【SF小説】 ぷるぷるパンク 第16話 ブラフマン 

●2036/ 06/ 21/ 22:08/ AG-0 最上階


 時間はすこしだけ遡った最上階のドーム。ブラフマンの登場で場の重力が歪み、ブラフマンから滲み出る漆黒の闇が全てを覆う。


 漆黒のアートマン、ブラフマンがその両腕を大きく広げドームの中心に、神のようにそびえ立っている。

 全てを収束させる漆黒の神。ぼくはその圧倒的な存在感に、身を委ね、なすすべもなく自らの収束を待っていた。


「ぐろあああああおおおおおおああああ!」


 獣のように低く獰猛な咆哮。上空のサウスを見上げると、翼を広げたサウスの傍に、アートマンのアーマーを纏った虎のような動物が今にも飛びかかりそうに低く構えていた。


 ぼくは自分の目を疑った。

 ぼくはその獣を見て、ブラフマンに視線を戻す。

 そしてもう一度頭上の獣を見上げた。

 それから、もう一度ブラフマンに目をやった。念の為、自分の感情の動きを確かめようとしたのだ。


 サウスの背中には光り輝く大きな翼があって、その傍には獰猛な虎。それはサウスの指示を待っているようにも見えた。そして、収束の死神、漆黒のブラフマンに堂々と対峙している。


 さっきまでぼくを、そしてドーム全体を覆っていた終末感が、あれ? なくなっている?


 いや、さっちゃんさん。かっこよすぎじゃありませんか? そんなに全部乗せみたいな事、ある?


シヴァ神の虎ヴィヤガラーサナ・・・。」平泉寺さんが呟いた。マスク越しでは、彼女がどんな表情でそれを言ったのか、ぼくに知る由はなかった。


 獣に跨ったサウスがぼくらの頭上で、光の半球に降り立った。胸を大きく前に突き出し、腕を真っ直ぐ下に伸ばし拳を強く握る。

 サウスの両拳に金色の銀河が出現した。繭のドームと接している虎の足からは、ばちばちと光の火花が飛び散って、半球の中にいるぼくらには小さな金色の光の粒が四月の雨のようにぱらぱらと降りかかった。


 サウスの咆哮が二度、空間中に響き渡る。


 それはまるで牙の間から生唾を滴らせる獣。肉食の獣。

 サウスのマスクが、しゃっと開き彼女のピンクの瞳孔が金色に発光した。

 サウスを乗せたシヴァ神の虎ヴィヤガラーサナが低くかがみ込むと、氷のように硬いはずの光の半球がしなるように縮み、その反動を使った猛獣使いは天井のギリギリまで高く高く飛び上がった。


 ぼくとノースはマスク越しに目を合わせ頷くと、光の半球の外へ走り出した。そのうしろから平泉寺さんが叫ぶ。

「禅のことわり壊劫えこう!」走るぼくとノースの合間を、空間を歪める透明な波動が一直線に飛び抜け、黒いアートマン、平泉寺さんがブラフマンと呼んだ人影を捉える。


 ブラフマンの足元には、それを中心に9つの正方形と内側に広がる円の光の筋が現れた。光は、ばばっと勢いを伴って立方体キューブ状に起立した。

「マンダラ!」それを見たノースが言った。

「敵のアートマンを解く技業わざ!」


 頭上の高い位置からサウスと獣が、大気圏に突っ込む流星のように身体を前に突き出し、ブラフマンめがけて急降下を始めた。

 それを見たノースとその瞬間ぼくも思い切り地面を蹴った。拳に閃光をみなぎらせ、思いっきり飛んだ。躊躇を考えるような余裕はなかった。


 しかし、ぼくとノースのヴァジュラがブラフマンにぶつかる直前に、弾丸のように飛び込んできた猛獣使いがブラフマンに激突した。

 黄金の閃光が弾け飛び、光の塊が泡のようにあっという間にドームの中を埋め尽くす。


 ぼくとノースは硬質化したブラフマンに激突し、逆に弾き飛ばされ地面に叩きつけられた。しかし痛みよりも、奇妙な存在感に圧迫され、ぼくらはそれを見上げざるを得なかったなかった。


