【SF小説】 ぷるぷるパンク 第17話 羽田空港襲撃事件【2】

●2036 /06 /04 /23:10 /羽田空港国際線ターミナル屋上


 ふたさんひとまる。夜に浮かび上がる青や緑の点線が、クリスマスのイルミネーションのよう。SF映画で見た未来みたいで綺麗だなと思う。夜空を渡る地球そらが、天の川みたいにきらきらしている。

 駐機場に・・・。あれ?


「ノース、これって・・・。」珍しく、さっちゃんがあたしの日記を遮った。

「どうしたの?」さっちゃんが緊張するなんてかなり珍しい。さっちゃんは作戦中にも関わらずゴーグルを外し、手のひらで両目を覆った。「痛って〜。」


「痛っ。」不意に目の奥に刺すような痛みが走り、それがズキンズキンと続く。あたしもゴーグルを外してこめかみを抑えた。

「ノース? これって夢?」

 突然、断片の集まりが脳の裏側からランダムに流れ込んだ。何の断片? 記憶?


これは、夢。誰かの夢/ノルテ。よかった。あら、とっても綺麗になったのね/さっちゃんにはノースの匂いがする/毎日目薬すること/私もノースって呼んでいい?/そういうの、すごい、ひどいよ/眼鏡は悪口じゃない/さっちゃんはね、アワラがママだったらいいなって思ったの。/あなたがいるから私はなんの心配もしてないよ/みんなで世界を救うんだ!/強くて、優しい/ばか/これは、ぼくだけが見ている夢?/ノース!


「クズリュウ・・・。」


 あたしとさっちゃんは、何故か戻ってきた。6月4日の羽田空港。ZENの強奪計画の夜に・・・。

 

 AG-0の最上階で・・・。

 そうだ、あたしはボロボロにされたクズリュウをブラフマンからもぎ取って、そして・・・。AG-0は崩壊。巨大化するブラフマンの衝撃波に突き飛ばされて・・・。


 そして得体の知れない「無」のようなものに飲み込まれ、意識を失った。多分、意識だけではなく、肉体も全てを失った。しかも、それがスローモーションのように永遠だったから、世界や宇宙が失われていくのも分かった。


「さっちゃん!」あたしはさっちゃんを抱きしめる。「よかった。生きてた!」

「ノース? さっちゃんは、大野ちゃんと一緒に必殺技をだしたら、何もない宇宙まで飛ばされて。すぐにここについた。これって、夢だと思う?」


ーこれは、ぼくだけが見ている夢? 勝山橋のたもとでクズリュウが言った言葉。記憶を辿ろうとすると、血流に合わせて頭がズキズキと痛む。


「さっちゃんが言う夢って、どっち? AG-0? それとも・・・。」

「わからない。どっちも夢であってほしい・・・。」


「双子! 何やってるんだ。ちゃんとスタンバイしろ」サカイが少し離れた場所から叫んだ。


「はい!」あたしは、自分があの日いるべきだった場所に戻った。引き戻された、というべきか・・・。

 作戦は体が覚えていたから、次に何をすればいいのか、何を言えばいいのか全て分かっていた。だからあの日の通りに動くことができた。


 天窓のガラスを割り、ナノカーボンのロープを伝って出発ロビーに降りると、下着姿になって、アートマンに変身した。PFCスーツに慣れてしまうと、これはこれで恥ずかしい。

 マホロのアートマンほど輝いてはいなかったけれど、あたしたちのアートマンは金色の光を放った。金色・・・。そして背中にずっしりとその存在感を放つヴァジュラ。やっぱり、これは二度目なのだ。嫌でも実感してしまう。


