFCカプセルに入ってここにたどり着くまでのこと、その全てを順を追って話した。


 途中、芦原に「中尉じゃなくていいよ」と言われた大野だったが、留意しつつも、時々中尉や少尉が出てしまう。


 しばらくして荒鹿とサウスが一階から階段を上がり部屋に入ってくると、大野は嬉しそうな顔をした。


 嶺博士の話が出ると、双子はびくんとして、目を見開いた。


「父親?」二人が声を合わせ、目を合わせる。大野は黙って頷く。


「ほんとだったんだ。ママが言っていたRTAの・・・。」サウスの目は見開かれたまま。ノースは静かに目を閉じていた。


 平泉寺が立ち上がって二人の後ろに回り、二人の肩を抱いた。


「まずは、続きを聞こう。」ノースは頷く。サウスは肩に置かれた平泉寺の手を引き寄せ、子犬のように自分の頬を擦り付けた。


 長い説明が終わる頃には太陽が低くなり、部屋がだいぶ暗くなってきたので、芦原が和紙の提灯の形をした照明のスイッチを入れた。部屋は橙色の優しい光と空気に包まれ、夏至を控えた夏の宵は落ちるように闇に包まれた。


 荒鹿は、自分が銃弾で撃たれたという右耳の後ろに指で触れた。夢の中で何度か痛みを感じていた箇所だった。なんともないような、少し熱を帯びているような、不思議な気分だった。


 やっぱり、彼女のことを知っていた。


 実際に知っていたのは、この世界のこの自分ではなく、違う世界のもう一人の自分。その彼が大野琴の恋人である、と思うと少し、いや、かなり羨ましい、とも思った。


 しかし、この世界を捨て、違う世界に行くことには全く想像が及ばなかった。


 双子はふらりと立ち上がって、窓を開けた窓際に立っていた。呆然としたまま外のぬるい空気を吸っていた。窓の外には街路樹の銀杏が茂っていて、手を伸ばすと届きそうなほどだった。時々ぬるい風が葉を揺らし、ぬるい空気を部屋に運んだ。


「よく分からないのだけど。」ノースが眉間に皺をよせたまま、ゆっくりと口を開く。「あたしたちがいるのはシミュレーションの世界で、それは電気信号でしかなくて、あたしたちはスペアで、別に本物がいるっていうこと?」彼女は、自分の言葉をひとつひとつ確かめるように慎重に話した。


「ノルテ。」大野が口を開きかけると、俯いていたサウスが驚いた顔でノースを見上げた。ノースはアルミサッシの窓枠にあったサウスの手に、自分の手を重ねた。


「さっちゃん、この子は最初のAG-0でもあたしをノルテって呼んだの。」


「どういうこと?」サウスが大野を見つめた。


(だから、その説明をずっとしてたじゃん。ノルテも出てきたじゃん、最初の方の空港のくだりに。二人で下から上がって来てから話してたじゃん。)


 思っても、口には出せない荒鹿。


「スールさん。ノルテの妹さん。嶺博士が言った通りだわ。」


 大野は、なんとなく場の空気を読んで、説明の中でサウスの脳性麻痺の件については口にしなかった。本人の目の前でそれを口にするのはなんとなく憚られたのだ。


 しかし、こちら側の世界で普通に動いているサウスを見て、安心すると同時に感心もしていた。


 博士が作ったスペアの世界。本当の世界では、カプセルの中で意識もなく植物状態で生きながらえているだけのスールが、今、目の前のこちら側の世界では、こんなにも生き生きとのびのびとしている。


 これが、博士の「創り上げた」世界なのだ。


「大野琴。」ノースが強い口調で言った。大野はさっとノースに向き直り、真剣な表情で彼女を見つめた。


「あたしたちは、その名前を捨てた。あたしたちはノースとサウス。」サウスがぶんぶんと首を縦に振って強い同意を表す。


「さっちゃんたちのママは死んだ。」サウスが無表情のまま呟いた。


「二人のお母さんは・・・。」荒鹿は、サウスを見つめて口にしかけた言葉を止めた。


 時折、通りを行き交う車の音が、近づいては離れた。夜のカラスたちが大きな声で何かを伝えあい、道路の信号が変わると単音のメロディーが湿った空気を揺らした。


「クズリュウ。あたしたちのママは、あたしたちが子どもの頃に死んでしまった。お見舞いに行くとかっていうのは、自分たちに付いていた嘘。入院してた横須賀の病院から遠く離れた大きい病院に移されて死んでしまったって、前に話した親戚のおじさんの闇医者から聞かされた。」


