【SF小説】 ぷるぷるパンク 第9話 サマージアジト襲撃

●2036 /06 /16 /16:20 /鎌倉女学院


 ーにゃんにゃん、にゃんにゃん


 「猫犬山ねこいぬやま」の可愛くない鳴き声が私たちの脈絡のない会話を遮り、メッセージの着信を知らせる。

 猫犬山というのはTikTok303で最近流行っているブルドッグのように獰猛に吠える猫で、「ましじる」というおすましでいじわるな猫とその下品な鳴き声のギャップがバズっているアカウントだ。

 その猫犬山の吠え声を着信音にするのが女子高生の間で流行っている。遠吠えバージョンもあって、それが授業中とかに鳴ってしまうと、まあ、あまりにも可愛くない。


 友達とヴィジョン共有中に、フォルダの後ろの方に隠していた荒鹿くんとのチャトボが立ち上がり、みんなの視界に黄色のポップアップが表示された。

 私は焦って、そのポップアップをアプリごと落とす。ふええ。隠しきれたかな?


 今日の放課後は教室の後ろで、試合で授業を休んでいたバレー部の子たちに休んだ分の授業を共有するって名目で、だべりタイム。ちょうど誰かがバイト先の大学生との恋ばなをしていた時だったから、気まずいったらない。


「なになに? 小舟、ボストン茶会事件?」

「ほっぺた赤くなってるよ」

「え、見えてないでしょ。」

「何? 男? 画像見せてよ画像」

「恥ずかしいよ。ただの幼馴染みだし。」


 頬に触れてみる。赤くなっているかは分からないけど、実際熱を帯びているから、余計に恥ずかしさの増しどころ。


「やっぱり男じゃん」

「幼馴染みって、フラグだから」

「いや、何フラグ?」

「死亡フラグ」

「意味わからん」

「ちょっとごめん。」


 私はみんなとの共有を切ってメッセのアプリを立ち上げる。


「あれ? 小舟?」

「ちょっと待ってね」


9[今日、用事があっていま鎌倉、一緒に帰らない?]


 珍しい。荒鹿くんが大船から出てくるなんて。

♪[わかった。すぐ出れるよ]

9[外の歩道橋にいる]


 え、近いよ。もうちょっと心の準備がしたかったところ。

♪[はーい]


 私は共有に戻らずに、ヴィジョンを外す。何人かもヴィジョンを外して立ち上がった私を見上げた。


「なんて?」

「いや、あの、今日は、用事ができたから帰るね。」

「WHAT?」

「ごめん〜」

「何? 彼氏?」

「いや、だから、幼馴染みだって。」

「画像見たい! じゃなきゃ行かせない!」

 水泳部の友達がふざけて私に抱きついて邪魔をする。


「もう、ちょっと待ってね」

 友達を振り払いながらもう一度ヴィジョンを被る。共有をオフにしたまま画像フォルダを検索。


「ほら、これ。」

 共有オンで、ほら。みんなのヴィジョンには、まだ私より背が低い頃の荒鹿くん♡


「これ、いつよ」

「小学校3年」


「いや、面影わかんねーし」

「逆に、面影しかわかんねーし」


「もう、そうやってごまかすんだから小舟は」

「ええ、じゃあ、これ」

 じゃーん。イケメン荒鹿♡ どうだ女子ども。


「あら、イケメンさん」

「いい成長見せたな」

「そ、そうかな?」ふふふ。


「オーストリア皇太子?」

「いや、暗殺されてるから」

「てか、メガネじゃないでしょやつは」


「てか、小舟の好きだった先輩に似てない?」

「鎌学の?」

「水泳部の?」

「メガネの?」


 なんと、そっちに来ますか・・・。


「好きじゃないし。」

「いや、一緒にバレンタインあげ行ったし」

 それはそうだけど。


「幼馴染みに似た人を好きになるって、あるあるだよね〜」

「幼馴染みいないからわからんし」

「いいよ、わかんなくて、じゃあね」


 いいの、わかんなくて。もう、行かなきゃ。


「いや、それアイドルでもあるから」

「がんばって〜」

 がんばらないよ。


「じゃあね、また明日。」

「いざ鎌倉〜」

「いざ〜」


 急に来たのは荒鹿くんだから、私が急ぐ必要はないんだけど、やっぱり、最近の荒鹿くんはちょっと気になっている。


 交差点まで来ると、夕方間近のぬるい空に、新しくはっきりした飛行機雲と時間が経って青い空に馴染むように消え始めた飛行機雲がちょうどクロスする辺りにふわふわのクジラみたいな雲が浮かんでいて、若宮大路わかみやおおじの歩道橋の上でぼんやりと地球ちきゅうを見上げている荒鹿くんを食べてしまうくらい大きな口を開けているように見えた。

