【SF小説】 ぷるぷるパンク 第10話 トゥルクの預言

●2036 /06 /18 /02:10/藤沢(芦原邸)


 サマージ襲撃大作戦は無事終了した。実際のところ、何を持って無事と言うのか分からないが、ぼくらの側は誰も死なず、かすり傷すらない。ぼくらの側は・・・。


 白檀の香りが、辺りに深く染み込んだ芦原邸のリビングルーム。

 提灯のような橙色の照明が淡すぎて、表情までを窺うことはできないけれど、双子はずっとなにやらぺちゃくちゃと喋くっていた。コの字ソファにどっぷりと体を投げ出し、おでこを突き合わせるようにして、まるで修学旅行の中学生だ(主にサウスが)。

 そういうぼくも、広くて柔らかいソファに体が落ちて行くような感覚に溺れ、枝から振り落とされた地面の毛虫みたいにうねうねとしている。身体中の筋肉が痛く縮こまって、体が休まらないのだ。


 そればかりか、目を閉じると暗視ヴィジョン越しに見えた特殊部隊員の緑色のシルエットが、ふと浮かんできそうになるから、目を閉じることが怖かった。

 双子がああしてじゃれ続けているのも、見たくない何かを見ないために身についた職業柄の習慣なのかもしれない。


 しばらくして、部屋のどこかにあるスピーカーを通してぼくらを呼ぶ芦原さんの声が聞こえても、誰もすぐに立ち上がる事ができなかった。


 もうしばらくして、ぼくらは双子を先頭にゆっくりと階段を降りる。ぐったりと重たい体を引き擦るように暗い無人のアパレルショップを通り抜ける。街灯の灯りがコンクリートの床にマネキンの呆けた影を落とす。サウスが什器にならんだTシャツに指先で触れながら歩くから、生地越しに木製のハンガーが擦れ合う音がからんからんとして、ちょっとだけケミカルな新品の服の匂いが漂う。


 雨はもうすっかり上がり、夜空には地球環がくっきりと輝いていた。

「雨が空の汚れを落としたんだ。」ぼくはそう言おうとして、口をつぐんだ。そんな個人の感想を二人に押し付けたって意味はない。冷たい金属のエレベーターを降りるいつもの順路をたどる間、誰も口を開かなかった。


 地下の研究室には昼も夜もなく、いつだって閉塞感を感じさせるが、今夜の研究室はいつもより大きく、深く、冷たく、暗く感じた。なんていうか、自分が遠くにいるような気分。

 しかし休んでいる暇はない。すぐにぼくらの次の今日が始まる。


「じゃあ、座ってー。」部屋の奥から、場違いにテンションが高い芦原さんの声がした。よく寝れたのだろう、元気が有り余っているようで羨ましい。


 部屋の中央に設置された3つの接続ユニットの左端に腰をかけると、背もたれの中からモーター音がして、何やらぼくの背中を探っている。マッサージチェアのようなその動作があまりにもちょうどいい塩梅だったので、ずっと隠れていた睡魔が顔を出す。大きなあくびが出て、涙が視界を覆った。

「はい、眼を開けてー。」

 くたびれたグレーの大きすぎるスウェットのセットアップを引きずって芦原さんが歩いている。寝巻き姿が子供みたいで可愛らしい。彼女はまずノースの前で立ち止まった。


 ちょんと背伸びをした芦原さんは、手元の透明なジェル状の液体で満たされた金属のトレーから指先で何かを大事そうにつまむと、突然それをノースの目に突っ込んだ。ノースは突然のことに「痛いっ。」と叫んでのけぞり顔を背けた。


「ちゃんと眼を開けるー。」少しニヤついている芦原さんを、顎を引いたノースが困惑の目で睨みつける。

「コンタクトだよ。」芦原さんが笑う。

「もう。」ノースは芦原の笑顔にようやくリラックスできたようで、眼を見開いて顔を前に出した。芦原さんが指先でそっとノースの瞳に触れる。何か特別な儀式を見ているようで心が静まる。


「これは、網膜ヴィジョン。apple製だよ。脳波スキャンはないから、操作には瞬きとかの物理アクションが必要だよ。これは職人さんににせの網膜を彫ってもらった特注品。高いよ〜。」ノースは眼をぱちくりさせてから、微笑んで、接続ユニットで横並びのサウスとぼくに振り返った。


 深緑の透き通った瞳孔が普段よりも少し明るくて、網膜ヴィジョンに刻まれた表面の凹凸が普段のノースの瞳孔よりも光を多めに反射するから、ぼくはその瞳に普段よりもさらに深く吸い込まれそうになる。


「これはPFC溶液が浸透しきっているから、アートマンになっても消滅しない。君たちの場合、サマージで網膜登録されちゃってるから新しい目が必要なの。IDにも連動させてあるから、トラックに乗る時と、奥越おくえつのゲートで使ってね。」てきぱきと説明をしながら芦原さんはサウスの前で立ち止まった。サウスはすでに大きく眼を見開いて芦原さんを待っている。その仕草がやっぱり可愛らしくて、芦原さんは笑ってしまっている。


「はい、さっちゃんも。」眼を開くと口が開かなくなるシステムなのか、サウスは予想外に静かにしている。

 ただし、その肩がワクワクに揺れてしまっているのは隠せていない。一刻も早くノースとお揃いになりたいのだ。

「はい、さっちゃん、動かない。動くと痛いよー。」サウスは素早く無言で頷くとフリーズした。


「あ、痛くない!」ノースがしたように眼をぱちぱちさせると、サウスはノースとぼくがいる左右両方にすばやく顔を繰り返し向ける。新しい瞳を自慢したいんだろうけど、早すぎて見えない。

「さっちゃん、かわいい。」呟くようなノースの声が聞こえる。妹の瞳が可愛いのか、それとも彼女の仕草が可愛いのか、どちらにかかる「かわいい」なのだろう。


 例えば自分と同じ見た目の人間が目の前で謎のかわいい動きをしたら、ぼくは「かわいい」とは思わない。(自分ってこんなにキモいのか)と思うだろう。だから双子って不思議だ。

 ぼくは眼鏡を外して、芦原さんと向き合った。「あ、自分でやります。」


「九頭竜君のは普通の網膜ヴィジョン。みんな、ちゃんと毎日目薬すること。バッグに入れてあるからね。」芦原さんからトレーを受け取る。彼女はぼくの眼鏡を、トレーに浸された溶液の中に置いた。