「ノース。さっちゃんたちは、このまま・・・、このまま進めば死ぬ・・・。」


 シンガポール航空の機体に向けてナノカーボンロープで上昇しながらさっちゃんが言った。あたしも同じことを考えていた。

「わかってる。やり方を変えなきゃ、さっきまでと同じことになる・・・。」

「ZENを・・・。」さっちゃんはそう言いかけて口をつぐんだ。

 シンガポール航空SQ638からZENの入ったケースを強奪しなければ、作戦はRTAの思い通りに成功する。アマチや仲間たちは驚くだろうが、サマージは無事に存続する・・・。


 きっと。今となってはそれが、あたしたちがずっと求めている「普通」の暮らしなのかも知れない。

 AG-0もブラフマンも存在せず、RTAからも追いかけられず、あたしは毎日ヒュッテで時間を潰し、さっちゃんは毎日カウンターでビットコインを確かめる。前回の空港以前の生活だ。


「わからない。何が正しいの? ねえ・・・、さっちゃん。」

「そうなんだよ・・・。でもさっちゃんは、今わかってる最悪を防がないといけないと思う。」

 そうだね、そう言うと思った。さっちゃんはいい子だもんね。

 あたしはさっちゃんをヘルメット越しに撫でた。あたしたちはロープにぶら下がって止まっていたから、バランスを崩してしまって、ぶらぶらと揺れた。さっちゃんが子どもみたいに笑った。


「そうと決まれば。」機体を離れながら声を上げると、マスクをあげてさっちゃんが答えた。

「地下だね!」

 私たちはSQ638を襲わずに、地下へ向かった。


 前回の空港襲撃ではこの後、地下で待機している火力部隊が自衛隊に殲滅される。まずはそれを防ぐ。

 その後のことは、その後のこと。


●2036 /06 /08 /20:00 /大船 カフェ・ヒュッテ


 結局、作戦はRTAの思惑通りに進み、成功した。サマージの関与が世に知られることはなかった。アマチは激怒して、あたしたちを穴が開くほど睨みつけ、それからは口も聞いてくれない。


 日本政府はア国と共同でZENの採掘をすすめる不平等な条約に調印した。

 前と同じなら、クズリュウと出会うはずの時間を2時間過ぎても、ヒュッテに彼は現れなかった。あたしたち自身が未来を、え?  過去を? よくわからないけど、変えてしまったのだろうか。


 あの時は降っていなかった雨がしとしとと降っている。さっちゃんはカフェのカウンターに突っ伏して、クズリュウを待ち続けた。 

 彼を待っていたのは多分あたし。さっちゃんはそれに付き合ってくれているだけ。

 ありがと、さっちゃん。


 突然ドアの竹細工が鳴り、顔をあげると、入ってきたのはミクニだった。

「二人とも、元気ないな。」そう言ったミクニの方が、あからさまに覇気のない声を出していた。

「みーくーにー。」カウンターに突っ伏したままのさっちゃんが、ミクニの声に反応した。

「ミクニが生きていられるのは、さっちゃんのおかげだよ。」

 ミクニはカウンターのスツールに腰掛けながら苦笑する。(確かにね。)とあたしは心の中で頷いた。

「いや、ほんとそうだよ。今日もこうして、さっちゃんに会うために生きてるんだよ、おれは。」ミクニがそう言うと、さっちゃんは「ばーか」と言ってミクニと逆の方向に向き直って突っ伏した。


「ノース。おれはサマージを抜けようと思う。」突然の言葉にあたしは耳を疑って、カウンター越しにミクニの顔を覗き込んだ。

「北陸に、サマージを抜けた隠れサマージって集団が潜伏してて、RTAと対立しているらしい。」

 あたしは、エッセルが見せてくれた幻覚マーヤーを思い出した。でも、それを伝えるのはミクニではない気がして口を開かなかった。

「明朝、おれたちカワサキ・サマージは隠れサマージの討伐に出発する。でも、おれは降りるよ。」


 さっちゃんがびっくり箱のピエロのように、びよんと起き上がった。

「嘘!」さっちゃんが叫んだ。あたしも驚きを隠せない。しかし、一番驚いたのはミクニだった。

「あ、うん、明日。」ミクニはきょとんとして言った。


「なんて?」さっちゃんがミクニを詰める。

 ミクニは、いくら「隠れ」と言ってサマージを裏切ったとはいえ、同じトゥルクの隠れサマージと戦うことはできないと言った。

 隠れサマージといえばやはりエッセル。あたしとさっちゃんは目を見合わせた。何かに近づくことができるかもしれない。もやもやのなかに隠れている何か。もし、エッセルと話せれば。もし、あのナイトマーケットで平泉寺を見つけることができれば。