 周囲では、閃光が電流のように散らばって、泡のようにばちばちと弾けている。弾け飛んだ泡状の閃光の一つ一つが膨らんで、ドーム内に隙間がなくなってしまうと、それはばちばちと再び弾け分裂すると、膨らみながら増え続け、また弾け、それを繰り返した。


 空間を埋め尽くす泡の密度が急上昇すると、空気が薄くなり呼吸が困難なほどになった。大気からの粒子をあらかた反応させてしまい、あちこちで爆発が始まった。爆発が重なり続けると、その勢いがドームの天面を突き破ぶった。

 光は一本の槍のようになって夜空に向けて噴出した。先刻、小舟とすこやかが見た爆発だった。


 破れた天井からは、暴風が雪崩れ込み、ようやく呼吸ができるようになったものの、金属のプレートや鉄骨がぼろぼろと落下し、大きな音を立てて次々と地面にめり込んだ。

 残った光の泡は天井の穴から吸い出され、夜空に拡散して消えてしまった。


 光が落ち着き、闇が戻り始めたその空間には、猛烈に存在感を放ち続ける『それ』があった。


 ブラフマンとそれに殴りかかるヴィヤガラーサナに乗ったサウスが、固体化した光の泡によって硬質化している。黄金のギリシャの彫像のようだ。


『ブラフマンとそれに殴りかかる獣に乗ったサウスの像』。


 さながら神話のシーンを切り取ったような、そして、それは永遠から削り出された崇高な黄金の彫刻のようだった。


「マヒシャを倒すドゥルガーの女神像。トゥルクの神話・・・。」平泉寺さんの声が心なしか震えている。

 ぼくらはそれぞれその場に立ち尽くし、固唾を飲んでその光景をただ、見守っていた。


 ぼくらはそれぞれ、ただ立ち尽くし、ただ固唾を飲んでその光景を見守っていた。

 天井にできた大きな穴からは轟音と共に風が吹き下ろしていた。だけど、そんな全てを掻き消す圧倒的な存在感の彫像が、ドームの中央にそびえ立っていた。


●2036/ 06/ 21/ 22:34/ AG-0 最上階


 どのくらいの時間が過ぎているのだろう。誰も、何も言わなかった。いや、何も言うことはなかった。


 永遠のような時間が流れ、自分が呼吸さえ止めてしまっていることに気がついた頃、突如、彫像にヒビが入る小さな音がして、その隙間から黒い闇が、まるで闇らしくもなく勢いよく放射状に広がり出した。


 闇は辺りをさらなる闇で包んだ。そして、光をなくした黄金がメッキのようにぼろぼろと剥がれてしまうと、サウスと獣が大きく弾き飛ばされた。どうやらサウスは無事だ。


 ぼくらの頭上、ドームの屋根があった場所、そして今は風で流れる雨雲の間に星空と地球環が垣間見えるその場所で、黒い閃光が生み出した闇を打ち破るように、サウスは三度目の咆哮をあげた。

 立ち上がったぼくは、同時に立ち上がったノースの無事を目視で確認した後、振り返って平泉寺さんを確認した。ノースと平泉寺さんは、同時に黙ったまま頷いた。

 ぼくはかがみ込んで足に力を溜めて、咆哮を放ったばかりのサウスめがけて躊躇なく飛び上がった。ぼくは、加速したまま、サウスに頭突きをするような形で突っ込んだ。

『あんたは性癖が技になっちゃうわけ?』腰越漁港のノースの言葉が頭をよぎった。

 そうかも知れない、それならそれでいい。今ぼくにできることは、これしかないのだ。


「でてこい! 大野琴!!」

 刹那、黄金の閃光が炸裂し、サウスを中心に地球環のような閃光が真横に広がって消えた。


 地球環のように広がった閃光は空間に広がり尽くすと、すぐに消えてしまったけれど、その中心にゆらゆらと揺らぐ柔らかい光の塊が現れた。腰越の時とおんなじだ。

 サウスとぼくは眩い光の揺らぎから落下し、繭に当たって弾け飛んで地面に激突した。


 後を追うようにゆっくりと降りてきた柔らかいその光の揺らぎは、次第に大きくなりながら繭やぼくらを飲み込んだ。


「大野琴!」ぼくは叫んだ。光の中のセーラー服の少女が、倒れているぼくの声に振り返った。

 先ほどのサウスの一撃で動きを止めていたブラフマンがゆっくりと動き出し、音もなくその指先から黒い闇の塊をマシンガンのように撃ち込み始めた。繭を失った四人は連続でダメージを受ける。