 声を出して名前を呼ぼうかとも思ったんだけど、私は階段を駆け上がり、息を切らしたまま荒鹿くんの隣に到着した。


「珍しいね、荒鹿くんから連絡くれるなんて。」

 荒鹿くんは、少しだけぎこちなく笑う。


「ごめんね、急に。」

「大丈夫。」ちょっと痩せたかな。頬が少しこけた気がする。


「これからどうする?」何の悪気もなしに、こういう事言っちゃう荒鹿くん。


 こういうところだよ。荒鹿くんのこういうところ。

 誘いだしておいて、何も決めていない。それどころか私にどうするか聞く? 呼び出された私に? 多分、ちょっと苛つきが表情に出ちゃった。

「あ、ごめん。もし、予定ないなら、お茶でも行く?」

 もう、予定があったら来ないよ逆に。なんなの? お茶でも、なんでも行くよ。ボストン茶会事件なの? ほんとに。


「うん。いいよ、行こ。」

 私は先に歩き出した。荒鹿くんを追い越すと、季節外れの金木犀みたいな、ちょっといい匂いがした。近付きすぎたらばれちゃいそうな自分の心拍数が心配。


 しばらく無言のまま若宮大路の歩道を歩く。私はカバンの中を探して、荒鹿くんにグラノーラのバーを手渡した。

「はい、カロリー」

「あ、ありがとう」

「ちょっと痩せたみたいだから。」

「うん。」荒鹿くんは、しばらくの間黙ってグラノーラバーを見ていたけど、包みを開けずにスウェットのパンツのポケットにしまった。

「あとでいただく。」


 ちょっと長谷の方で遠いんだけど、いい感じのカフェがあって、彼氏持ちはみんなそこに行くんだって。荒鹿くんは彼氏じゃないけど、せっかくだからいい感じのカフェでまったりしたいな、なんて思う。


「予備校決まった?」

 荒鹿くんの顔を見上げる。覚えててくれてるんだ、私の話。

「うん、大船で良さそうなところがあったから。鳴鹿ちゃんにも聞いたんだよ。」

 それなりにいい予備校が見つかったのは、ほんと。でも、荒鹿くんがいるからっていうのも、ほんと。

「そっか。」

 そっか、別に興味があって聞いてくれた訳じゃないんだ。だけど、無言で歩く二人って、嫌いじゃない。


「ねえ」と言って突然立ち止まると荒鹿くんは私の両肩に手を添えて、私を荒鹿くんの前に直立させた。


 あ。心拍数が、やばい。

 私は咄嗟に目をそらしたけど、やっぱり気になって彼に戻した。

 荒鹿くんの視線が足元からゆっくり上がってきて最後に目が合った。なになに、なんなの?


「やっぱり。」

 荒鹿くんは、まるで、何もなかったように歩き出す。

 はい? 待ってよ。なんなの?


「ねえ、なあに?」

 荒鹿くんは、まるで、何もなかったように口を開いた。

「あ、ごめん。小舟のセーラー服。」

 え? あ、うん。なんだろ。


「実は、人を探してて。その人もセーラー服なんだ。」

「え?」私は状況を掴めずに聞き返す。

「小舟の学校の人だと思う。」荒鹿くんは前を見て歩いている。私は彼のメガネの奥にある瞳を見つめる。

「え?どういうこと?」

「黒髪のロングで前髪ぱっつん、身長は小舟よりちょっと大きいくらいかな」


 ちょっと話そうか九頭竜さん。しかも、ちょっと大事な話かもしれないね。


「荒鹿くん。お茶しよっか、ちゃんと。ちゃんと話そう?」

「あ、うん」


 私は、ちょっとさっき通り過ぎた若宮大路沿いのチェーンのハンバーガーショップに向けて踵を返す。いい感じのカフェとか、言ってらんない時があるよ。


 もたもたと付いて来る荒鹿くんは多分、生徒会の大野さんのことを言っている。

 大野さんは空港の事件以来学校に来ていない。親御さんが警察に行方不明者届を出したそうだ。女子たちの間では、彼女がサマージだったんじゃないかって噂がひっきりなしに回っている。生徒だけじゃなく、先生やコーチたちも不自然なくらいに空港の事件やサマージの話題を避けている。


 ちょっと遅れて歩く荒鹿くんの手首を掴んで、店のドアを開けると、一番近くで空いていた窓側の席にカバンを置いた。

「ねえ、荒鹿くん」私はスマートフォンで二人分のアイスコーヒーを注文して、彼を向かいの椅子に座るように促した。

「やっぱり荒鹿くん、サマージなんでしょ。」

「え?」

 スマートフォンで画像を検索。誰かがわざわざ見つけてきて学校で出回っている大野さんの捜索願の画像を見つける。


「この子。大野さんって言うんだけど、サマージだって噂。」

 荒鹿くんは、なんていうか、とても驚いたような表情で私を見た。私は、荒鹿くんの前にスマートフォンを置いた。

「ほら、これが大野さん。」


「大野さん」彼女の名前を口にして、荒鹿くんの表情が固まる。一度顔を上げて私の目を見て、スマートフォンに戻ったっきり、そこから目を離さない。

「うん。」私は頷く。うんじゃないんだよ、ほんとは。

 そうだよ。大野さんだよ。荒鹿くん、大野さんを知っているの?