「眼鏡もちょっとPFCに浸けておこう。浸透しきるかは分からないけど。コンタクトに度は入ってないからね。」


 実はぼく、生まれて初めてコンタクトを入れようとしている。親指と人差し指で押さえ瞼を上下に無理やり固定しているけど、どうしても入らない。

 ぼくが悪戦苦闘を繰り返しているとサウスが立ち上がって「さっちゃんが手伝うよ」なんて言って、ぼくの目に指を突っ込んできたから、思いっきりのけぞってしまった。結局サウスがぼくの瞼の上下を押さえ、芦原さんがどうにか突っ込むようにして右目のコンタクトがやっと入った。やだ、涙が止まらない。


 「よしよし」サウスがぼくの頭を撫でつける。大きくて優しい手のひらだ。


 同じようにして無事左目にもコンタクトが入った。ふと腰越漁港で泣きじゃくっていたサウスを思い出した。

「さっちゃん。」ぼくが呟くと、サウスが突然ぼくを抱き寄せた。

 近頃は、なんていうか、みんなそんなモードだ。小舟は涙を我慢してぼくの手を握った。ぼくらは特殊部隊を殺し、サウスはぼくの頬に雨に濡れた冷たい唇を当てた。そしてノースは慣れ親しんだ住処に微笑んで別れを告げた。

 そして今日ぼくらは芦原さんの元を巣立って行く。PFCスーツ越しにサウスのおっぱ、胸が当たって温かい。


「よしよしアラシカ。さっちゃんママみたい?」PFCスーツの微かな金木犀の香りと、鼻の奥に少しつまるような女の人の匂いがまじって、なんていうか、本当にお母さんみたいな匂いがする。懐かしいような気持ちでサウスに抱かれたまま、ぼくは息を深く吸い込んだ。


「さっちゃんはアワラがママだったらいいなって思ったの。」密着する体を通して、サウスの声の振動も伝わる。少し離れたところからノースの小さいため息も聞こえた。


 ぱんぱん、と芦原さんが手を打ち鳴らした。


「若者は隙を見せると、すぐに湿っぽくなるんだから。」その声に呼応するようにサウスはぼくから離れると、そのまま芦原さんを抱きしめた。「ママ。」喉に涙が引っかかったような涙声でサウスが芦原を強く抱きしめる。

 目の前に広がる光景としては、されるがままの背の低い芦原さんの方がやっぱり子供のようだ。芦原さんがサウスの背中に手をまわす。


「毎日目薬すること。」芦原さんは、接続ユニットに戻るサウスに背中を向けて涙を拭う仕草を誤魔化した。

「いいね?」

「はい!」サウスはいつも元気だ。「はい」ノースとぼくも連られて答えた。

 さあ、今からが次の今日だ。ちゃんと生きよう、ぼくは思う。


 コンタクトの右端が鼓動のようにゆっくりと光り、視界にアラームの時刻表示が現れた。出発の時間だ。



●2036 /06 /18 /04:20/藤沢(芦原邸)


雨上がりの夜明けは、空気が透き通っているからPFCスーツ越しにも肌寒い。ハザードランプが点滅する車に寄りかかった姉ちゃんがぼくらを待っていた。親指で車を差してぼくらを車内に促す。


 なんか、かっこつけてるんだよな、最近。

 双子がいるから、自分の中の「お姉さん」成分が芽生えたのだろう。姉ちゃんはぼくといると、なんだかんだ言って男相手の言動をする。甘えたり、甘えさせたり。


 ぼくが無表情のままトランクを指さすと、姉ちゃんが照れたように笑いながら、リモートでトランクを開けた。かっこつけてやがって(『乗りな』じゃねえよ)と、僕は思う。


 玄関先まで引きずってきた重たい四つのヘルメットバッグのジップを開け、芦原さんにもらったスウェットのセットアップを取り出してから、一つずつバッグをトランクに放り込んだ。

(ぼくじゃなくてタコに運ばせればいいのに。)トランクに放り込まれたトラウマを思い出しながらぼくは思った。そういえば、タコの普段使いの方法を聞くのを忘れていた。


 その間にPFCスーツの上にだぶだぶのパーカーを着込んだサウスが助手席に座ってシートを倒している。そしてノースは後部座席の右側のシートに沈み込んだ。えー、なんか、ぼくの席、狭くない? もしかしてトランクの方が広かったりする?


 サウスに助手席の窓を開けさせ、ぼくは手のひらを何度か押すようなジェスチャーをしてシートを指さす。サウスがぶつぶつ文句を言いながら倒したシートを直している間に、ぼくはPFCスーツの上から芦原さんと色違いのスウェットパンツとパーカーを着込んで、何とかサウスの後ろの狭い座席に入りこんだ。


 しばらく車の外で芦原さんと話し込んでいた姉ちゃんが運転席に乗り込んだ。サウスと色違いのパーカーを着ているノースが、その袖口から少しだけ出た指先で自分の瞳に指を近づけて何かを囁く。しかし、その声はエンジン起動の電子音にかき消されてしまった。


「なに?」ぼくがノースに顔を近づけて聞き返すと、彼女は「コンタクト、大丈夫?」と、もう一度人差し指で右目を指して言った。暗がりの中、吐息がかかってしまうような距離を意識して、ぼくらはふと固まってしまう。突然、芦原さんがノース側の窓をノックしたので、ノースは珍しく大袈裟に慌てて振り返り、すぐに窓を開けた。

「ごめん、ID忘れてた。」芦原さんがノースにカードを渡す。

「気をつけてね。」と言った芦原さんの顔を無理矢理車内に引き込んで、ノースが芦原さんの頬に唇を当てた。

 ぼくの頬には、サウスの柔らくて冷たい唇と、硬くて冷たい鼻の先と、夜の雨の感触が蘇った。


「クズリュウの分だけど、アワラにあげる。」ノースが言うと、芦原さんはぽかんとすると、苦笑しながら「ありがと」と言った。

(クズリュウの分?)