 6月9日、あたしたちはサカイの指揮の下、前回の出発よりもかなり早く北陸に向かった。

 20人ほどが詰め込まれた輸送トラックの空気は、これから起こるだろう未来の予感に殺伐としていて、三人で寝ながら過ごした一度目とは全く違っていた。


 ナイトマーケットのあった観音ゲートを横目に通り過ぎ、早朝には恐竜川河口の火力発電プラント跡地にあるホクリク・サマージのアジトに到着した。


 毎日歩いたエメラルドグリーンのあの川が、下流ではこんなに立派な川になるなんて。育ての親みたいな気分で少し誇らしい。

 あたしたちは隠れサマージを探し出し合流するため、その夜アジトを離脱した。

 事情を殆ど知らないのにあたしたちに言い包められ、結局サマージを辞めなかったミクニも行動を共にしている。クズリュウよりは役に立つかな。


 クズリュウはどうしているのだろう。



●2036 /06 /04 /23:10 /管理区域内・平泉寺邸


 すこやかを寝かしつけたまま、その隣でうとうとしていた平泉寺が目を覚ました。窓から入る地球環の薄暗い明かりが、すこやかの無防備な寝顔を浮かび上がらせている。平泉寺の全身は汗でびっしょりと濡れていた。


 ブラフマンとの戦いの後、見届けることはできなかったが、覚醒した大野琴がサウスと共に発動した「空劫くうこう」すなわち「無」は、ブラフマンを無事に取り込めたのだろうか。しかし、こうして生き延びているということは「空劫」によって宇宙そのものであるブラフマンを取り込むことには失敗しているはずだ。

 もし「無」がブラフマンを取り込んだとしたら、輪廻は全て停止、宇宙や世界やそれを観測するすべてのものが消失するはずだからだ。


 一体、何が起こったのだろう。


 平泉寺は汗だくのTシャツの中に手を入れて、鉄筋が何本も刺さった上半身を触った。汗でぐしょぐしょに濡れた肌以外には傷も熱も認められない。

 いつも通りの身体だった。平泉寺は長いため息をついた。マーヤー状態に見た幻覚があまりにもリアルすぎて、少し呼吸が乱れているのだろうと分析した。しかし、この記憶のどこからが幻覚マーヤーなのか、平泉寺にも分からなかった。


 冷蔵庫のオレンジの灯りに浮かび上がる平泉寺のひたいからは、冷や汗が垂れ続けている。麦茶の容器を取り出して、コップを探す。食卓に目をやると、その中央には描きかけの曼荼羅とその上に転がる何本かの鉛筆があった。


 この間完成させて、おばさまに渡したはずのスカーフの原画だ。


 顔から血の気が引くのが分かった。

 急いで居間に行き和箪笥からヴィジョンゴーグルを取り出す。装着する手が震える。すぐに芦原のメールを探したが、見つからない。日付が6月4日になっている。

 

「平泉寺少尉・・・。」不意に大野琴が私の顔を見て発した言葉を思い出す。それは、地球環のない世界の記憶に触れる片鱗。


 平泉寺は小物入れの木のお皿から車の鍵を掴み取り、上の部屋で寝ているすこやかを抱き上げると、急いで車の後部座席まで運び、土煙をあげて車を出した。とりあえず藤沢だ。アワラさんに会いに行こう。平泉寺は川沿いの道を飛ばした。


 しかし、到着した観音ゲート周辺では夜中にも関わらず、RTAの武装兵士がゲートを閉鎖していた。こんなことはあるはずがない。


 歴史が変わっている?