「大野さん」荒鹿くんは繰り返して、彼女の名前を口にした。

「・・・うん。」だからさあ・・・。


「大野さん」

「・・・。」

 九頭竜さん。なんでしょうか?


 大野さんは荒鹿くんにとってなんなの? 一体何? なんでこんなにはっきりしない訳? なんか言ってよ。


「なんで彼女、大野さん。なんでサマージなの?」荒鹿くんは、眼鏡の奥の、濁りのない瞳で私を見た。なんなのピュアなの? しかも、何? 質問に質問で返す?

 って私の質問は声にしてないか。


「空港の事件以来、学校に来てないの。」私は窓の外を見て答えた。


「そっか、会えるかなって思ったんだけど。」彼がどんな表情で、それを言ったのかは、知りたくない。


「会いたいの?」


 そう言って荒鹿くんを見ると、彼は私が今まで見たことがないような神妙な表情をしている。


 アイスコーヒーが運ばれてきた。

「あ、ありがと。いつの間に。」

 荒鹿くんは顔をあげて、少しきょとんとして運ばれてきたばかりのアイスコーヒーを見ている。

「注文しといたよ。ねえ荒鹿くん。」


 荒鹿くんはまだ、少しきょとんとして運ばれてきたばかりのアイスコーヒーを見つめている。私がアイスコーヒーを手元に寄せてストローで一口啜ると、彼もアイスコーヒーを手元に寄せた。


 荒鹿くん。やっぱり、好きだな。ちょっと痩せて、ちょっと大人っぽくなった。


「荒鹿くんは、サマージなの?」私は、もやもやとしていた気持ちをぶつけた。

「え? なんで?」荒鹿くんは驚いた目で私を見た。


「荒鹿くんが学校に行かなくなったこととか心配だし。よくいる大船のカフェもサマージって噂。そして荒鹿くんから大野さんの話が出るなんて、もう、絶対サマージで決まり。私は、」私は・・・。どう言ったらいいのだろう。


「そう言われると、そんな感じするけど。」彼は下を向いて、ぶつぶつと消え入りそうな声で言った。


「私は、荒鹿くんのこと、」


 荒鹿くんが、急に顔を上げて私を見たから、私は言葉を失う。


「私は、荒鹿くんのことが、心配なんだよ。」


 荒鹿くんが真っ直ぐ私の視線を見つめ返す。強い目線で私を見ている。こういう真面目っぽいところ。好きだな、私。同年代の男子たちとは違う雰囲気というか。


 そんな視線が嬉しいのに、嬉しいのに。そんな視線が、きっと初めて私に向けられている。でも、荒鹿くんが何を考えているのか、私には全然わからないよ。


「大野さんをずっと知ってる気がするんだ。」荒鹿くんは右耳の後ろ側を掻いて、ゆっくりと呼吸をしてから続けた。彼の視線は窓の外に逃げてしまった。

「それに、彼女は絶対にサマージじゃない。」遠くを見たまま、彼は言った。


「ねえ荒鹿くん。約束して。荒鹿くんがサマージじゃないって。そして、これからもサマージに入ったりしないって。」

 私はテーブルの上に置きっぱなしの荒鹿くんの手を触った。

 荒鹿くんの視線の先の地球ちきゅうの下にさっきとは別の新しい飛行機雲が見えた。私の指先から伝わってくる荒鹿くんの温度が、突然すごく愛おしい。なぜか、喉のところまで涙が出そうになる。荒鹿くんは、サマージだ。

 荒鹿くんは、多分、サマージだ。自白や証拠はない。女の勘。でも、状況はそう言っている。荒鹿くんは、絶対にサマージだ。


「大野琴さん。学年は一緒。3年生。」私はひとつ、わざとらしいため息をついてから、大野さんのことを話すことにした。


「成績はいつも上位で、生徒会にも入っている。役職はわからないかな。とってもいいお家のお嬢様らしくて、音楽室でピアノを弾いているのを聞いたことがあるって子もいたよ。なんだっけ、ショパン? みたいなやつ。


 それから、七里ヶ浜の海が見えるお家に住んでるみたいで、飼っているラブラドール・レトリバーの名前はダーマ。わんちゃんのお散歩中に会った子がそう言ってた。

 裏の渾名あだなは仏御前。元々はみんなの彼女に対する尊敬が表れているんだけど、サマージの噂が立ってからは、ちょっとしたディスみたいになっちゃった。


 3年生になったばかりの頃に一回だけ帰りが一緒になったことがあって、成り行きで進路の話をしたんだけど、卒業したらアメリカの大学に行きたいとか、日本だったら工業系の大学に行きたいとかで、研究者志望らしいの。お父様が以前、appleだかATMAだか、それ系の有名な外資系の会社でエネルギーの研究をされていたみたいで、調和だっけ、なんかそんなことを研究したいって言ってた。

 私には新しいことばかりで、あんまりちゃんと覚えてないんだけど、ぷるぷるパンクって言ったら、エネルギーのあれだから私も知ってて。」


 他にも、彼女の私服が可愛かったって話とか、バイクの免許を持っているらしいとか、学校帰りにラーメン屋に入っていくところを意外と何度も目撃されている話とか、私は大野さんについて私が知っていることの全てを話した。