 ぼくは工業地帯を見下ろすガスタンクのてっぺんで、ノースが言った事を思い出した。

(今日は我慢しな。)


「さあ、行こう。」と言って姉は車を出した。姉ちゃんは今日も自分で運転する。やっぱり、かっこつけている。


 サウスは窓を開けると、半身を大きく乗り出して芦原さんに大きく手を振り続ける。車が交差点の角を曲がって見えなくなるまで、ウィンカーの灯りに規則的に浮かび上がる芦原さんは、ポケットに手を突っ込んだまま、時間が止まったように仄暗い青の中にただ立ち尽くしてぼくらを見送っていた。


 車が角を曲がってしまうと、サウスが姉ちゃんに向き直って言った。

「ナルカ。地球そらきれいだね」姉ちゃんは声に出してふふっと笑ってから、そうだねと言った。車はバイパスに合流し、ほとんど車がいない明け方の道でスピードを上げる。


「私はね、人生ってさ、自分が主人公だと思って生きてきたんだ、結構、最近までずっとね。」

 姉ちゃんはサウスの頭に腕を伸ばして彼女の髪にそっと触れると、耳の後ろ辺りからうなじの辺りにかけてゆっくりと撫で付ける。静かな大型犬に催促された飼い主のように、そっとそっと撫で付ける。


「だけど、ほんとの主人公はあなたたちだったね。」

 サウスは遠くに見えた朝日に赤く染まる富士山を指した。

「まあそうだね、主人公はさっちゃんだね。」サウスは、彼女の頭を撫でる姉ちゃんの手の動きを止めないよう、その手の甲に自分の手を重ねて言った。


「必殺技があるからね。」



●2036 /06 /18 /05:48/大井松田IC周辺のRTA物流拠点


 すっかり眠ってしまっている間に、この旅の最初の目的地でありスタート地点となる駐車場に到着していた。東名高速道路の大井松田ICにほど近い、深い森に覆われたエリア。そして、そんな場所に突如そびえる近代的な高層ビルと、その周辺に集まる研究室や公園、体育館などからなる謎の施設群はRTAの物流拠点らしかった。


 車を降りて体を伸ばすと、いつの間にか体の疲れがだいぶ抜けて、かなりすっきりとしていた。森の空気を肺いっぱいに吸い込む。朝露に濡れた緑の新鮮な匂いがした。

 昨日の雨で空の汚れが落ちたから、朝になっても地球環がくっきりと見える。予定の6時までは、まだ少し時間があったので山の空気を楽しみながら散歩をしていると、珍しく別々に歩く双子のそれぞれとすれ違った。それぞれ口数が少ないまま、それぞれの時間を過ごす、静かで冷んやりとした朝の時間。


 車のボンネットに寄りかかって地球環を通り過ぎて行く飛行機雲を眺めていると、サウスが少し離れた場所で「東亞合成とうあごうせい」のロゴが入ったコンテナを積んだトラックを見つけて戻ってきた。場所、時刻とも予定通り。


 トランクを開けてバッグを引き上げ、それぞれの肩にかける。ずっしりと重たいヘルメットバッグ、ぼくは男だから二つ分。

 バッグを抱えてそれぞれの座席に戻ると、姉ちゃんがトラックの後方までゆっくりと車を移動させた。何の変哲もない普通の4トントラックだ。


「大丈夫、ちゃんと自動運転のマークついてた。」サイドミラーを覗き込んでコンタクトを確認しながらサウスが言った。

 法律で強制されているわけではないが、運転手のいない自動運転の車はそのマークをつけるのが、物流業界のマナーみたいになっているらしかった。


 姉ちゃんが車を降りて、後ろからトラックに近づく。手を腰の後ろで握って、美術館で作品を吟味している(自称アート通の)批評家のように時間をかけてトラックの周りを一周すると、車で待機する僕らに向けて一度頷いた。それを確認したサウスが車を降りてトラックに駆け寄った。


 彼女はトラックの後ろで、バッグを地面にどさっと落とし、リヤドアにセンサーの位置を確認する。慣れた仕草で辺りを見回してからIDカードをセンサーに当て、そこに顔を近づける。網膜認証が済むと、センサーのLEDの光の点が緑に変わり、ロック解除に成功した。


 サウスは扉を少し開けると、背伸びをしてきょろきょろとその中を覗き込んだ。続けてリヤバンパーに足をかけてよじ登り、その狭い隙間からコンテナに素早く侵入する。

 姿が見えなくなるとすぐに中から扉が大きく開いて、サウスが顔を出した。そして首を動かしてサマージの合図を送ってきた。

 ぼくとノースも素早く車を降りてトラックに駆け寄ると、サウスがコンテナの扉から伸ばす手に重いバッグを渡す。全てをサウスに渡し終えるとノースがサウスの手を取りコンテナによじ登った。最後にぼくがサウスの手を取り、勢いをつけてコンテナに上がった。


 トゥルクの寺院の線香のような懐かしい匂いが微かに漂っている。暗がりでぼくが荷物を移動させている間に、扉の狭い隙間からサウスとノースが姉ちゃんに別れを告げて、そのまま扉を閉めてしまった。


「あ。」

 ドアを振り返ると時すでに遅く、コンテナの中は闇に包まれた。見えなくなった姉ちゃんに向け(ありがとう)と心の中で礼を言う。元気で。


 瞬きでコンタクトの露出を調整して闇に目を慣らすと、コンテナの前方半分くらいには大きなカーボンの箱が天井あたりまで積み重なり、ベルトでしっかりと固定されていた。手前の半分の床には余ったベルトや養生の毛布が散らばっていた。

 6時きっかりにエンジン起動の電子音が微かに聞こえると、トラックがゆっくりと動き出した。ここまで全て予定通り。

 ぼくらは動き出したトラックに揺られ、バランスを失いつつも床に散らばった毛布を拾い集めて、それらを床に敷いて寝床を作った。横になると、毛布にはやっぱり線香の心地よい匂いが染み付いていたから、安堵に包まれたぼくは急に眠気に襲われて、すぐに眠りに落ちた。


●2036 /06 /18 /11:08/新東名高速道路・静岡付近


 振動が心地よい。

 目が覚めると、まず、思いっきり体を伸ばした。天井についているファンの隙間からわずかに光が入り込んでいる。夢も見ずに、これだけぐっすり眠ったのはいつ以来だろう。

 コンテナの中が少し蒸し始めていたから、ぼくはスウェットのセットアップを脱いだ。かなりの汗をかいていたみたいで、汗を吸って乾いたPFCスースが少しだけひんやりして気持ちいい。