 管理区域の中に籠ったまま、三人が来る6月20日を待つ他はないのだろうか。


 次の朝、この管理区域を巡る長い対立の要因だったZEN採掘について、日ア共同声明が発表された。日本がついにZEN採掘国として承認されたのだ。嶺姉妹が所属するカワサキ・サマージが新たな動きをしたのだろう。双子が関わった作戦が失敗したのだろうか。姉妹は無事なのだろうか。


 日ア共同声明の後、ゲートは完全にRTA管轄に変わりしばらくの間往来が中止された。IDに新たな生体認証が導入されるらしく、それまでの間の措置とのこと。


 詳しい事はわからないが同じ頃に反対派や隠れサマージの弾圧が強まり始めた。外にいるおばさまとも連絡が取れなくなってしまった。闇市は閉鎖され、区域内の住民には食料や生活用品が政府から配給されることになった。


 AG-0のATMAからは、これまでの倍以上の量のプローブ生産を要求された。


 世界は違う形で救われたのだろうか。この奥越地域を犠牲にして・・・。


●2036 /06 /05 /11:49 /大船・九頭竜家


 目が覚めると大船のマンションの自分のベッドだった。すごく懐かしい感じがする。昼前の日差し。雨季なのに今日も晴れ。何年かに一回はそういう雨季もあるだろう。サマージのアジトに潜入したあの夜以降、雨は降っていなかった。雨が面倒なぼくにとって、いいことではある。


 AG-0の後の幻覚マーヤーでついに大野琴が出てきた。いつものように倒れているぼくに覆い被さり・・・。


 あ。ぼくは鉄骨が突き刺さった腹部を確かめた。


 そうだ、その幻覚マーヤーの中で、彼女はぼくの傷口に手を当てて、デジタルノイズを発生させて傷を治したのだ。最後の景色かと思った破れた天井の穴から見えた雨雲の隙間で弱く瞬く星空・・・。


 ぼくはベッドに横になったまま腕を上げ、手のひらを何度も返しながら自分の指、そして爪を確かめた。昨日は爪が剥がれて血だらけになっていた。小舟から黒いアートマンを剥がそうとして・・・。小舟? 小舟は無事だろうか。夢の中とは言え、どうにも気持ちが悪い。小舟の悲鳴と共に、ぐちゃりという不気味な音がした。

 指先が熱くなって痛む。腹の傷跡が痛む。右耳の後ろが痛む。


 小舟がブラフマンに潰された。小舟の悲鳴。小舟は、死んだ。


 ぼくのせいで、小舟が死んだ。なのに、ぼくは生きている。「ちゃんと」生きている。「ちゃんと」の意味が間違っている。本当はもっと、ひたむき、とか頑張ってとか、そんな意味でちゃんと生きる事を求めていたはずだ。死なないでちゃんと生きているとか、そんなことではない。


 こんなことを望んでいたわけではないのだ。ひどい夢だ。


 ノース・・・。夢の最後ではノースとAG-0の外に放り出された。ぼくを抱きしめていたはずのノースがいない。辺りを見回してもいない。誰もいない。体が重たくて、なかなか起き上がることができない。


 あの時、サウスが彫像になる直前、平泉寺さんが、駆け出したぼくとノースの間に透明の波動を放った。あの瞬間からが幻覚マーヤーなのだろうか。ブラフマン? いや、もしかすると、あのドームがすでに幻覚マーヤー? ドーム前に入った立方体の暗い部屋?