 荒鹿くんは途中で少し頷いたり、首を傾げたりしていたけど、ずっと無表情だった。あえて表情を崩さないようにしているのが分かった。


 荒鹿くんと大野さんの関係性は分からない。荒鹿くんはなぜか大野さんを知っていて、しかもずっと知っていて、今日まで名前も知らなかったのに、会ったこともないのに、とても気にしていて、そして・・・、私はただの幼馴染み。

 これが幼馴染みの死亡フラグか。やっぱりフラグ立ってたかー。


 駅までの道のりを、私は勝手に荒鹿くんの手を握って歩いた。学校の子が見かけたら、恋人同士に見えると思う。でもそんなことは関係ない。だって、私はずっと荒鹿くんの幼馴染みだから。

 その手に少し力を入れると、荒鹿くんも握り返した。私は涙がこぼれそうなのを堪えて、喉に力を入れていたから、何も話すことができなかった。


 江ノ電の改札口で手を離すと、彼の手が落ちてしまう前にもう一度彼の手をとって、彼の小指に自分の小指を絡めた。知らない人たちが、知らない理由で私たちの周りを、鎌倉の街を通り過ぎていく。


「約束だよ。サマージとはずっと関係ないって。なんていうか、ずっと、安全でいて欲しいの。明日の夜、電話するから。」


 荒鹿くんと別れると、私はすぐにヴィジョンをかぶって、涙があふれるのを我慢するのをやめた。海沿いは夕日が眩しくて、でもそれって、マイナス100度の太陽みたい、と思った。なんでだろう。悲しい時に悲しい歌を聴くと余計に悲しくなるのに、悲しい時には悲しい歌が聴きたくなる。


 その前後のことはあまりよく覚えていない。家に着くとお母さんがご飯を用意してくれていたけど、私はベッドに直行してばったりと倒れ込み、制服のままで眠った。妹が様子を見に来たみたいだけど、起き上がることができなかった。


 荒鹿くんが触れた私の両肩が、彼が握り返した私の手がなんだかあったかい。約束を交わした私の小指がなんだかあったかい。私はいつもみたいに、起きても覚えていないような、あたりさわりのない夢を見る。




●2036 /06 /17 /23:10/川崎・浮島(旧サマージアジト)


 羽田空港からほど近い埋立地の工業地帯。金属とコンクリートが入り組んだ無機的な重い工場群に、光る大小のビーズをピンセットで飾りつけたような繊細な夜景が、降り頻しきる雨季の雨のせいで有機的に見える。まるで呼吸をする深海の未知の生物のようだ。


東亞合成とうあごうせい川崎工場」の古い金属のサイネージがあるその工場の入り口ゲートには有刺鉄線が巻かれ、雨の重みでだぶついた「KEEP OUT」のテープが何本もだらしなく張り巡らされている。アサルトライフルを抱えた哨戒中の特殊部隊がマネキンのようにが突っ立ってそのヘルメットから雨を滴らせる。時折ゆっくりと歩いて移動しなければそれが本物だということがわからないほどだ。


 羽田空港襲撃事件からちょうど二週間。その後続いたサマージと思われる閃光事件や、腰越漁港の大爆発があり、カワサキ・サマージの施設が閉鎖されてから一週間以上が過ぎていた。

 都会のビル群のように林立する円柱のガスタンクの表面に、淡々と冷たい雨が当たる。一粒一粒の優しい雨音は、それが数え切れないほどたくさん集まっても、ずっと優しい音のままだ。ボリュームのある優しい音が辺り一面を覆っている。

 不意にずるずると重い何かを引きずるような音がして、敷地内の駐車場にあるマンホールの蓋が闇に紛れて数センチ浮き上がった。哨戒中の隊員が振り返ると、マンホールは静かに閉まった後だった。


「いるよ。」

 下水道官の竪穴にサウスの声が響く。サウスが金属のハシゴを一段一段ゆっくりと降りる。

「じゃあF6しか残ってないね。」

 ノースがヴィジョンに共有されているマップの別の地点にピンを立てた。サウスが竪穴の入り口から飛び降りると、ヌメヌメとした下水が四方に勢いよく飛び散った。荒鹿はノースの後ろで肩を縮め、どうにか下水の被害を減らす努力をした。


 目元まで覆うPFCスーツとヴィジョンゴーグルという出立ちの三人はサウスを先頭に、暗い下水道管をそろそろと移動する。

 双子が襷掛けで背負う大きなヘルメットバッグがぼろぼろなのは「普通」の生活では縁のないこんな場所を、ずっと一緒に通り抜けてきたからだろう。


 足首ほどまであるヌメヌメした下水の中を歩く双子とは対照的に、荒鹿は足を広げてできるだけ下水につからないように移動する。

 F6のポイントでサウスがジャンプして、コンクリートから突き出す太いホチキスの針のようなハシゴをつかむと、腕の力で体を引き上げ竪穴に消えた。


N[PFCスーツはSNS撥水だから汚れない、ちゃんと歩け]

 荒鹿のヴィジョンにノースからのダイレクトメッセージが表示された。SNS撥水ってなんだよ、と荒鹿は思う。

N[スーパーナノスリット。アワラの講義で聞いた]

9[え? 今、読んだ? 思考、読んだ?]