 荒鹿の脳裏には、AG-0のカプセル群で見た嶺ティエラの顔がよぎる。


「話して?」平泉寺がノースを促す。


「うん。」彼女は深呼吸をして、話を続けた。


「あたしたちは、ママのお葬式にも行けなかった。おじさんも消えてしまったから。でもだからこそ、あたしたちは、ママの死を信じないで生きてきた。」泣き出すかと思われたサウスは、窓の外を見つめたまま表情を崩さずに黙っていた。ノースが続ける。


「二人でママが生きているみたいに振る舞っていると、それってまるで本当のことみたいに思えた。事実としては知っていても、感覚としては感じない。あたしたちはママが死んだ時に名前を捨てた。ううん。捨てたんじゃない。」ノースは、喉につかえる涙を飲み込み、ゆっくりと、言葉を一つひとつ置いて行くように話を続けた。


「心の奥にしまったんだ。ママに呼ばれたその名前で呼ばれると、やっぱりママを思い出してしまうから。」ノースはもう深く一度深呼吸をした。


「ごめんなさい。ノース。」大野は立ち上がって双子に駆け寄った。「サウスも。」


 ぱんぱんぱん。芦原が手を打ち鳴らした。


「湿っぽいね。雨季だからかな。気を取り直して考えよう。」皆が芦原に視線を戻す。


「平泉寺。君の仮説は半分アタリで、半分ハズレだったね。残念。」


 平泉寺は肩をすくめて、苦笑した。


「並行世界の存在まではたどり着くことができたけど、まさかこっちがコピーだったとは・・・。それは当てられっこないです。」


 平泉寺の言葉を聞いて、芦原も苦笑いをしている。


 世界の答えが一つ提示されてしまったのだ。もう、笑うしかない。


「風船が裏返る話とかは、忘れてくださいアワラさん。私、恥ずかしい。」


 大野琴はそんな二人のやりとりを、興味と尊敬が入り混じった眼差しで見つめていた。


 ぱん。芦原がもう一度手を鳴らした。すでに静かだった皆が芦原に向き直った。


「作戦は続行。オペレーション・マンダラ!」


 気を引き締めて、芦原は順ぐりに全員に目を配った。


 気分は芦原中尉だ。そして目の前にいる8人編成の芦原中隊。全然悪くない。むしろ爽快だ。


「大野ちゃんを『本物』の世界に送り返す。」大野が立ち上がって敬礼をする。


「座って、座って、まあまあ」芦原が照れくさそうに、手を上下に振って大野をなだめ、話を続けた。


「ただし、一点変更がある。それは大野ちゃんの送り先。」


 芦原はもう一度8人を見渡すと話を続けた。


「それは最上階の特異点ではなく、地下6階のカプセル群。」


 平泉寺と双子と荒鹿が、それぞれ腕を組んで首を縦に揺らした。彼らにとっては、それがとても簡単な任務に思えた。


「私たちは、おそらくもうブラフマンと対峙する必要は無くなった。AG-0に潜入し、大野ちゃんをカプセルに送り届ける。」


 都合が良すぎないだろうか。あまりにも、ご都合主義すぎる。荒鹿は、頭の中に巡っている芦原の言葉だけでは解決しきれない疑問を芦原にぶつけた。


「それで、6月21日は、夏至はどうやって越える? 小舟はどうなるんですか?」


 小舟が不安そうに荒鹿を見つめた。


 芦原は二人を交互に見てから口を開いた。そして荒鹿の質問に答えているのかいないのか、分からないような話を始めた。


「ぷるぷるパンク。その調和によるバーストで二つの並行世界は分岐した。そうだね、大野ちゃん」


「はい。」大野は頷いた。


「そしてオペレーション・マンダラの最後のミッションは、大野ちゃん、君に託されている。」大野は、芦原を見つめて力強く頷いた。


「あっちの世界の九頭竜君は昏睡状態、そして小舟ちゃんは重症。二人ともカプセルに入っている。」芦原は部屋の端まで歩くと振り返り、別の端まで歩いた。その往復を繰り返しながら話し続けた。