 ああ。多分、それだ。


 金属の立方体キューブがアートマンに、いや、ブラフマンに変わるわけがない。そんなことは、夢に決まっている。幻覚マーヤーの中で起こったことなのだ。


 すぐにぼくは思い直す。何もないところからからアートマンが出てくるこっち側、サマージや双子側の世界だ。何でも起こりうるだろう。


 重い体を何とかベッドから引き剥がし、眼鏡を探し、Tシャツの裾でレンズを吹いて、それを掛けながら居間に向かった。ソファーに座って姉とその恋人(通称おっさん)がモニターを見ながらビールを飲んでいた。もう、この人たちは昼間っから・・・。


「あ、荒鹿くん。おはよう。」昼間っから風呂上がりなのか、タオルを首元に巻いたおっさんはビールの缶をテーブルにおいて、座り直した。ぼくなんかにちゃんと気を遣っているのだ。人見知りの妖怪め。


「おはようございます。」ぼくは軽く会釈をした。


「荒鹿、空港がなんだか、大変みたいだよ。災害チャンネルついてるの。」そう言った姉は、喉を鳴らして缶に残ったビールを飲み干した。

「また?」ぼくはモニターを見た。

「ーテロ組織の狙いですね。それが、全くわかっていません。それでも、空港に居合わせた一般の方が18名亡くなっています。


 とはいえ、空港機能自体の被害は大きくなく、政府は今週中にも空港の完全復旧と業務再開を宣言したとのことです。では、もう一度、昨晩6月4日深夜から今日5日未明にかけて起こった羽田空港のー」


「え? 今なんて言った?」ぼくが大きな声を出したから、缶からビールを飲みかけていたおっさんが口元にビールをこぼしてしまった。

「テロ〜。」姉は完全に酔っ払っている。ぼくは何度も瞬きをして、コンタクトのチャットアプリを探した。視界には何も映らない。

「荒鹿?どうしたの?」姉が不思議そうにぼくを見上げている。


「コンタクトが。」

 ぼくは眼鏡を外してコンタクトを探すために、人差し指を目に入れた。

「痛てっ。」


「何やってんの? 眼鏡してるでしょ。」姉が心配そうな表情でぼくを見上げるから、気まずくなってぼくは自分の部屋に戻った。


 日付が戻っている? あれ? ぼくは居ても立っても居られずに、再び居間を抜けると、あっけに取られたようにソファからぼくを見ている二人の酔っ払いを横目に、玄関でサンダルをつっかけてマンションから駆け出した。


 ノース・・・。ぼくは何も考えずにヒュッテに向かった。


 雨季の晴れ間のぬるい空気が、走り出した肌にまとわりつく。地球環がぼんやりと浮かんでいる。商店街の通りには大型のスーパーマーケットを起点に、相変わらず高齢者たちがゆっくりと行き交っている。


 やっぱり。


 ヒュッテが営業している。竹細工を派手に鳴らしてドアを開けた。息が切れている。カウンターの中で食器を洗っていた中年のおっさんが顔を上げて、ぼくを見た。


 ぼくはポケットからスマートフォンを取り出し、店には入らずに駅に向けて歩き出した。スマートフォンの表示は6月5日12:10。


 2回目? これって・・・。あの夢がもし現実だったとしても、やり直せる?

 やり直せる? ってこと?


 もし、それが本当だったら。やるべきことはただ一つ。小舟を奥越に送り込まないことだ。

 おそらく、双子も前と違う行動をとったのだろう。空港襲撃事件の結果が変わっている。


 左の手のひらを強く開くと、金色の光の粒が手のひらに集り始めた。ぼくは急いで手の力を抜きポケットにしまった。


 もし、やり直せるならば、ぼくは・・・、アートマンにならない。




●2036 /06 /05 /14:58 /鎌倉


 鎌倉の駅のロータリーで待ち合わせた学校帰りの小舟は、昨日の朝、平泉寺さんの家の前で別れた時よりも少しふっくらとしていた。ぼくは思わず彼女を抱きしめてしまった。小舟は多少の戸惑いをみせたものの、少し嬉しそうでもあった。