「ぐへっ」

 ぼくは一発でかいのをみぞおち辺りにもらって、吹っ飛ばされ跳ね上がった調子に、天井から地面に落ちてきたばかりの剥き出しの太い鉄骨に、背中から突き刺さってしまった。


「うおおおおお!」激痛に顔が歪み、口から勢いよく血の塊が飛び出した。鉄骨はぼくの胴体を突き破り、その傷口はぼくの血や皮膚や内臓をグロテスクに滴らせていた。ぐへええ。痛ってええええええええええ! うおおおおおおおおお!


 ブラフマンが、立方体キューブのあった場所からゆっくりと歩き始めた。

 そして離れた場所から指先の力だけで、何故かぼくを持ち上げて鉄骨から引き抜くと、そのまま宙に浮かせた。胴体に激痛が走る。激痛という言葉では十分に言い表せない激痛だ。手足の感覚が消え、呼吸がままならず、鼻と口と傷口から血がこぼれ出し、ぼたぼたと嫌な音をたてて地面に滴り落ちる。


 視界に入る破れたドームの天井では、その破れたふちに沿ってびりびりと電流が走っているのが見えた。

(これが、人生の最後の景色なんだ、『死』は、案外・・・。そう、案外、全く想像もしていなかった方面から来てくれたものだな・・・。)なんて思う。


 雨雲が風で速く流されて、星空が見えたり隠れたりしている。体に開いた穴からは、ぼとぼとと大きな音を立てて血が滴り落ち続けている。痛ってええええええ。


 不意にぼくは勢いを付けて地面に叩きつけられた。すでに感覚のない傷口から、大量の血が勢いよく吹き上がった。まだ、吹き出すほどの血がぼくの体に残っていたのか。


 咄嗟に大野琴がぼくに駆け寄る。


「くそがああああああああ!」

 ノースが叫びながら空中を駆け、至近距離からヴァジュラでブラフマンに閃光の弾丸を連射する。獣はなったサウスは必殺の技業わざを繰り返し、平泉寺さんはバリアを再構築した。


 ああ、これは。

 これは、知っている。


 薄れゆく意識の中で、大野琴がぼくの傷口に手を当てる。彼女の手のひらの中にぽわんと揺らめく温かい黄金の光に照らされた傷口に、デジタルノイズのようなものがざーと流れた。それはみるみると傷口を塞ぎ、吹き出す血が止まって行く。

 デジタルノイズ。ミクニを殺した時に出てきたものと同じだ。


 薄れゆく意識の中で、あの夢が現実になってしまったことを知った。薄れゆく意識の中で・・・。あれ?


 しかし、いつまで立っても、意識は途切れない、それどころか、傷口が熱くなって、なんていうか、気持ちいい。いつの間にか指先の感覚もある。傷口は治癒していた。

 傍では、双子のコンビネーションが決まったのか、ブラフマンが歩みを止めた。双子は平泉寺さんの繭の中に戻り、大野琴もぼくを片手で引きずって、その中に入った。


「あいつはブラフマン。アートマンの対を成すもの。」平泉寺さんが言った。まるで、本か何かを読んでいるような口調だった。そして続けた。

「アートマンが自我を司り、そしてブラフマンは宇宙そのもの。トゥルクの伝説。実在したとは・・・。」


 大野琴が状況に首を傾げている。

「ここは? みんな仲間なんだね、今回は。」


 血の海の中で横になっているぼくに、ノースが飛び込んで抱きついた。

「クズリュウ!」


 それを聞いた大野琴が、突然雷に打たれたように体を大きくうねらせて、宙に浮いた。

 大野琴は宙に浮いていた。まるで時間が止まっているようだった。今までだって、物理の法則を破るようなことばかりが起きて来た。そう、彼女に初めて会ったあの日から。

 ぼくを抱き締めて泣いているノースの肩越しに、うつ伏せで宙に浮く大野琴と目が合っていた。やっぱり、時間は止まっているようだった。その理由にぼくは、ぼくを抱きしめているはずのノースがどのくらい近くにいて、どのくらい遠くにいるのか、まるで分からないのだ。