「分岐以降の世界は、本来干渉しあわないはずだ。現に、九頭竜君はこの通りピンピンしている。」芦原は荒鹿を指差して言った。


「しかし、小舟ちゃん同士は干渉し合ってしまった。考えられる理由は二つ。」芦原はピースサインのように指を2本、力強く伸ばす。


 不安そうにしている小舟の肩をノースが抱いた。小舟はノースの顔を見上げ、その肩に頭を預けた。


「一つはブラフマン。ブラフマンの曼荼羅が影響する範囲AG-0に、こっちの小舟ちゃんが入ってしまった。そうだねすこやか。」突然名前を呼ばれたすこやか少年は背筋をピンと伸ばした。


「しかし、それが正解だとした場合、なぜ小舟ちゃんだけがループしていないのかという疑問が残る。それが二つ目の理由!」芦原は背伸びをして、深呼吸をして続けた。


「それがアートマンだ!」芦原はピースサインをさらに力強く伸ばした。


 小舟は、自分の左の手のひらを見つめた。小さな光の粒がきらきらと手のひらに現れた。ノースが小舟の手のひらを、自分の手のひらでさっと覆った。「あとで。」とノースが囁くと、小舟はその手をぎゅっと握った。


「大野ちゃん。」芦原と大野が見つめ合う。「君に託すのは、とても難しい任務になると思う。」


 大野はその言葉に姿勢を正す。


「向こうの世界に戻ったら、小舟ちゃんの生命維持カプセルのループシステム、LSPを切って欲しい。それが5人を巻き込んだループの原因になっているはずだ。」


 大野は、その部屋にいる皆に聞こえるくらいの音を立てて、唾を飲み込んだ。小舟はまっすぐと大野を見つめた。同時に一同が息を吸い込む音が部屋に響いた。


「そうすれば、6月21日は越えられる。後は、本物の小舟ちゃん自身の生命力に任せるしかないだろう。」小舟がそっと目を瞑った。


「九頭竜君。君は、どうするか考えておきなさい。大野ちゃんは君を迎えにこの世界に、このシミュレーションの世界にやってきたんだから。」 



●2036 /06 /20/22:09 /勝山市管理区域内・平泉寺邸


 大野琴の出現と、彼女による壮大な『ネタバレ』によって、ブラフマンと対峙する作戦は無くなったが、一度目の世界で芦原が襲撃されたこともあり、『芦原中隊』はこの奥越の平泉寺邸で、疎開生活を送ることになった。


 3台の車に分乗した一行は昨日の夜中に藤沢を出発し、朝には観音ゲートを越え平泉寺邸に到着した。


 しばらく仮眠を取った後、夕方前には九頭竜姉弟を残して、特にサウスの念願だった企画『浴衣 de ナイトマーケット』へと出かけて行った。


 昨晩以降、荒鹿との会話では誰もが未来の話を避けていた。大きな決断を迫られている荒鹿を敢えてそっとしておこう、という気遣いでもあった。


 荒鹿にとって、浴衣を着た双子や小舟は予定通りに可愛らしかったし、大野の浴衣姿については必要以上にショックだった。それゆえ『浴衣でナイトマーケット』を逃してしまうことはかなりの心残りだったが、どうしても考えを纏め切ることができず、泣く泣く諦めたのだった。


 一度は救おうとしたこの世界、シミュレーションのこの世界を捨てる。そんなことができるだろうか。


 しかし、荒鹿は大野琴に、嶺博士に、そして『本物』の世界に必要とされているような気もしていた。これは荒鹿にとって、非常に意味のあることだった。


 


 そして荒鹿には、もう一つ気になることがあった。芦原の研究室にサウスと二人残った時の会話だ。


●2036 /06 /19 /16:14 /藤沢・芦原邸地下研究室


 時は遡り、出発前の藤沢。大野が出現した少し後の芦原の研究室。


「アラシカ、起きてる?」


 幻覚マーヤーから覚めて目を開くと、芦原さんの研究室の冷たい金属の天井が目に入った。


 幻覚マーヤーの中で、大野琴は、ぼくの手を引いて、AG-0の地下6階にあるカプセル群を歩いていた。そこは、現実のカプセル群とは違っていた。


 いつもの幻覚マーヤーのように真っ白くて明るくて、金木犀の香りが風で抜けて行ったりするから、それがAG-0内部ではなく、まるで外の世界のように思えたし、外にあるからこそ、カプセル群が本当の墓地に見えた。アラシカ、起きてる? という声が響き、ぼくは目を覚ました。


「サウス。うん。起きたよ。」今となっては懐かしいノースのメッセージが脳裏に文字で現れた。ーN[クズリュウ、起きてる?]