 ぼくと双子は武器の詰まった硬いヘルメットバッグを枕に、川の字になって入り口付近に固まって寝ていた。双子はまだ幸せそうな顔で眠っている。


 ああ、可愛い子等。何度も再生した動画のあのサマージのスケートの女の子が、隣でこんな幸せそうな顔をして寝ているなんて、なんていうか、とても妙な気分だ。これが出世というやつだろうか。


 辺りを見回すと、暗がりの中の唯一の光源である天井のファンは止まっているようだった。ぼくはカーボンボックスを固定するしっかりと張られたベルトを足がかりにボックスをよじ登り、手を伸ばしてファンの隙間に指を入れ、力を入れて体を引き上げた。


 ファン覗き込んでスイッチを探したり、指を突っ込んでみたりしてどうにかプロペラを回そうとしてみたけれど、どうにも動かし方がわからない。

 ぼくはあきらめて、力ずくでプロペラをもぎ取って積み重なったボックスの上に置いた。赤黒い血管のよう太陽を透けさせるFRP樹脂のカバーを下から押し上げると、突然の強い日差しと強い風が轟音とともにコンテナの中に流れ込み、ぼくはよろけて、足がかりのベルトから落ちそうになってしまった。


 咄嗟に両手をコンテナの外に出しふちを掴んで体を支える。強い風が指先に当たって気持ちいい。体を引き上げコンテナの外側に頭を出すと、突然の強風に煽られながらもどうにか目を開けた。遠くに光る海が見える。


 メガネの隙間から入り込んだ強風が渦になり、コンタクトで乾いた目に痛い。夏至に近い真上からの日差しが、水平線から立ち上がる地球環と海面とを、まるで繋げているかのようにきらきらと輝かせていたから、ぼくはトラックが山間に入り見えなくなってしまうまでそれを見つめていた。


 これまでのこと、これからのこと、全部がトラックの後ろに猛スピードで過ぎ去る蜃気楼のようだ。過去も未来も、そして現在も何もかも風の中に過ぎ去って、ぼくはどこへ行くのだろう。足手纏いにならないよう、ちゃんと双子に付いていけるだろうか。

 恥を忍んで打ち明けると、ぼくは双子に遅れをとりたくない、と思っている。どこにだって置いていかれたくない。双子が自分たちの未来を自分たちの手で切り開こうとしているように、ぼくだって、自分の切り開くべき未来を見つけたいのだ。

 それは、大野琴との再開かもしれないし、サウスが言うまさかの「世界を救う」ことなのかもしれない。

 でも、それは自分に対する言い訳なだけであって、そんなことは自分でも分かっている。だから尚更自己嫌悪が止まらない。


 ぼくはただ、何も考えずにここまで来てしまった。世界を救いたいとか、自由になりたいとか、信念みたいなものが何もない。正義の味方ぶって双子を救いたいと言った。でもそれは、アートマンになって調子に乗っていただけ、自分の信念や未来があってのことではない。


 ぼくは(ちゃんと生きたい)と思った。双子みたいに、小舟みたいに、ちゃんと生きたい。


 海が見えなくなると天井のファンのカバーを開けっぱなしにしたまま、枕にしていたヘルメットバッグに戻った。ぼくはヘルメットバッグをコンテナの逆のサイドに置き直し、双子とは頭を逆に向けてもう一度横になった。


 ファンのあった通気口から、床の一点に向けて丸い光が差し込んで、光の柱のようになっている。きらきらと光を反射する光の粒がその中で、静かに、しかし楽しげに、秘密を隠して笑う妖精の群れように舞っている。ぼくは小舟を想った。そして大野琴を想う。金木犀の香りや唇の温度やその柔らかさを思い出す。


 小舟側の世界にいる小舟。小舟じゃない側の世界にいる双子。大野琴は、どちらの世界にいるのだろう・・・。


 彼女は、実際、どこから来て、どこに行くのだろう。

 トラックのタイヤから伝わる路面の細かい振動が、ぼくを再び眠りに落とす。


 


●2036 /06 /18 /18:16/福井北ターミナル


 ぺしぺしと頬を叩かれる感覚。腹のあたりが重い。


「姉ちゃん〜」ぼくは目を開けた瞬間に忘れるような軽い夢に引きずられながら目を覚ます。暗がりの中で、シルエット状のサウスがぼくの腹の上に座り込んでいた。


「ははーん。ナルカじゃないよ、アラシカ。」何故か勝ち誇ったようなサウスの声。腹の上の重みを、夢の中で喧嘩をしていた幼い頃の姉ちゃんだと思っていた。腹が重くて苦しい。目は覚めたが、まだ頭が覚めきらない。姉ちゃん? サウスのシルエットがぼくの頬をぺしぺしと叩き続ける。


「痛いよ。」頭の周辺から探し当てた眼鏡をかけるが、闇は変わらなかった。「よいしょ」と勢いをつけて立ち上がるサウスのお尻からの衝撃で一瞬息が止まる。「うへっ。」


「祭りだよ。」サウスの声には少しの興奮が入り混じっている。

「祭り?」ぼくはコンテナの中を見回してみるが、暗がりに祭りの要素は見当たらない。


 金属がこすれる重い音がして、コンテナの扉が開け放たれる。四角く切り取られた知らない夏を背景に、ノースの後ろ姿が厳かに佇んでいた。夏の夕方特有の、胸が切なくなるような湿った匂いがして、実際、その匂いに絡むように遠くの方から微かに祭囃子まつりばやしが聞こえるような気がした。

 しかし、それはすぐに途切れることのない蝉の声にかき消された。

 打ち捨てられて乾いた田園風景の上、低い山々の稜線から空一面に広がる鱗雲うろこぐもが、西陽を浴びてピンクの綿菓子を散らしたみたいに浮かんでいる。夕暮れの低い空に浮かぶ塊の雲は、後ろから差す西陽で絵画のように見える縁取りを光らせている。