「くずりゅう?」大野琴が掠れた声で言った。そう言った彼女に、再び雷のようなショックが襲う。再び時間が流れ出し、大野琴は、宙に浮いたまま、陸上げされた魚のように大きく体をうねらせた。

「ああああ!」彼女はそのまま、突然重力を思い出したかのように落下し、顔面から地面に激突した。


 突然耳をつんざくような高い金属音が、轟くようにドームの中に響き渡った。

 体を起こして視線を戻すと、ブラフマンが熱を帯びて、マグマのように赤黒く発光し始めているところだった。

 ブラフマンのアーマーを構成する何枚もの黒いプレートの、それぞれの淵から放たれた赤い放射状の光の束が高温を伴って辺りを貫く。平泉寺さんの繭もそれにじりじりと削られ始めた。


 しばらくして放射状の光が収まると、そこには一変してマグマのように真っ赤なアーマーを纏うブラフマンが立っていた。ブラフマンの全体から水蒸気のような煙が立ち続ける中、ブラフマンのマスクがかしゃりと開いた。


 しかし、そこにあらわれたのはただの空洞だった。何も無い空洞は、全てを吸い込んでしまいそうなほど、何も無い空洞だった。


 突然、その空洞にバグったホログラムのようにブレたデジタルノイズが現れた。さっき、ぼくの傷口に出てきたやつと同じだ。

 デジタルノイズはブレ続けながら、時間をかけてゆっくりと実体化しようとしていた。ノイズは時折空間中に広がり、破れた天井を超えて空にまで届いた。


 ぼくも、他の三人も、変化を続けるブラフマンの顔の部分から目を離すことができなくなっていた。

 デジタルノイズがざらざらとワイヤーフレームのようなものに写り変わり、だんだんと人の形をとり始めた。

「・・・いる。」

 だんだんとその形を顕にするブラフマンが、なにやら声を出し始めた。

「・・・ここ・・・」

「たしは・・・」

 ブラフマンの声は、その体の大きさが想像させる声と違って、あまりにもか細かった。


「私は、ここに、いる。」


 ブラフマンはそう言って、実体化を終えた。


●2036/ 06/ 21/ 22:54/ AG-0 最上階


「え・・・?」 

 意味が分からない。


「なんで・・・。」

 そこに在るのは・・・、小舟だった。


 黒目がちで大きな目を開き、無表情な小舟の顔をした巨大な赤いアートマンもといブラフマン、もとい、小舟・・・。それがそこに立っていた。


 がつんと後ろから頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。心拍数が急上昇する。心臓が締め付けられるように痛む。そのまま潰れてしまいそうだ。


 これは・・・。

 ぼくのせいだ。ぼくが彼女に心配をかけるから、小舟はいつも先回りでぼくを助けに来る。だから・・・、これは、ぼくのせいだ・・・。


「小舟! 小舟―ー!!」ぼくが叫んでも、小舟は無表情のまま。


「まさか。」ノースが膝をついてへたり込む。サウスがそれを後ろから支えた。「なんで、コフネ・・・。」ノースが絞り出すように声にした。


「小舟ぇー!」脳がフリーズした。何かを考えることはできずに、治ったばかりのフレッシュな脊髄のストレートな反射だけで走り出す。


 ブラフマンの全身が小舟ごとデジタルノイズに包まれ、一瞬半透明になり、またすぐに実体を取り戻し、数秒間の間にそれをなん度も繰り返した。


 ある瞬間小舟の黒目に生気が戻った。

 ぱちぱちと瞬きをして辺りを見回し、AG-0最上階ドームの惨状の中を走るぼくに気がついて叫んだ。

「荒鹿くん!!」


 ブラフマンは、泣き叫ぶ小舟の言動とは全く別の動きをした。ブラフマンはぼくの動きを感知して黒い閃光を波状に出し続けた。

 吹雪のようなその波状閃光に何度も吹き飛ばされながら、ぼくはどうにか小舟にたどり着く。そして、その赤いアーマーをどうにか引き剥がそうとした。


 小舟を助け出さないと。


 


 しかしブラフマンは圧倒的にびくともしない。

 それどころか、ブラフマンに触れるたび、ぼくのアートマンの指先がマグマのような高温にじゅうと煙を出しながら少しずつ蒸発する。プレートの隙間に指を捩じ込もうとすると、その隙間から赤いマグマのような液体がびゃっと飛び散り、ぼくのアートマンは返り血で染まったように、みるみる赤くなって行った。