 暗い研究室に、サウスの声が続く。


「アラシカは、いなくなっちゃうんだね。」ぼくは体を起こしてサウスを見た。サウスの目から、涙が筋になって顔の横に流れていた。


「そんなことないよ。」サウスは、ぼくの言葉を聞かずに続けた。


「ノースのことはだいじょうぶ。さっちゃんがちゃんと見てるから。」


 そう言ってサウスは目を閉じて微笑んだ。目を閉じた時に、瞳に溜まっていた涙がぽろぽろと、音を立てるようにして、こぼれた。


●2036 /06 /20/21:24 /勝山市管理区域内・平泉寺邸


「荒鹿。どうするの?」鳴鹿はレンズに地球環を映しこんだ眼鏡の位置を指で直しながら、かたわらに座る荒鹿を見上げた。


 夏の夜。奥越の管理区域内にある平泉寺邸の誰もいない静かな縁側で、地球環に照らされた九頭竜姉弟が、芦原の言葉と向き合っていた。


ーどうするか考えておきなさい。


 芦原の言葉が、いつまでも荒鹿の頭の中で、響き続けた。


 蚊取り線香の匂いが漂う窓の外には開けた庭があって、平らな岩の上に並んだいくつかのサイズの違うランタンが、ガスで揺れる橙色の影を辺りに落としていた。


「姉ちゃん。おれ、はっきり言って、分からない。」


 荒鹿の声は、絶え間なく聞こえる小川のせせらぎと優しい夏の虫の声にかき消されてしまいそうなほど、弱々しかった。夜の正面には雲で欠けることなく空を渡る地球環が、天の川みたいにきらきらしている。


 それは荒鹿に、いつかサウスの瞳から溢れた涙を思い出させた。


 ノースの涙を見たのは、腰越の戦闘の次の日の芦原の研究室だった。潤んでいただけだったかもしれない。高台の拠点でノースの涙の温度を手の甲に感じたことはあった。それも実際に見たわけではない。ノースは人前で泣くのだろうか。それとも隠れて泣いているのだろうか。


「荒鹿・・・。」眼鏡を外して膝の上に置いた鳴鹿が、深呼吸をしてから話し始めた。


「あなたは、けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ。そのとおりでしょう。」


 人は突然正論をぶつけられると、脳から雑念が消えるものだ。下を向いた荒鹿は、無造作に動く自分の視線を追いかける。(ぼくは何を探しているのだろう。言い訳だろうか。)


「私ね、今でも思い出せるよ。大きい窓があって、柔らかい朝の日差しが入ってきて、外に見える病院の通路には木漏れ日が絨毯みたいに敷いてあってキラキラしてた。理由はないのに今日が特別な日なんだって、分かったの。」


 荒鹿は、眼鏡を掛けずに話す姉の横顔を見つめる。


「お父さんに起こされてね。クリスマスじゃないのにプレゼントをもらった気分。前の日の夜には何も考えずに寝たのに、朝起きたらあなたがいた。」


 鳴鹿は視線の先のどこか一点から目を離さずに話を続けた。


「荒鹿が生まれた日。」遠くに走る貨物トラックの低いエンジン音が連れてきた弱い風が二人の肌を撫でる。


「すごい嬉しかった。弟が生まれるって、ずっと分かっていたんだけど、具体的には理解はできてなかった。子どもだし、初めてのことだから、余計にね。でも、あなたがね、来てくれた。それだけなの。」鳴鹿は橋のようにぼんやりと夜に掛かる地球環を目で追った。


「それだけ。」


「お母さんは夜中からずっとあなたを産むために格闘していたから、荒ぶるお母さんを見てお父さんが荒鹿って名前にしたんだって。想像すると、笑えるよね。」


 荒鹿が下を向くと、ももに涙が一粒落ちて小さなシミを作った。


「だけど私ね、あなたが誰にも必要とされてないって、不貞腐れながら生きてるって、わかるよ。」驚いた荒鹿は顔を上げてもう一度鳴鹿を見つめた。誰かが自分を理解している。そんなこと、これまでの人生で一度だって想像もしたことがなかった。


「本当はそんなことないのにって、ずっと教えてあげたかった。」荒鹿の頬に涙が一粒、また一粒、滑るように流れる。


「こんな機会でもないとね。」そう言って鳴鹿は夜空に向けて微笑んだ。


「私はね、ずっと自分が主人公だって思って生きて来たんだ。今だって、そう。荒鹿からしたらずうずうしいよね。大人になって分かったけど、それって、お父さんとお母さんがそう思わせてくれてたの。」