 ノースが立ち止まって後ろの荒鹿に振り返り、PFCスーツ越しにため息をついた。

「クズリュウの考えてることぐらいわかるよ。」


 荒鹿はめんどくさそうに頷いて、おそるおそる足を下水に入れるとすぐにサウスからの合図がヴィジョンに表示された。オールクリアー『GO』。


「行こう。」荒鹿に続いてノースが竪穴へと消えた。


 サウスがマンホールの蓋をスライドさせるとヴィジョンの暗視露出の可視光線部分の光量設定が変わり視界が一瞬ホワイトアウトする。

 荒鹿はゆっくりと地上に頭をだした。高度0メートルから見上げる建物や雨雲が垂れ込める低いはずの空や降ってくる雨粒の一つひとつは、どうやっても手が届かないくらい、いつもよりずっと高く感じられた。

 地上に這い出て、PFCスーツを首元まで下げ雨の匂いのする地上の空気を吸い込むと、サウスはすでに数メートル先の建物の影で、肘を張り顔の右側に銃口を上にして銃を構えている。サウスは視線だけを荒鹿に送り、首で合図をした。首の横で濡れたピアスが光る。サマージの合図だ、と荒鹿は思う。懐かしさすら感じる。荒鹿は屈んだ姿勢のまま、サウスの後ろまで走った。


 建物の角から向こう側を伺っているサウスが、銃を構えたまま振り返ってマンホール付近で体を低くして待機するノースに視線をやり、首を使って合図を送った

 ノースが合流すると双子はその場にヘルメットバッグを置き、バッグの中から別の銃やらベルトやらいろいろなものを取り出して、順番に地面に並べた。


「作戦通り、二手に別れる。あたしとさっちゃんが4階から、クズリュウはここを通って先にK3地点で待機。」マップにK3地点と、荒鹿のルートが表示された。建物に沿って移動できるシンプルなルートだ。

「最悪の場合を除いて、アートマンにはならない。アワラによると、周波数がモニタリングされているらしい。タコも禁止。」

「そりゃそうだね、アートマンの本拠地だもん。」


「6メートル以上離れるとBluetoothが切れるようになってるから、これ以降はK3まで連絡が取れないけど、気をつけてね。持ち物全てからSIMは抜いてあるけど、wifiも拾わないように。」てきぱきと的確に指示を出すノース。

「特殊機内モードになってる。」もう一度コントロールパネルを開き、芦原が設定に追加した特殊モードを確認して荒鹿は頷いた。


 サウスは銃をそっと地面に置くと、PFCスーツの中に窮屈そうに収められたむちむちの左太ももに巻いたレッグホルスターを外し銃の隣に置いた。それから地面に並べてあるベルトの一つを取り上げて、PFCスーツがあらわにしている滑らかでしなやかな腰のくびれのラインの下あたりにそれを巻いた。


「アラシカ。」一連の動作を見つめていた荒鹿は、反射的に経験上一番確率の高い「変態」の罵声を察知、慌ててサウスから目をそらした。

「銃、撃ったことある?」突然の質問だった。

「え?」荒鹿はサウスを振り返って、フリーズした。

「じゅ、う?」


「だいじょうぶ。アラシカ、ちょっと強くなったから、撃てるよ。」

「グロックは二つしかないからね。」そうやって会話をしている間にも双子はてきぱきと装備を整えていった。

「クズリュウ」ノースが声をかけた時、荒鹿はサウスに手渡されたレッグホルスターを左腿に装着しながら、その震えを隠さなければならないほど手が震えていた。


 数時間前に姉の車で周辺を偵察した時に、アサルトライフルを持った県警の特殊部隊を見かけた。対アートマンを想定した重装備だ。あの方達と銃でやり合う? 銃撃戦? こんな裸みたいなスーツで? ライフルと? 

 荒鹿には、銃撃戦で勝てる想像はおろか、銃撃戦の様相すら想像することすらできなかった。


「大野ちゃん、見つけるよ。」ノースがそう言って荒鹿を励ますのは、出発の前に芦原の研究室で大野の捜索願の画像と小舟からの情報を共有されていたからだ。

 しかし荒鹿も夢のことは言いそびれていた。おそらく、共有する必要のない事項という事にしていたが、実際はただ恥ずかしかったのである。


 とにかく。微妙に違う理由ではあれど、今は双子が自分と同じ目的を持っている事実が力強い。荒鹿はノースの目を見て頷いた。


「さっちゃんの、グロック。」サウスが荒鹿に銃を手渡す。

 震えがおさまった手のひらにずしりと重いそのグロック22は、この冷たい雨の中でも少しだけサウスの温度を残していた。スライドにはイルカと太陽のステッカーが色褪せていて、長い時間の経過を感じさせた。