 これから自分がしようとしている事が、正しい事なのかはわからない。しかし、それが正しいか正しくないかなんて関係ない。ぼくは小舟を守る。


 大野琴が行方不明かどうかは、今の時点ではわかっていないはずだから、今はまだ聞かないでおくことにしよう。


 その日、ぼくは小舟を誘って辻堂のさびれたショッピングモールで何本も映画を見た。

 今夜ぼくは大野琴に邂逅することになっている。その時間が気になってはいたけれど、その時間、ぼくらは映画館で、誰からも興味を持たれないアニメの映画を見ながら過ごした。

 帰りの電車の中で、ぼくは学校に戻ろうと思っていると小舟に告げた。彼女はびっくりしていたけど、やっぱり嬉しそうでもあった。


 ぼくは、ぼくなりにちゃんと生きることにする。

 世界を救うなんて、そんな大それたことを、ぼくがする必要はないのだ。6月21日まで小舟を守る。ぼくの身の丈にあった世界の救い方。


 今回の経験で得られた教訓があるとすれば、これだ。

『身の丈にあったことをする。』世界を救う必要なんて、ぼくにはないのだ。


●2036 /06 /18 /22:50 /管理区域西部・緩衝地帯


 あたしたちは、10日が経ってもいまだに隠れサマージを見つけることができないでいた。逆にホクリク・サマージも裏切ったあたしたちを探しているらしい。踏んだり蹴ったりだ。


 マーケットは閉鎖され、マホロはおろか、すこやかさえ見つけることができない。ゲート周辺は警備が前より固くなっていて、武装した何人ものRTAの兵士が昼夜を問わずウロウロしていた。

 ミクニがあたしたちを疑い始めていたから、しょうがなく全てを話した。信じるとは言ったけど、あたしたちの話だって、このヤク中にとっては十字プラスを食って朦朧としている中で見る幻覚の一つにすぎないだろう。


 夜になって、闇の中にどうにか警備の隙を見つけながら倒れた鉄塔が塞ぐ農道の入り口にたどり着いた。エッセルに出会った場所だ。5体のアートマンとの戦闘が脳裏をよぎる。


 クズリュウの独白。ほっぺにちゅうをしてもらいたいと勝手に独白したあの戦闘。あの頃楽しかったな・・・。あたしは顔の筋肉に力をいれて、にやけてしまうのを抑えなければならなかった。


●2036 /06 /19 /10:40 /深沢高校


 小舟に宣言した通り、ぼくは学校に戻った。ぼくの身の丈にあった、ぼくなりにできる生き方。

 教室の前にいる背の低いおばあちゃん先生がタブレットに何かを書き込むと、それがヴィジョンゴーグルに投影される。


「E=mc²、エネルギーは物質の質量に、光の速さの2乗をかけたものに等しい。という式だね。物質からエネルギーを引き出したり、逆にエネルギーから物質を生み出すことができるっていうシンプルだけど、すごい式なんです。光の速さを不変とすることで、アインシュタインが特殊相対性理論からみちびいたって言われてるわね。」

 以前は全く興味のない物理の授業は、背の低いおばあちゃん先生が芦原さんを思い起こさせるから、比較的好きだ。それに、芦原さんの講義の内容とも被る部分があったし、特に感情をエネルギーに変えるらしいアートマンで置き換えたりすると、難しい式も想像しやすかったりした。何事も経験、ってことだろうか。


 学校に戻った初日は、職員室で2ヶ月の間埃をかぶっていた新しい教科書を受け取った。背の高い白髪紳士の担任の先生は、嬉しそうな顔をして見せたが、正直戸惑っていたと思う。


 学校が終わると、ぼくは小舟と大船で落ち合い、ファミリーレストランで教科書を広げ、休んで遅れた分の勉強を小舟に教えてもらった。


 この2週間、学校以外のほとんどの時間を小舟と過ごした。朝起きる時も、夜寝る時も一緒だった。姉の鳴鹿はぼくらが漸く付き合い始めたと言って喜んだ。小舟のご両親には鳴鹿との勉強合宿だと伝え「毎日ちゃんと連絡するならいいよ」という幼馴染み特権を乱用してずっと一緒にいた。