 喉元から湧き出す涙を堪えながら荒鹿が思い出したのは一回目の出発の朝だった。運転する鳴鹿とサウスの会話。


 サウスが主人公のこの世界、このストーリー。思い返すとあの時は、はち切れそうなくらい、一生懸命生きていた。


「あなたが不貞腐れている間も、お母さんたちはずっとあなたを支えてた。今だって、そう。あなたがいつでもそんなんだから言わないけど、親はね、自分の子供が世界の主人公だって思ってるものだよ。」


 荒鹿は声を出して泣いた。もう、涙を堪えていることができなかった。


「どっち側だとしてもね、あなたは世界に必要とされている。荒鹿が主人公のこの世界にね。」そう言うと鳴鹿は荒鹿の肩を乱暴に抱き寄せた。


●2036 /06 /20 /20:50 /永平寺町観音ゲート前マーケット


 九頭竜姉弟を平泉寺邸に置き去りにし、サウスを筆頭とした一行は『浴衣 de ナイトマーケット』を実現すべく、観音ゲート前の闇市を訪れていた。


 きらきらと煌めく地球環と、こぼれ落ちそうなほどにひしめき合った星に埋もれた夜空に見守られ、トゥルクの太鼓と露店の灯りそして夜空を彩る短冊に彩られたナイトマーケットは、相変わらずの妖艶さで夏の空気を揺らしている。


 一行は闇市を一通り、祭りの雰囲気を確かめるようにその隅々まで歩き回った。何時間も歩いた後、お腹が空いたと言って、道の脇に無造作に置かれたベンチを見つけ腰を下ろした。


「ちょ待ってんけぇー! さっちゃーん。」まだまだ遊び足りないサウスがすこやかを連れて人混みに消えると、小舟はノースを伴って夜ご飯の買い出しのために露店を物色しに出かけた。


 広場のベンチには平泉寺と芦原、そして大野琴が残った。


「平泉寺にまた会えるなんて、思ってもみなかった。」


 芦原がだらしなく開けっぴろげた浴衣の胸元を団扇で仰ぎながら言うと、平泉寺が芦原の胸元を両手で直しながら「そうですね。」と言った。


 見てはいけないものを見てしまったような気がして、頬を赤らめ顔を背けた大野琴だったが、突然立ち上がって口を開いた。


 芦原と平泉寺は驚いて、大野を見上げた。


「一つ、言っていないことがあります。」平泉寺がベンチの空いたスペースをぽんぽんと叩き、大野に座るように促したが、大野は立ったまま続けた。


「スール。サウスさんについてですが、彼女は私の世界のAG-0のカプセルに存在します。」


 マーケットの熱気に勝てず、上の空で聴いていた芦原と、大野がベンチに座るのを待つことに集中していた平泉寺が、凍りついたように動きを止めた。提灯の赤い灯りが二人の影をゆらゆらと揺らすのとは対照的であった。


「彼女は、あちらの世界では脳性麻痺で五歳のころからカプセルを出ていません。お父様の嶺博士によって、こちらのサウスさんの脳にはBMIが埋め込まれているそうです。意識と拡張人体の統合実験の初期段階の成功例が彼女です。」


 ベンチからすっと立ち上がった芦原は腕を組んで周辺を行ったり来たりしながらしばらく考えをめぐらせていた。


 夜空に煌めいて揺れるカラフルな短冊の群が彼女の思考を追う柔らかい波のように行ったり来たりしていた。


「アートマンのプロトタイプの謎も解けちゃいましたね。まさかサウスちゃんがモデルになっていたとは。」平泉寺が立ち上がると、大野琴が頷いた。


「はい。まさに。」


「BMIの電極に繋がっているプローブはZEN由来のPFCに浸透させている。だから脳がZENと反応していて、曼荼羅に到達しなくてもサウスは覚醒することができた。」早口でそう言うと、平泉寺はゆっくりとため息を一つついて、行ったり来たりしている芦原を目で追った。


 足をふと止めて芦原が二人を交互に見ながら訊いた。


「さっちゃんはそんなに強いのか?」大野と平泉寺が大袈裟に頷いた。


「そりゃもう。だって、芦原さんが鍛えたんだから。」


 やがて人ごみを掻き分けるようにして、四人が戻ってきた。みな一様に弾け飛びそうな笑顔の下に、露店で買った透明な容器に入った焼きそばやたこ焼きなんかを抱えている。


 よく見ると、いつの間にかもふもふの猫耳を付けたサウスだけは、射的やパチンコの景品を腕いっぱいに抱えていた。


「マホロ! これ、全部さっちゃんが取ったんだよ! ゲーム機とかスマホもあるの。すごいでしょ!」


 サウスがにんまりしながら続けた。


「それから、これ。ノースにピアスをゲットしたよ。ママのピアスは釣り針にしちゃったからね。」そう言うと、サウスは景品の山を落とさないように慎重に、真紅に輝く小さな石が入ったピアスをノースの手のひらに優しく置いた。