 夏はいつか終わってしまうから好きになれない。

 そして陰謀論さながら、多くの人は夏の間、夏が終わることに気が付かないシステムになっている。夏の間ずうっと夏が続くような錯覚に陥るのだ。

 夏は、終わりを意識してしまった瞬間に文字通り終わる。そして、人は終わってしまった夏の間、ずっと終わったはずの夏の終わりに怯え続けることになるのだ。

 ぼくは夏の終わりから逃げるように、ただぼんやり、毅然としたノースの後ろ姿、PFCスーツ越しにも分かるまっすぐな背骨を見つめていた。


「ついたよ。」

 彼女は夏のどこか一点を見つめながら、振り返らずに言った。ぼくらは福井北ターミナルに到着した。


「夏の匂いがする。空気の情報量がすごい。これが、地方か。」独り言のように呟いて、ノースは辺りを見回し始めた。コンテナの先に四角く切り取られた空は、ピンクから紫へと、ゆっくりと移り変わっている途中だった。


「さっちゃんには、ノースの匂いがする」と言いながらサウスは後ろからノースに抱きついた。時折抜けていくぬるい風が、双子のピアスを揺らして、その石がきらきらと光った。


「あ、あー。」ごほん、ごほん。ぼくは咳払いをして、しっとりしがちな双子を牽制する。

「どうしよっか、これから。」


 これから向かうAG-0があるこの奥越地域は2024年の地殻変動による大震災をきっかけに、日本政府が自然保護の名目で国立公園化、直接管理区域として立ち入りを制限した地域だ。そこに平泉寺さんの姿を確認した芦原さんは、この地域にZENの採掘地が必ずあると言っていた。


 この管理区域を地図で見ると、福井と岐阜の県境を源流に、蛇行しながら日本海を目指す恐竜川流域とそれに沿って位置する奥越盆地を囲む東西60キロほどの細長い範囲になっていて、そのほとんどを占める山岳地帯の全体がフェンスと有刺鉄線で囲まれている。その西端にあるのがここ「福井北ターミナルだった」だった。


 ぼくらはここでトラックに別れを告げ、ゲートのある旧えちぜん鉄道勝山永平寺線の観音町駅周辺にあるはずの「観音ゲート」を目指す。そこで夜中を待ち、ゲートの警備の交代の隙をついて管理区域に潜入する計画だ。


 アートマンになれば有刺鉄線を越えることなどわけないのに、いざという時以外できるだけ変身をしないように芦原さんに言われている。ここは敵地なのだ。幸い、ゲートの警備は薄いという彼女の見立てだ。


 コンテナからヘルメットバッグを地面に落とすと、どさっと大きな音がして、土埃が上がる。

「ノース。荷物運ぶのタコ使いたくない?」ぼくはダメ元で聞いてみた。ノースはちょうど手のひらからタコをだしている最中だった。

「うん。そのつもり」ふうっと安堵のため息が出る。よかった。早く言ってよー。

「ただし、人とすれ違う時は、タコに気が付かれないようにね。」

 ノースの手のひらから出たタコは、バッグの持ち手に脚を絡みつかせて、ふらふらと揺れながらそれを持ち上げた。タコに表情があるわけではないのに、「重い重い」と言っている声が聞こえるようだった。

(がんばれ、タコ。がんばれ、荒鹿。)心の中でついでに自分のことも励ます。



●2036 /06 /18 /18:40/管理区域西部・緩衝地帯


 乾いた田んぼの脇に輸送トラックが列になって止まっている。その先の視界に周辺のマップとゲートまでの道順が表示された。

 ぼくらは、地平線に横たわるまるで恐竜の群れみたいな低い山々の稜線が連なる北東の方角を目指して歩き始めた。山々は稜線を越えて奥に行くほど色や存在感が淡くなり、いつか見た中国の水墨画の世界のようだった。


「このコンタクト、みんな同じものが見えてるの?」前を歩くノースの背中に声をかける。

 太陽を失って急にひんやりとし出した夕暮れの空気がそうさせるのか、ノースはぼくの質問を無視して歩き続けた。


「見えるよ。」二人の周りを楽しそうに歩き回りながら進むサウスが代わりにぼくの質問に答えた。

「さっちゃんは優しい。」とぼくが呟くと「そうだよ!」と言って駆け寄ったサウスが急にぼくに抱きついた。

 何度経験しても全く慣れることのない優しくて柔らかいおっぱいの感触。お母さんのような匂いが昨日の夜よりも少し強くなっていて、気持ちが妙に落ち着いてしまった。


 サウスはノース以外に「さっちゃん」と呼ばれると、異常に喜ぶ傾向があることが分かってきた。

「三つ子の魂ひゃくまでだよ。アラシカ。」そして、ぼくは柔らかいサウスに抱かれたまま、三つ子として嶺ファミリーに迎え入れられた。ことわざの意味としては間違っているんだけどね。


「ゲート周辺は多分人がいっぱいいるから、静かにしてね。」

 強めの口調のノースが、ぼくにあることを思い出させた。


 そうそう、これこれ。この感じがいつものノース。正直、調子が戻る。このノースの方がやりやすい。最近の彼女は随分と優しすぎた。芦原さんもそうだったけど、みんな最近、なんだか不安定だったのだ。


 地殻変動の影響か、アスファルトの舗装がところどころで剥がれている細い農道には、大小の穴がそこら中に空いていて水溜りになっていた。ぼくらはそれを避けないといけなかったから、ふらふらと歩いて、ゆっくりと進んでいた。


 紫色の空は緩やかに滑るように群青色に近づいていく。穴を避けてバランスを取りながらふらふらと歩き続けるぼくらの後を、ふらふらと浮かんで追い続けるヘルメットバッグの群。はたから見ると、どんな集団に見えているのだろう。

 行く先に見える低い山の稜線の上空に、濃い橙色がふわりと浮かんでいるのが見えた。ゲートの灯りが低い雲に写っているのだろうか。


 乾いた田んぼに並んで停まっているとばかり思っていたトラックの列は、銃痕や閃光痕が残る残骸で、まるでバリケードのように隙間なく並んでいた。錆びのように見えていたのは乾いてドス黒くなった血痕で、肉や内臓の破片もこびりついているようだった。


 それに気がついたぼくは歩くのをやめ、自分でも聞こえるような音を立てごくりと唾を飲み込んだ。サウスが左の腿に手をやってグロックを探している。気がついてすぐに何もない腿から手を離したけれど、彼女の中でも警戒レベルが上がったのだろう。

 先頭を歩くノースが振り返ってぼくを見た。暗くて表情はよく見えなかったけれど、何かを確かめた彼女は黙って頷くと、再び前を向いて歩き出した。


 知らない土地は、まるで、知らない国の戦場のようだった。芦原さんの戦争の話が思い出される。大船とはまるで違う、この土地の見慣れない風景だけど、ここもまた、日本なのだ。日本はぼくが思っているよりも、広い。