 あと2日。あと2日だけは、小舟から離れないようにする。その後のことは、その後のこと。


●2036 /06 /21 /22:30 /大船・九頭竜家


 ついに、夏至だ。


 その日、その時間がやってきた。ぼくはベッドの中でブランケットに頭までくるまって小舟を抱きしめていた。密着する肌が汗ばむ。


「荒鹿くん、暑いよ。」小舟がぼくの耳元で囁くように言った。もう少し。もう少しなんだ。ぼくは小舟を強く抱きしめる。繊細な髪の毛越しに、ぼくの手のひらに収まる小さな頭が柔らかい。


 だめだ、小舟。行ったらだめだ。


「暑いって。」小舟は力を入れてぼくを引き剥がすと、体を起こした。汗ばんで光る小舟の肌が、そして身体の線が艶かしい。


 ぼくのお腹に置いた彼女の手が熱い。「どうしちゃったの? 荒鹿くん」小舟は屈んでそっとぼくの唇にキスをした。


 不意に小舟の腕や胸にざーっとデジタルノイズが走った。

(だめだ! だめだ!)

 ぼくは心の中でさけび、咄嗟に起き上がると、驚いた表情でぼくを見つめる小舟をベッドに押し倒した。


「荒鹿くん?」ぼくは黙ったまま強く彼女を抱きしめる。小舟の息が耳元で荒くなる。ぼくは目を強く瞑った。

 目を開くと小舟の身体のあちこちに走り出したデジタルノイズが見えてしまう。嫌だ。嫌だ!


 ふと小舟の身体が軽くなり始めた。小舟の質量が・・・。ぼくは目を開けて腕の中の彼女を見る。


 小舟の体が半透明になっていて、増え続けるデジタルノイズと比例するように、その透明度は徐々に徐々に上がっていった。


「楽しかったよ、荒鹿くん。ありがとう。」

 そう囁いた小舟は、泣いていた。泣いていたけど笑っていた。それから、小舟は消えてしまった。


「小舟ーーーーー!」ぼくは叫んだ。ブランケットやベッド、部屋のドアや天井、視界の中にある物質がすべてデジタルノイズに変わる。


「ちくしょう。ちくしょう。」ぼくなんかには、世界どころか小舟一人を救うことだってできないのだ。悔しくて、涙が出た。涙はデジタルノイズにかき消されてしまった。


●2036 /06 /18 /22:55 /管理区域西部・緩衝地帯


 倒れた鉄塔を越え、あたしたちは緩衝地帯の農道に入った。あいかわらずぼこぼこの道には、新鮮で気味の悪い人の血の匂いがしている。RTAとの衝突が増えているのだ。


 先頭を歩くミクニの足元で突然地面が爆ぜるような音がして、土埃が上がり、空を切り裂く細い風の音が続いた。あたしたちは咄嗟に左手にプラークリットを準備する。


 何も起こらない? 

 あれ? あたしたちの足元の地面には発光する曼荼羅の模様が広がっていた。


「ちくしょう!」さっちゃんが叫ぶ。解除の技業わざ、禅のことわり壊劫えこうだ。罠にかかった。


 ダダッダダダ。マシンガンの連続する低い銃撃音が周囲のあちこちから聞こえ、ミクニとさっちゃんが地面に突っ伏した。地面で発光する曼荼羅に照らされて、柔らかくて暖かい血が鮮やかに地を染める。


「さっちゃん!」駆け寄ろうとしたあたしも背中を鈍器で殴りつけられるような衝撃と共に、銃弾を何発も喰らった。薄れ行く意識の中で、あたしはこう思った。さっちゃんには伝わるだろうか。


 ごめんね。また救えなかったね、世界。


 つづく



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