 驚いたノースは口を開けたままそれを受け取って強く握りしめた。


「さあ、食べようぜ!」照れを隠すようなサウスの言葉に、ノースが照れ隠しながらお尻を叩くと、サウスはびっくりして景品をぼろぼろと落としてしまった。むっとしてノースを振り返るも、ノースは知らん顔をして言った。


「言葉遣い。」


 祈りの短冊を揺らすようにこぼれ落ちる7人の笑顔が、露天の提灯の柔らかい灯りに照らされ、ナイトマーケットの夜は更ける。


●2036 /06 /20/ 23:22/ 管理区域内・平泉寺邸2F


 2回目の奥越、最初の夜更け。賑やかな笑い声と共にナイトマーケットから一行が帰って来た。


 ぼくは2階のすこやか君の部屋でうとうとしていた。ループに入っていないと思っていたすこやか君は、ただの人見知りだった。あんなに懐いたと思っていたのに、子供って面倒である。


 階段を上がる音がしてドアが開くと、眠っているすこやか君を両手で抱えた平泉寺さんが部屋に入ってきた。


 すこやか君を布団に降ろして肩までブランケットをかけると「おやすみ」と言って部屋を出ようとした平泉寺さんに、ぼくは決断を告げた。


 彼女は「じゃあ、明日だね。」と囁くと、ぼくを強く抱きしめた。ぼくは平泉寺さんの温もりの中で凍りついてしまう。平泉寺さんの温度なんて、想像したこともなかったのだ。


 ぼくのそんな状態を知ってか知らずか、平泉寺さんはそのまま動かなかった。ぼくは全身で平泉寺さんの鼓動を感じていた。しばらくするともう一度耳元で「おやすみ」と言ってドアを閉め、彼女は部屋から出ていった。ぼくはなんだかショックで眠ることができなくなってしまった。



●2036 /06 /20/ 23:22/ 管理区域内・平泉寺邸2F


 2回目の奥越、最初の夜更け。賑やかな笑い声と共にナイトマーケットから一行が帰って来た。


 ぼくは2階のすこやか君の部屋でうとうとしていた。ループに入っていないと思っていたすこやか君は、ただの人見知りだった。あんなに懐いたと思っていたのに、子供って面倒である。


 階段を上がる音がしてドアが開くと、眠っているすこやか君を両手で抱えた平泉寺さんが部屋に入ってきた。


 すこやか君を布団に降ろして肩までブランケットをかけると「おやすみ」と言って部屋を出ようとした平泉寺さんに、ぼくは決断を告げた。


 彼女は「じゃあ、明日だね。」と囁くと、ぼくを強く抱きしめた。ぼくは平泉寺さんの温もりの中で凍りついてしまう。平泉寺さんの温度なんて、想像したこともなかったのだ。


 ぼくのそんな状態を知ってか知らずか、平泉寺さんはそのまま動かなかった。ぼくは全身で平泉寺さんの鼓動を感じていた。しばらくするともう一度耳元で「おやすみ」と言ってドアを閉め、彼女は部屋から出ていった。ぼくはなんだかショックで眠ることができなくなってしまった。


●2036 /06 /21 / 18:30/


  勝山市管理区域内・平泉寺邸・工場内倉庫


 夏至の夕方、平泉寺さんの工場の地下の空間でPFCスーツを着て並んだぼくと大野琴の目の前には、見慣れたカーボンボックスが置いてあった。一辺が1メートルちょっとの黒い立方体だ。


ー結局ぼくはこの世界に残ることにした。せっかくぼくを迎えにきてくれた大野琴には申し訳ないけれど、この世界を捨てることは、どんなに考えてみても、できなかった。


 小舟側の世界に暮らす小舟、その裏側の世界で生きる双子。二つの世界は裏と表で、そのどちらにもぼくは存在していた。


 だけど、大野琴は違う世界からやってきた。全く想像もつかない事が起こった。どんなに考えてみても、向こう側の世界を実感する事ができないままだった。


 だから、正直にいうと、何かを考えたりはしていないのかもしれない。ただ、実感できないだけなのだ。


 すでに高い夏至の朝日を浴びながら、縁側に並んで座る大野琴に、ぼくがそれを正直に告げると、彼女はその大きな瞳に涙を浮かべた。夏の蝉の声がする。太陽に音があるとしたら、蝉の声に似ているだろうか。