「もし、やり合うことになったら顔面か頭を狙って。見た感じクラッシュヘルメットだから。ちなみにノースのは、シロクマだよ。」

 サウスにシロクマを紹介された時、すでにライン・スロワーを構えていたノースは、太もも辺りを指差し、自分のグロックを荒鹿の位置から見えるようにお尻を突き出す姿勢をとったから、荒鹿はゴーグルの中で目を閉じて深呼吸をしなければならなかった。


「頭か顔面ね、狙ってみる。シロクマね、ノースだからね。いいと思う。」目を閉じていてもノースのお尻の形が瞼の裏にくっきりと見える。


「さあ、撃ち方教室だよ。構えはこう。左手は添えるだけ。」サウスが小型のライン・スロワーを構えて見せる。


「さっちゃんはね、だいたいこうやって顔の横のところで構えておいて、撃つ時は、こう、まっすぐ。」そういって体の前方に突き出したライン・スロワーを、突然上空に向けて打ち上げた。ぷしゅーと圧の抜ける音がして、ナノカーボンのロープが真っ直ぐ上昇して、建物の梁の部分にくっついた。ほぼ同時にノースもロープを打ち上げた。


 突然の事に、荒鹿は驚いて後ずさった。二人はロープの残った端を腰のベルトのカラビナに接続した。


「大丈夫。すぐに帰ろう。」

「大丈夫。アラシカ、強い強い。」そう言い残して二人は建物の壁面に沿って急上昇し、荒鹿の前から消えた。


 上昇を終えた二人が降りしきる雨の音に紛れて窓ガラスを破り、部屋の中に忍び込むのを見届けてから、前に向き直りマップを拡大する。動き出さなければ緊張に押し潰されてしまう。荒鹿は少し弱まり始めた優しい雨の中をとぼとぼと歩き出した。

「左手は添えるだけ。左手は添えるだけ。」ぶつぶつと口の中で繰り返しながら、双子が生きて来た世界や、芦原さんがくぐり抜けてきた世界、まるで「普通」じゃない世界を想像する。


 生と死が近い。というよりもそれが隣り合わせで存在する世界。コインの表と裏に例えると、どっちが出るかわからないってことだろうか。いや、そこまでギャンブルな訳でもないだろう。アートマンの力を手に入れてから移り変わってしまった世界に自分は直面している。小舟がいない方の世界だ。


「安全でいてほしいの」という彼女の言葉が荒鹿の耳に届く。きっと小舟がいる方の世界から届いたんだろう。荒鹿は自分の手が握っている銃を見つめた。


「いや、さすがに『左手は添えるだけ』じゃないだろう。」例えば、安全装置とか、装填とか、いろいろあるはずだろう。だいたい、この辺りが安全装置なんじゃなかってことは想像できるものの、それがオンなのかオフなのかすらわからない。そもそも、そういう仕組みかもわからない。

 もうここまできたら、双子と合流するまでは絶対に特殊部隊と遭遇しないことを祈る。それしか、荒鹿にできることはなかった。


 息を殺したまま、建物の最初の角にたどり着くと、先刻サウスがやっていたように顔の横で銃を構え、建物の向こう側を確かめる。建物のあちこちに設置されたCCTVが視界の中に赤い光でポイントアウトされる。芦原さんの言葉を信じるなら、PFCスーツが電磁波を干渉させないから、ぼくらはCCTVには捉えられないはずだ。信じるしかない。「イエス。オールクリアー。」荒鹿はため息をついて、やっぱりこれはギャンブルだな、と思う。


 雨降りでしかも夜だけど見覚えのある景色が荒鹿の視界に入った。背の低い建物とその向こう側に見える巨大な球体のガス貯蔵タンク。晴れていたら、あのタンクが並んだ辺りに地球環が見えるはずだ。


 ゆっくりと歩を進めながら荒鹿は自分がこの場所に見覚えがある理由を思い出そうとしていた。


「クズリュウの考えてることぐらいわかるよ。」

 耳の中に響いたのは、小舟がいない方の世界からの声だった。雨降りでしかも夜だけど、ヴィジョン越しにロングスケートで踊るように地面を滑るノースが見えた。春に咲き始めた花々の間を行ったり来たりする蝶のように、自由で、儚くて、美しい。

 あの動画を撮影していたのはサウスに決まっている。荒鹿は何度も見たその映像をBGMと共にはっきりと思い出すことができる。

 今となっては映像には入っていない撮影時の二人の会話だって再現できる。


「やめてよ、もう。撮らないで。」「だってノース上手いもん。」「恥ずかしいよ。」「はずかしくないよ、可愛いもん。でも、次はさっちゃんの番だよ」ってところだろう。

 暗視ヴィジョンの片隅に、ちらちらと揺れる光の粒が見えた。本当に蝶のようだ。


 いや、違う。敵のウェポンライトだ。荒鹿は咄嗟にその場に突っ伏して、瞬時にマップ上に光の位置を照合させた。


「ちくしょう。オールクリアじゃねえ。K3の真ん前だ。」

 荒鹿は地面に突っ伏したまま、植え込みの陰を匍匐前進で進む。その後ウェポンライトの光は確認していないものの、K3は荒鹿の直線上に位置している。


 K3地点は建物がコの字型に奥まった部分で、その左右からは死角になっているが、正面からは腰の低さよりも低い植え込み以外に視界を遮るものはない。とにかくたどり着くしかない。