 しばらく歩き続けると、すっかり日が暮れてゆるやかな黒い塊となった稜線の連なりの合間から不気味なほどに大きく見える赤い三日月が顔を出した。僕たちの後方では、ちぎれちぎれの雲の合間に地球環がぼんやりと光っている。

 気のせいだと思っていた祭りの賑やかな音量がだんだんと増している。田園地帯を抜け大通りとぶつかるはずの交差点にはマップに表示されていない大きな鉄塔が倒れて道を塞いでいた。


 不意に足元で何か小石のようなものが弾けるような音がして、遅れて風を切る音が聞こえたから、それが銃撃だということがわかる。ノースが咄嗟に叫んだ。


「プラークリット!」ヘルメットバッグがどさっどさっと立て続けに地面に落ちる。左手を上げるとぼくらの手のひらには猛スピードでそれぞれのタコが飛び込んできた。

 ぼくは咄嗟に眼鏡を足元に投げ捨て、タコを強く握り潰す。手のひらが熱くなり、ぼくらは三人とも白く光るアーマーを身に纏うアートマンに変身した。


 ぼくの背中を双子が守り、ぼくは二人の背中を守る。どこからかかってきていただいても大丈夫。その前に、ちょっと眼鏡だけ拾わせて下さい。


 そして芦原さん、ぼくらはあなたに恥じない戦いを見せます! と心の中で誓った瞬間トラックの残骸の列のどこかから閃光が放たれ、ぼくの正面に向かって加速する。体の前で腕をクロスさせて、閃光のダメージを周囲に散らす。


「クズリュウ。誓わないで。縁起悪い」冷めた口調でいうノース。

「え? だから、やっぱり、思考読んでるでしょ」ぼくはノースを振り返る。

「ばか。わかるから。」ノースはそう言うと大きくジャンプをしてちぎれた雲が月光を写す夜の帷に舞い上がった。


N[思考モードの共有がオンになってるよ]

 ノースからのチャットメッセージ。

S[自信満々じゃん]

 サウスからのチャットメッセージ。


 ノースを目で追いながら視界のメッセージを読んでいると、バリケードの後ろから、1、2、3、4、5、合わせて5体のアートマンが飛び出し、トラックの残骸の上に並び立った。橙色の月明かりを受けて出たつ彼らは、マーベルのヒーローたちのようにかっこよく見えた。


 瞬間、ぼくは右端のアートマンに狙いを定めて高速移動のジャンプ。風を切ってそいつの目の前に着地すると、そのままみぞおちを思い切り殴りつけた。硬い。殴られたアートマンは、ぼくの打撃に足の裏を地面から離すこともなく踏みとどまった。


 全くダメージになっていない。


 ノースが上空からマシンガンのように閃光の弾を撒き散らす。トラックの上のアートマンたち、はそれぞれ腕をクロスさせてダメージを分散させている。


 一人動かないサウスは、両手を胸の前で構えて必殺技の準備をしている。ぼくとノースはそれを敵に悟られないように揺動攻撃を続ける。ぼくは芦原さんの合宿で密かに試し続けていた精神のコントロールで、自分の中に「躊躇」を誘発する。


(ぼくの一撃が決まらなかったら、サウスの必殺技に間に合わないかもしれない。いや、それどころか、これが決まらなければ殺される。相手は五人いるのだ。雨のサマージアジト、敵は一人だった。そう、これはそれどころではない、1パーセントたりとも失敗できない攻撃だ。そんなことが、ぼくにできるだろうか。少しのミスも許されない)ぼくは、自分を追い込む事で躊躇を引き出そうと集中する。

 その時、「躊躇」がエネルギーに変わり、拳の周囲に熱を帯びた光が集まる。


(ノースは今朝、本当はぼくのものだった『ほっぺにちゅう』を芦原さんにあげていた。ほんとは、ぼくが欲しかったんだ。)


 あ! いや! これは煩悩ぼんのうであって躊躇ではない。拳の光がみるみるうちに弱まっていく。

(嘘! 違う! 失敗したら、死んじゃうから!)

 やっぱり躊躇をコントロールするのは難しい。しかし、これだけ光が腕に残れば十分だ。


 ごめん、知らないアートマン。悪いけどぼくだって強くなった。そんな想いを仄かに光る拳を乗せて回転させる。手首を捻りながら、そいつのみぞおちを抉るように殴りあげた。敵のアートマンはバランスを失い、仲間の方に向けて倒れ込んだ。


 時を同じくして、ノースがぼくとは逆の方向、バランスを崩したアートマンの後ろからさっきよりも大きい閃光を一つ放った。狙い通りにアートマンたちは揉み合うようにぼろぼろと、まんまとサウスの正面に墜落した。


 それを冷静に待ち構えていたサウスは、胸の前で開いた手のひらの間に銀河の星雲のような金色の光を集め、地面に重なるアートマンの塊に向けてそれを放った。


「ゼンのコトワリ・ジョウコウ(禅のことわり成劫じょうこう)」時空をも貫く特別な閃光だ。ぼくらの中では彼女だけが使える必殺技。


 金色の光が球体になって一瞬だけ世界を包む閃光となり、直後太い円柱状のビームに変わり地平線に向けて直進する。

 バリケードのトラックの一部が円状に消滅し、その穴の中を吹っ飛ばされた男たちのアーマーがめりめりと空気の中に剥がれ、遠くに見える低い丘にぶつかって、それを消し去った。

 トラックの穴の向こう側には全裸になった男たちだけが残された。彼らの肩や背中には地球環のタトゥーがあった。トゥルクの僧たちだろう。

 男たちは皆一様に低い声でなにやらぶつぶつと呟き、その不協和音が辺りを覆う。そして、祈るような仕草でそれぞれが顔の前で手を合わせ始めた。


 ぼくは目を凝らして消えた丘を穴の中から覗いてみた。特に人が住んでいそうな場所ではないことに安心する。しばらくして不協和音の中からその内の一人が立ち上がり、両腕をあげて降参の意思を見せながら低い声で言った。