 彼女に時間が必要なことはわかっている。ぼくは「ちゃんと」考えるように努力を続ける。だけど、どんなに考えようとしても実感できないことを考える事はできなかった。ぼくはただ、彼女を待つともなく待っていた。


 縁側に腰をかけたまま、覚えていないくらいの長い時間が経った。彼女が大きなため息を吐きながら深く頷いた。


「私、9月から、研究職に就くの。だから、この二つの世界を物理的に繋げる方法とか、両方に意識を残せる方法とか、考えてみようと思う。」絶え間なく鳴き続ける夏の蝉の声が、ぼくにとっては現実感のない彼女の話をどうにか現実に引き戻そうと響き続けていた。真夏の朝、晴れ渡った空に掛かるきらきらした地球環を見ながら、ぼくは言った。


「大野さんはすごいね。ぼくなんかが話していい人じゃないような気がする。」ぼくがそう言うと、彼女は寂しそうに笑った。


「そう言う無駄にネガティブなところは、ほんとに同じ人みたい。」


 嬉しいような、悲しいような、不思議な気分だった。


「ぼくの方はレベルの低い話だけど、9月から学校に戻るよ。ちゃんと生きてみようと思うんだ。」


 ふふっと言って、微笑むと彼女は立ち上がって、ぼくの頭を撫でた。誰の手とも違って、そこには不思議な柔らかさがあった。


「それがいいと思う。あなたは別の九頭竜くんだし、あっちの世界は大変だよ。」ぼくは彼女を見上げた。昼前の太陽が高くて、影になった縁側は暗くて、浴衣を着た彼女のシルエットは淡くて、彼女がこの世界からすぐに無くなってしまう存在である事を十分に予感させた。


●2036 /06 /21 / 18:40/


  勝山市管理区域内・平泉寺邸・工場内倉庫


ー大野琴は一人で向こうの世界に帰ることになった。大野琴を送り出すのは、ぼく一人の任務だ。


 それは、みんなでいる時に、ぼくが言い出したことだった。大野琴を手ぶらで返すことを決断した以上、ぼくが責任を持ってカプセルまで送り届ける。まずは夕方に工場の地下でカーボンボックスの荷物に紛れる。後の手順は1回目と同じだ。


 箱の中から遠く冷たい天井を見上げる。平泉寺さんが優しく二人に微笑みかけると、ゆっくりとボックスの蓋を閉めた。


 カーボンボックスの中に完全な闇が訪れるとすぐに、大野琴はぼくの手を探し出して握った。


 ぼくらは、底から湧き出る生暖かいPFC溶液に徐々に浸かり始める。


 強い金木犀の匂いがする。初めて彼女に会った時にした香りだ。金木犀の匂いは実際PFC溶液の匂いだ。でも、ぼくにとってこの匂いは、大野琴、彼女そのものだった。


 彼女に初めて会った夜、ぼくは自分が死んだと思った。そして彼女は、死者を迎え入れる大船の観音様そのものだった。そんな強い印象と優しい金木犀の匂いが、ぼくの中で頑なに結びついていた。


「こんなに真っ暗だと、どっちの九頭竜くんか分からないね。」その言葉がぼくに向けられたのか、それともただの独り言なのかわからないままでいると、彼女はボックスの中で体をもぞもぞと動かし始めた。


 顔のすぐ近くで、彼女の熱い呼吸を感じた瞬間、彼女の唇がぼくの唇に触れた。夢で知っているこの感触。彼女はひととおり激しくぼくの唇や舌や歯並びを確かめ続けると、しばらく唇が触れ合ったまま動かなかった。


 暖かくて、柔らかくて、ちょっとしっとりして、やっぱり暖かい。ぼくは彼女を強く抱き寄せた。折れてしまうんじゃないかと思うくらいに迷う事なく思い切り。同時に彼女もぼくを強く強く、抱き締めた。PFC溶液に唇が浸かってしまうまで、二人はずっとそうしていた。