 双子は上から降下してくるはずだから、哨戒の特殊部隊がいれば二人が見逃すことはないだろう。荒鹿は全身が熱くなるのを感じる。あと5メートル。熱くなった体が、自分の体じゃなくなってしまったかのように重い。3メートル。


 一度ごろりと仰向けになって、建物の上部を確かめる。二人はまだいない。予定の時間まではまだ少しある。うつ伏せに戻って上体を起こし、植え込みの向こう側を確かめる。ため息。今のところオールクリアー。

 どうにかこうにか漸くK3地点、コの字型の内側にたどり着くことができた。荒鹿は再び仰向けになって、長い息をついた。


 すぐに、荒鹿は起き上がってサウスがやっていたのを真似てマンホールの蓋を引き摺り開けた。

 しかしすぐに視界の中にウェポンライトの光が再び現れた。ヴィジョンゴーグル越しの緑の光の点はK3から見て右側の背の低い建物を照らした。その光源の場所からはコの字の内側は死角になっているはずだ。荒鹿は立ち上がって、コの字の左側の壁に背を付けて銃を構えた。安全装置がオフになっていますように。


 だんだんと輪郭がはっきりとしてくるウェポンライトの光が左側に逸れた瞬間を狙って、壁から少し首を出して相手の位置を確かめる。ヴィジョンゴーグルには何も映らない。


 今の荒鹿に明確にわかっていることが一つあった。その瞬間になったら、自分は引き金を引くことに躊躇するだろうということ。相手はアートマンではない。武装していると言っても生身の人間だ。そして芦原さんの戦争の話と違うポイントを挙げるとすれば、相手は同じ日本人なのだ。神奈川県警に所属する同じ神奈川県民ですらある。


「よし、もう先の分の躊躇はした。」

 荒鹿は思う。アートマンは躊躇を力に変えるらしい。しかし、人間同士ではそういう訳には行かない。

「頭か顔面。生きるか死ぬか。」これは殺すか殺されるかではない、生きるか死ぬかなのだ。ウェポンライトの光が途切れ途切れになり、ふっと消えた。荒くなっている自分の呼吸を感じる。コインの表か裏。


 顔の近くで銃を構え、ゆっくりとコの字の凹みから出る。ヴィジョンに緑の人影が映る。距離10メートル。まだこちらには気がついていない。心臓の鼓動が極限を越え、今にも口から出てきそうだ。距離5メートル。


「撃つ時は、真っ直ぐ。」


 パンッ。荒鹿がトリガーを引いたのは、相手が荒鹿に気がついた瞬間。グロックのスライドが高速で動いて手のひらの中に衝撃が跳ね返る。その瞬間、荒鹿の胸元にウェポンライトがくっきりと光り、向かいの通路沿いに停めてあった軽トラのフロントガラスが割れ、その破片がスローモーションのように車内に崩れ落ちる。


 その少し前、4階からロープで急降下するサウスがライフルを撃つ低い連続音が聞こえた。ほぼ同時に、最初の弾丸を外したことに気が付いた荒鹿が続けてトリガーを2度引く。どさっという音と共に隊員は声も出さずに後ろ向きに倒れた。

 地面に降り立ったサウスがそのまま荒鹿に向かって飛び込み、その勢いで二人は植え込みの手前に倒れ込んだ。PFCスーツ越しに雨で濡れた冷たくて、だけど柔らかくて張りのあるサウスの身体が押し付けられた。

 荒鹿に身体を押し付けながら、サウスは荒鹿のゴーグルを外して放り投げた。

 そして突然、荒鹿の冷たい頬に、雨に濡れて冷たくて、それでもしっとりと柔らかい唇を押し付けた。


 続けて地面に降り立ったノースが、倒れて抱き合っている二人と植え込みを同時に飛び越え、仰向けに倒れている隊員のもとに駆け寄った。

「さっちゃん、クズリュウ。」


 荒鹿とノースが二人がかりで死体の後ろ襟を掴んで引き摺ると荒鹿のゴーグルの外の荒鹿のリアルな視界に、暖かいトマトジュースのような赤い血の跡が鮮明に現れた。死体を植え込みの上に引っ張り上げると、枝がバリバリと引っ掛かって折れた。

「少ししか時間稼ぎにならないと思うけど。」マンホールの前で死体を方向転換して、頭じゃなくて足元から落としたのは、せめてもの気持ちだ。


 サウスがパンパンに膨らんだヘルメットバッグを合わせて4つ、後からマンホールに落とした。穴の中からの衝撃音が鈍く響いた。

 ノースがヴィジョンゴーグルを植え込みの影から拾い上げて荒鹿に渡した。

「クズリュウ、ありがとう」


●2036 /06 /17 /23:42/川崎・浮島(旧サマージアジト付近)


ふた2さん3よん4ふた2。さっちゃんとクズリュウとあたしの三人は、住み慣れたサマージのアジトを見下ろせるガスタンクのてっぺんに腰をかけている。ここは、よくさっちゃんと二人で来た場所だ。