「あんたらRTAじゃえんのぉ。」

 地元のイントネーションなのだろうか。なんだか聞きなれない言い回しに驚いて双子を見ると、二人はどちらも笑いを堪えるような、わざとらしい真顔を保っていた。これは、ちょっと面白いことが起こる、そんな予感がした。


 次の瞬間、サウスが体の横に両手を広げて、ゆっくりと地面から浮いた。


「我が名はスール。トゥルクの預言である。」

 必殺技を決めたサウスがそれを言うと、よくわからないのに説得力がある気がする。警戒して立ち上がり始めていたトゥルクの僧達は、再び膝をつくと合掌をしてサウスに頭を垂れた。

 その彼らのずっと後ろ、消滅した丘の方向から、黄色い袈裟を着た一人の僧のような男が合掌の姿勢でゆっくりと歩いて近づいてくるのが見えた。男は合掌のまま膝をついて項垂れる五人の僧たちの間を通り過ぎるとサウスの前に立ち止まった。


「あなたたちは、異国の戦士とお見受けする。トゥルクの預言とおっしゃりましたか。我は調停するもの。ごめん。

禅のことわり壊劫えこう


 そう言った瞬間に、合わせたままの彼の両手から、透明で空気を揺らす衝撃波が放たれた。一瞬のうちにぼくら三人のアートマンのアーマーは剥がれるように空気の中に消え去り、ぼくらは強制的にPFCスーツの姿にもどされた。初めての強制解除に、何が起こったのか分からずにいると、合掌の男はもう一度、同じ衝撃波を放った。


 次の瞬間、ぼくらは白い空間の中にいた。幻覚マーヤーだ。線香の香りが強く漂う。トゥルクの寺院の匂いだ。



●2036 /06 /18 /20:00 /管理区域西部・緩衝地帯


 袈裟の男は合掌の姿勢を崩さずにこうべを垂れ、後退りながら体の向きを横に変えた。そして白い光の中でさらに深く頭を垂れるとすうっと消えた。

 一連の出来事に呆然としたぼくは、目の前の事象を飲み込もうと努めた。しかし、男が消えた箇所にまた別の男が現れたので、混乱は一層深まる。黄色い袈裟を着た同じようなトゥルクの僧はしかし西洋人で、消えた男と同じように胸の前で手を合わせていた。


 西洋人の僧は流れるように丁寧な所作で二礼して、ぼくらに向き直って手を下ろすと漸くその表情を崩した。


「初めまして。私の名はゲオルグ・エッセル。12年前の地殻変動の頃より、世界から切り離されたこの地で、反体制派を統べています。」

 流暢な日本語が彼の口をついて出ると、失礼ながらも面食らったぼくは彼をまじまじと見つめてしまう。


「あなた方がサマージの輸送トラックでこの地に降り立ったと聞き、監視をつけさせてもらっていたが、彼らは敵わなかったようですね。単刀直入に聞きます。あなた方は何者ですか? スールさん。」

 自分に話かけられているとは夢にも思わなかった『スールさん』こと嶺サウスが、しどろもどろで俯いて「さっちゃんは」と口を開きかけた瞬間、ノースが慣れた美しい仕草で合掌と一礼をして口を開いた。


「あたしはノース。そしてこちらのスールがあたしの妹。こちらはクズリュウ。」


 エッセルと名乗った僧は、ぼくらそれぞれに一礼をした。その所作がとても丁寧だったので、恐縮ながらぼくも慣れない頭を下げた。ノースはさらに続ける。


「あたしたち双子は、羽田空港襲撃事件のあと閉鎖したカワサキ・サマージを離脱し、RTAに追われています。」

 エッセルさんはその表情にはっきりと驚きを浮かべた。


「なんと、あなた方も。実は、私たちも、もう何年も前にホクリク・サマージを離脱し、この地でRTAと対立している。ここら辺では隠れサマージと呼ばれる者だよ。」


 柔らかくなった彼の言葉にサウスの目に輝きが戻る。しかしスールさんの件が相当恥ずかしいのか、口はつぐんだままだった。

 エッセルさんがゆっくりと歩き始める。言葉は無くても(ついてきなさい。)と言っているのがわかった。ぼくらは彼の後に付いて、同じようにゆっくりと歩き始めた。

「この地には日本で最も古く、最も大きいトゥルクの寺院『永平寺』があります。地殻変動をきっかけに、そこからZENが流出し始めました。」


 ぼくらは足を止めて顔を見合わせた。ZEN。やっぱり。

 エッセルさんはぼくらに構わず歩き続ける。


 再び歩き始めると、少し先を行くエッセルさんとぼくらとの間の足元に、水が溢れ出すように音もなく映像が流れ始めた。


 永平寺の地下の祠から湧き出す液状のZEN。

 日本政府は、いまだにエネルギーを生み出さないぷるぷるパンクの保管・維持のために、国内の各プラントで必要なPFC溶液をア国からの輸入に頼っているが、それには莫大なコストがかかっていた。

 そもそもZENとはその溶液を指す言葉なのか、湧き出す祠そのものなのかは明らかではないが、少量のZENから大量のPFC溶液がいとも簡単に精製される。


 しかしZENの流出をいち早く察知したRTAが、技術提供を口実にア国として公式に介入した。技術が必要だった日本政府は苦渋の決断の末、ア国の技術指導を受け入れ、永平寺にて共同採掘施設の建設を開始、数年前に稼働が始まった。


 利益分配案の話し合いが平行線を辿り続けている間にも採掘は続き、ZENは貯蔵タンクでもあるAG-0の地下空間でいっぱいになってしまった。ア国は第二の貯蔵タンク建築を進めようとしたが、日本の資金は尽きかけていた。流出するZENを捨てるか、国民にこれ以上の負担を強いるか。共同採掘ではどうにも採算性が厳しい。行き詰まった政府は強行策である単独申請計画を実行。それが羽田空港襲撃事件のきっかけになったのだった。


 映像はそこまでの説明を終え、白い空間の中に溶けるように消え去った。

「エッセル」ノースが歩調を早めて彼の後ろに追いついた。

「何故、ここのサマージはRTAと対立しているのですか?」

 エッセルさんは漸く歩みを止め振り返った。

「それはトゥルクが祈りの力でぷるぷるパンクを調和に導こうとしているからだよ。」彼は大きくため息をつき、続けてゆっくりと語り始めた。


「ある頃から、RTAはトゥルクの過激派に兵器や資金を注入することで、調和への祈りを暴力的に推し進めようとした。それがサンフランシスコで生まれた最初のサマージです。しかし、我々隠れサマージは、永平寺がある日本のトゥルクの中心地において、より原理主義的なトゥルクに回帰しています。我々は、祈りの力を信じている。」そういうと彼は肩をすくめた。