●2036/ 06/ 21/ 21:15/ AG-0 地下6階カプセル群


 AG-0のPFC浸透プールの底に到着し、ボックスが底面に収納されると、ぼくらはそこを泳いで上がった。見慣れないPFCスーツ姿の大野琴が、青白く揺らめくこの長い円柱のプールを泳いで昇る姿は、まるで、だけどやっぱり人魚のようで、ため息が出た。


 今は思い出さないように努めていた双子の事を、やっぱり思い出してしまった。


 ぼくは大野琴の恋人ではない。だけど、彼女と一緒にいる間に他の人のことを考えるのは、なんだか失礼なことのような気がしたのだ。


 その後も手順通りに行動し、ぼくらは地下6階のカプセル群にたどり着いた。


 カプセル群は前に来た時と同じように暗く、幻覚マーヤーで見た爽やかな墓所とは違っていた。この中に双子の両親が眠っている。ぼくはあの日のことを思い出す。


 彼女はしかし、迷うことなく真っ直ぐ歩き、ぼくたちはすぐに彼女の入るべきカプセルに到着してしまった。その間、二人はずっと黙っていた。


 唇には彼女の感触が残っていたし、手のひらだけではなく、腕や背中にも彼女の感触が残っていた。


 「これが九頭竜くんのカプセルで、こっちが私の。」


 彼女は「私の」と言って指した方のカプセルの入り口を跨いで前に向き直ると、「送ってくれて、ありがとう」と言った。ぼくは黙って頷いて、カプセルの取手に手を掛けた。


(このまま、彼女を帰してしまってもいいのだろうか。こちらの世界に彼女が残ることはできないのだろうか。)昨日からずっと同じことを考え続けている。決断が揺らぐ。やっぱり彼女を引き止めるべきじゃないのか。ぼくは、この人が・・・。


「待って!」彼女はそう言うとカプセルを飛び出して、ぼくの胸に飛び込んだ。


「もうちょっとだけ。」彼女の言葉が、呼吸が、熱になってぼくの胸に広がる。ぼくは彼女を強く抱きしめる。


 結局これでいいのだ。


 ぼくはそう思う。強く思う。


 彼女には彼女が生きる世界があって、それが例え荒廃した世界であっても、彼女はそこで生きているのだ。


 彼女には彼女の生きるちゃんとした理由あって、その世界が彼女のことを必要としているのだ。しばらくの間、ぼくは胸に彼女の熱を感じるに任せていた。


 もう一度彼女がカプセルに入ると、ぼくらは見つめあったまま頷いて、どちらからともなくカプセルの扉を閉じた。彼女は少しおどけたようにカプセルのガラスに唇を当てると、最後に微笑み、そっと目を閉じた


「さよなら。」その声が彼女に届かないのは分かっていたけれど、ぼくは、目を閉じた彼女に向けてそう言った。


 彼女の足元に真っ黒なPFC溶液が湧き出し、徐々に水位を上げる。


 ぼくは彼女の顔を見つめていた。大船の観音像の階段で出会ってから、ずっと恋焦がれていた人だった。


 幻覚の中や、雨の腰越。ぼくはいつも彼女に驚かされてばかりだった。真っ黒な溶液が彼女のその小さな唇に迫り始めた。


「待って!」ぼくは思いっきり力を入れて、カプセルの取手を引いた。


 得体の知れない真っ黒な溶液が飛び散りながらあふれ出し、どばどばと足元にこぼれた。大野琴はぼくの胸に倒れ込んで咳き込んでいる。


 ぼくは慌てて両腕で彼女を抱え上げ、地面に広がる黒い溶液から遠ざけた。


 なぜ気がつかなかったのだろう。ブラフマンは宇宙そのもの。二つの宇宙が同時に存在することなど許したりはしない。ぼくは天を仰ぎ叫んだ。


「ブラフマンが、世界の往来を止めている!」


「ぐろあああああおおおおおおああああああああああああああああ!」


 刹那、これまでとは比較にならない迫力で、低く響きわたる獰猛なサウスとシヴァ神の虎ヴィヤガラーサナの咆哮がAG-0の空気を、そして建物そのものをびりびりと大きく震わせた。


 


「クズリュウ!」大きな声に振り向くと、ヴァジュラ砲を構えるノースを真ん中に、芦原中隊の全員がアートマンを纏ってそこに立っていた。七人が並び立つその姿は、ぼくにはマーベルのヒーローよりもかっこよく見えた。


「ノース!」


 


 彼女は金色に光るヴァジュラをぎらりと光らせて叫んだ。


「つべこべ言わずに、世界を救うよ!」


 つづく

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