 さっきまでは雨が降っていたけど、今はすっかり止んで、ガソリンの膜みたいな薄い雲が、白く光る月の周りに広がったり重なったりして、その合間にうっすらと地球そらの環わも見え始めた。相変わらずの繊細な夜景は、きらきらのビーズみたいだから好き。


 アジト周辺は少し慌ただしく、すでに警察や消防の車両が集まり始めている。すぐ後ろの羽田空港があった場所はただの暗がりになっていて、ディズニーも今日は見えない。あたしたちはこれから重い荷物を背負って、車を停めた場所までしばらく地下を歩かないといけないけど、ここまで来てればもう大丈夫。


 目的の空IDをちゃんとゲット。他にはMP5を4丁、グロック22を7丁。それぞれ弾丸をバッグに詰められるだけゲット。

 さっちゃんとあたしのスケートボードは諦めたけど、それぞれのメイクポーチとアクセサリーケースも回収。今は、一刻も早くアワラの家に帰りたい。というか、熱いシャワーとベッドが恋しい。ちょっと贅沢になっている自分がいる。


 とにかく。


 今日はちょっとドキドキする場面もあったけど、概していい1日だったということにする。」


「何を言ってるの?」荒鹿は顔を上げて、一人ぶつぶつと喋っているノースの横顔を見つめる。風が吹くと、サウスとお揃いの石が入った細いチェーンのドロップピアスが、髪の毛の隙間からきらりと光って工業地帯の夜景に溶けた。

「しっ。ノースの日記だよ。」二人に挟まれる位置に座り、目を閉じてノースの声に聞き入っていたサウスが荒鹿の視線を遮るように振り向いて言った。ノースとお揃いの石のピアスが同じように光って夜に溶ける。


 日記の保存を終えたノースが、旧サマージのアジトを見下ろしながら微笑む。

「ねえ、クズリュウ。」アジトを見つめたままのノースに名前を呼ばれて、荒鹿はサウス越しに彼女の横顔を再び見つめた。


「あたしも、クズリュウのほっぺにちゅうしてあげてもいいんだけど、今日はさっちゃんのだけで我慢しな。」


 彼女が何を言っているのかは分かった。嬉しいことを言われたような気もする。我慢しろとと言われれば我慢する。しかし、不思議とどのような感情も湧き上がらなかった。荒鹿は静かにノースの目線の先を追った。


 雨に濡れて静かに呼吸をしているような工業地帯の夜景は、あまりにも日常の景色とかけ離れていて、何億光年もずっと遠くにある知らない宇宙を見ているようだった。

 まったく生活感とかけ離れたこの場所に、この場所で動いている人々に「普通」の暮らしは支えられている。工業地帯っていうのはそういうものだ。

 そして「普通」の人々は、そんなことにも気がつかないまま「普通」に生きていく。


 ここで双子は暮らしていたのだ。そして、二人はもうここに戻ることはない。

 同じように、自分もー人間に対して引き金を引いた自分だって、もとの世界に戻ることはないのだろう。それが概して荒鹿の1日だった。荒鹿にとっては、いい1日と言えるような日ではなかった。


 双子が荒鹿を急に受け入れた理由は明白だった。荒鹿が特殊部隊に銃を向け、そして彼を殺したからだ。そういう世界に入ったのだ。一人前になったのだ。きっとこれが通過儀礼みたいなものなのだ。


「でも、ぼくの銃弾は外れてた。」荒鹿の銃弾は特殊部隊を外れて、後ろの軽トラの窓を割った。同じ瞬間にサウスが上からMP5で彼を仕留めた。荒鹿の二発目と三発目は死んだ彼の右肩と右腕にめりこんだ。


「殺したかどうかなんて関係ないよ。」サウスは立ち上がって、地球そらに触れようとするように、大きく伸びをした。


「じゃあ、クズリュウはなんで撃ったの?」ノースはそう言って、微笑んだままサウスを見上げた。


「それは・・・。よく覚えてない。」ただ、咄嗟だった。いろいろなことを考えたような気がするけど、よく覚えていない。


「それはね、アラシカがね、さっちゃんとノースを守ったんだよ。」


 サウスが荒鹿の頭に手を置き、髪をくしゃくしゃと撫で回した。女の子にしては、というか小舟に比べると大きい手のひらだな、と荒鹿は思う。荒鹿は首を曲げてその手から離れようとするが、サウスは荒鹿の髪を優しく撫で続けた。


●2036 /06 /17 /23:42 /大船


 一日中降っていた雨はもう上がり、柔らかい月の光が窓から差し込んでいる。


 荒鹿の部屋では、テーブルの上のスマートフォンのスクリーンが立ち上がり、黄色いポップアップが表示される。バイブレーションの振動が蜂の羽音のような音をたてる。スマートフォンは振動したまま少しずつ動き、テーブルの上に無造作に置かれていたグラノーラのバーを突き落とした。後を追うように落ちたスマートフォンはしばらく振動を続け、やがて静かに止まった。


 つづく

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