「祈りへの想いが、この地域の暴力の原因になっているのは大変な皮肉です。」


「あなたがたはお強い。どうでしょう。我々の隠れサマージと共に戦ってくれませんか? あなた方の目的とも合致しているでしょう。」

 目的を考えると確かに重なっている部分も多い気がした。四者の間に沈黙が流れる。均衡を破って口を開いたのはやっぱりノースだった。


「エッセル、ありがとう。でも私たちは行かないと。」

 彼は少しだけ残念そうな表情を見せた。しかし、まるで宇宙の始まりから存在する答えを見たかのような納得の笑顔を見せると丁寧に深く頷き、再び手のひらを合わせて合掌した。

「助けが必要な時は呼んでください。再び現れましょう。」一陣の風が吹くと、白い空間もろともエッセルさんは消え去り、ぼくらは同じ夜の暗いバリケードの前に立っていた。



●2036 /06 /18 /20:32/管理区域西部・緩衝地帯


 荷物をタコにくくりつけて再び歩き始めたぼくらは、通りを遮る倒れた鉄塔に辿り着き、それをくぐったり跨いだりして越えて行く。地球環にうっすらと照らされたその鉄塔によじ登ったサウスは、公園の太鼓橋で遊ぶように懸垂でぶら下りながら前進している。


 ぼくはサウスを見上げ、気になっていたことを聞いた。

「スールって誰? 口が勝手に喋ったの?」鉄塔の上からサウスが答える。弱く湿った風が夏の匂いを運ぶ。

「さっちゃんの本名だよ。嶺スール。サウスのスペイン語」


 子どもみたいにはしゃいでは、いつも先頭を行くサウス。でも実はそれって、ぼくらを、そして基本的には双子の片割れノースを守る責任感の裏返し。本当は大人なサウスなのだ。

 例えば銃を握っている時、一人でスマートフォンを見ている時、暇で何も考えていない時、そんな時々のサウスが、不意に大人びた表情を見せると、二人はやっぱり双子なんだということを思い出す。

 しかし、さっきトゥルクの僧を相手に大人みたいに話したサウス、もとい『嶺スール』は、そんな大人サウスとも違っていて、なんていうかとても神々しかった。


「あ、お祭り!」サウスが叫んで鉄塔の高い位置から勢いよく地面に飛び降りた。ぼくは鉄塔の最後の鉄筋を跨いで越える。


 マップ情報から想像していたよりはかなり小さい「大通り」に出た。さっきまではかすかに聞こえていたような気がしただけのトゥルクの太鼓の音がはっきりと聞こえ出す。

 タタン、タタタン、タタン、タタタタン。コロン、コロロン、コロン、コロロロン。


 朽ち果てたJA共済の看板やスーパーマーケットやガソリンスタンドの跡地が道沿いに並んでいて、ここが地域の幹線道路だったことを示している。その数百メートル先に並んだ幾つかの赤い提灯がぼんやりと見えた。

 地図によるとその角が観音ゲート参道の入り口だった。


 賑やかな灯りが、外に向け弾ける炭酸の泡のように溢れ出し、まだ見えない喧騒が太鼓の音に絡みだす。祭りの予感。遠くから見つける祭りの空気は、幸せの予感だ。子どもの頃に家族ででかけた祭りがぼんやりと思い出された。


 サウスはすでに走り出していた。鉄塔を過ぎて幹線道路に入ったノースもすぐにぼくに追いついた。振り返ると、目が合った彼女が珍しく微笑んでいたから、ぼくも少し笑った。祭りは人を笑顔にするのだ。

「クズリュウ、わざとやってるの?」


 え? ぼくはノースの質問の意図がわからずに、笑ったまま、顔を歪めた。わざと?


「ほっぺにちゅうして欲しかったんだ、あたしに。」


 イタズラっぽく微笑むノースの顔をまともに見ることができず、ぼくは咄嗟に下を向いた。


 血の気が顔から一瞬で全て引いたのも分かったし、なんなら、血が引く「すう」っていう音も聞こえた。そしてすぐにまた別の「カァ」っていう音を立てて血が逆流して戻ってきたから、ぼくの顔は相当赤くなっていたと思う。


「え? え? 共有モードオフになってなかった?」ぼくはただ、しどろもどろ。


 ノースはそれに答えずに、サウスを追って夜の中へ、きらきらとした地球環が伸びる先へと走り出した。


 空の高い位置まで戻った三日月は白く、『何も見ていない』とでも言うような顔で横を向いている。雲はまだ夜のあちこちに少しずつ残っていたけど、星が地球環に負けないくらい明るく夜空に散りばめられていて、田舎の空は高いな、と思った。


「ちょっと待ってよー!」ちくしょう。なんだってこんなこと・・・。ぼくはあほなのか、クズなのか。



●2036 /06 /18 /20:52/管理区域西部・観音ゲート参道


 息を切らして二人に追いつくと、そこには突然賑やかにきらめくナイトマーケットが広がっていた。


 狭い道路いっぱいに雑然と並んだ露店の列が、視界のずっと奥にまで伸びている。威勢のいい声が重なり合って飛び交い、透明な塊になって通りの空気をぐらぐらと揺らしている。露天の軒先にぶら下がって耀かがやく提灯の連なりや、ぎらついた裸電球の光をはらんだのれんが柔らかく落とす灯りが、通りを行き交う人々のさまざまな表情を赤く彩る。


 四方に広がる淡い影を引き連れて駆け回る子どもたちが、妖艶ようえんに着飾って彷徨さまよう女たちの合間をパチンコ玉のように飛び跳ねた。


 どこからともなく聞こえるトゥルクの太鼓の音がガソリン発電機の低いモーター音と絡み合って、幻想的なこの光景にしっかりとした現実感を持たせていた。


 上を見上げると、廃墟の屋根や電柱にくくり付けられた紐が通りを覆うようにジグザグに渡されていて、それぞれにびっしりと吊るされた細長い色とりどりの短冊が、ひらひらと自由に夏の夜空を彩っていた。


 つづく

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