「荒鹿君! それは小舟じゃない!」平泉寺さんが叫ぶ。


 平泉寺さんにしては、取り乱したような声だ。多分、平泉寺さんは間違っていない。

 だけど、ぼくにはそんなこと、全く信じられなかった。というよりは、そんなことは全く関係なかった。

 ぼくのせいで小舟はここにいる。この計画に全く関係のない小舟を巻き込んだのはぼくだ。


 ドームの屋根の破れた外側に、低い雨雲が流れるように集まりはじめた。

 稲妻が大きく轟き、止まった時間の上にぼくらの全てをストロボのように焼き付ける。


 すぐに爆音で雷鳴が鳴って、大雨が降り出した。大きな雨粒はブラフマンに当たるとすぐに蒸発し、しかし、その赤く焼け切った熱を少しずつ下げていった。


 ブラフマンは時間をかけて、徐々に元の黒い姿に戻って行った。


●2036/ 06/ 21/ 23:16/ AG-0 最上階


「ノース。タイミングで荒鹿君をブラフマンから引き剥がす。」剥がれたドームの天井から土砂降りの雨が入り込む。雨を弾く繭状のバリアの中で平泉寺が冷静にノースに指示を出した。

「わかってるよ!!」足元にヴァジュラを置いて、残虐に光る拳を構えたノースが叫ぶ。ノースはすぐにでも飛び出したい獰猛な闘犬のように荒ぶっていた。


 大粒の雨は荒鹿にも打ち付ける。時折意識を失う小舟の頬には濡れた髪が張り付いている。荒鹿はブラフマンのアーマーを剥がそうともがき続けている。

 その度にブラフマンのアーマーの隙間から飛び散る赤い血のような液体を浴び続け、荒鹿のアートマンは、今や真っ赤だった。

 アートマンを染めた赤は、どんなに強く雨があたっても落ちることはなかった。


「サウス、大野。最後の技業わざ。行ける?」

 サウスは小舟と荒鹿から目を離すことなく頷いた。大野琴は屈んだまま、平泉寺を見上げた。


「いったい、これは・・・。」大野琴は状況を把握できていない。

「ごめん、大野琴。状況を説明してる時間がない!」平泉寺が叫んだ。


「やめて荒鹿くん、きちゃだめえええ!」意識を取り戻した小舟は、あまりにも無力な荒鹿を見下ろし、何もできずにただ叫んだ。

 荒鹿は決して剥がれない小舟のブラフマンをどうにか剥がそうと、蒸発して剥き出しになった生身の指先をブラフマンのアーマーのプレートの隙間に入れて引っ掻き続けている。荒鹿の指先からは爪が剥がれ、血が吹き出していた。


 全くダメージを受けていないブラフマンは荒鹿を自分の体から引き剥がすと、首を絞めるようにして片手で持ち上げる。荒鹿は血だらけの指で、ブラフマンの手を引っ掻き続けている。


 稲妻がびかびかと光り、雷鳴がごろごろと轟く。大野琴の体が再びうねって跳ね飛んだ。


 勢いよく地面に強く叩きつけられた大野琴が、手をついてゆっくりと起き上がった。雨でぐしょぐしょになったセーラー服が身体にまとわりついている。

 彼女の視界には漆黒のブラフマンと真紅のアートマンが映り込んでいる。「く、九頭竜くん? 渡さん?」


 ノースと平泉寺は、起きあがろうとする大野琴を抱き上げながら、訝しげな目で彼女を見た。

「・・・・・・。ノルテ。それに平泉寺、少尉・・・。」確かめるように記憶を言葉にする大野琴。

 平泉寺は目を見開いて絶句した。不意に飛び出した突拍子も無い少尉という敬称が、地球環のない世界と地続きの記憶の片鱗に触れた。


 ブラフマンが荒鹿の首を鷲掴みにしたまま片手で持ち上げる。そしてその腕にまとわりついて暴れる荒鹿を何度も地面に叩きつける。

 小舟は泣き叫んでいる。「荒鹿くん、だめええええ! こないでえええ!」


 アートマンが剥がれ落ち、PFCスーツ姿になっても荒鹿は小舟から離れようとしなかった。

 双子と平泉寺、そして記憶を取り戻し始めた大野琴が見ていたのは、荒鹿を泣き叫びながら無慈悲に地面に叩き付け続けている小舟。


 ブラフマンはもう一方の拳で、すでにぼろぼろの荒鹿を殴り始めた。荒鹿は生身でその拳を受け、何度も血を吐き出しながら、しかし絶対にその手をブラフマンから離さなかった。


 生身の荒鹿が人質となって、サウスと獣もブラフマンに手を出しあぐねている。


「マホロ!!!」ノースの叫びはほとんど悲鳴のようだった。


「はやく!」平泉寺の指示を待っているノースの精神は限界、崩壊寸前だった。


「ノルテが二人? スペア?」大野琴は、考える。絶叫が響き渡るドームの惨劇の中、大野琴は、事態を理解しようと、目を閉じた。

 再び雷鳴がとどろき、大野琴が再び体をうねらせる。


「うあああああああ。」宙にうねった大野琴の瞳が静かに金の光を発した。


「ノース!!」金色に発光し始めた大野の瞳を確認し、平泉寺が叫ぶ。

 それと同時に、屈み込んで身体中の筋肉に光の粒を充満させていたノースが、荒鹿とそれを痛めつけるブラフマンに向けて思い切り飛び上がった。

「いっけえええええええええ!」ノースの叫び声が空間をつんざいた。


「大野琴、覚醒。この瞬間を待っていた・・・。」

 平泉寺が呟くとほぼ同時に、閃光に包まれたノースがブラフマンのみぞおち辺りに思い切り突っ込んだ。衝撃にぐらついたブラフマンがバランスを取るために広げた手から落ちた荒鹿を咄嗟に奪い取り、ノースはそのまま地面に転がった。その衝撃でノースのアートマンも光を失い、彼女の体から剥がれ落ちた。


「クズリュウ! クズリュウウウウウゥゥゥゥゥゥ!」意識を失っている荒鹿の肩を強く揺さぶり続けるノース。


 その瞬間、ブラフマンから黒い闇が閃光となって四方八方に炸裂した。


「いやああああああああ!」雨音を打ち消すほどの、小舟の叫び声がドームに響き渡る。

 ぐちゃりという気味の悪い音がして、小舟がブラフマンの中でその重力にいとも簡単に押し潰されて、ブラックホールと化した。


 刹那、ブラフマンがドームや周囲の全てをなぎ崩しながらみるみると膨張し始める。

 闇のような黒い体の中に、ものすごいスピードで回転するいくつもの銀河が現れてはぶつかり合って消滅し、また新しい銀河が誕生してを繰り返した。体の中でそれを何度も何度も繰り返しながら、ブラフマンは膨張を続けた。


 ブラフマンの巨大化によって崩れた地面を、転がるように落ちた平泉寺が、剥き出しの鉄筋につき刺さり、血まみれになってアートマン解除。ノースは腕に荒鹿を抱いたまま、枯葉のようにAG-0の外に投げ出されて消えてしまった。


 ブラフマンの巨大化、もとい宇宙化によって崩れゆくAG-0の最上階で、瞳を金色に発光させる猛獣使いサウスと大野琴、覚醒状態の二人が宙に浮き、向き合ったまま揺らぐ光に包まれている。

 お互いの胸の前で10本の指それぞれをそっと触れ合わせると、二人の間には、小さなブラックホールのように周囲の空間を歪ませながら旋回運動をする黒い塊が現れた。


「禅のことわり空劫くうこう

 二人が静かに、そして慎重にその言葉を重ね合わせると、二人はまるで元からそこに存在しなかったかのように消滅し、黒い塊だけがそこに残った。その塊は、周辺の全てを吸い込み始める。


 最初の10の-35乗秒後に眼に見える範囲の全てが吸い込まれた。

 次の10の-36乗秒後にはすべての時間と空間が吸い込まれ、そこには、その宇宙には、何も残らなかった。






 宇宙が始まる前、そこに何があったのか。


ー答え


 宇宙の始まりに、その前はない。その瞬間に向けてどこまでも遡ることは可能。しかし、どんなに始まりの瞬間に近づいて行こうとも、誰もその瞬間には辿り着くことはできない。

 遡れば遡るほど小さくなる時間の単位が広がって、それは永遠に繰り返される。


 だから、平泉寺の仮説は間違っているとも言える。


                        


 つづく

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