第4話 あの子かなぁ?

 身代わり三日目。


 カイエは行儀悪く、神殿の一階にある自室の窓辺に腰掛けて、空を眺めていた。

 ふわもこな雲が風に乗って流れていく。

 雲を眺めながら、カイエはセレスのことを考えていた。

 今頃、推しのライブに熱狂しているだろうか。


 ――というか、「推しのライブ」って、何……?


 そのあたりの説明はないままだ。セレスにとってとても大切なものらしいことは、話ぶりからうかがえるのだが。


 昨日の着任式のあと、神官長と女官長(あの立場がある女官は女官長だったらしい)に問い詰められ「何か変なものを食べてしまい、記憶がふわふわと曖昧になっていて……」と苦しい言い訳をする羽目になった。

 驚いたことに神官長も女官長も「聖女様ならやりかねない」と納得したことだ。

 姉の普段の生活態度が気になる。三百年もここで聖女をしている人なのに、それでいいのか。


 記憶喪失は一時的なもので、十日もすれば元に戻るから、それまでは重要な儀式などは入れないでほしいと頼んだ結果、「聖女様は体調不良につき休養中」ということにしてもらえた。

 それ自体は「しめしめ」なのだが、そうすると今度は退屈でしかたがない。


 二十歳前後に見えるカイエだが、これでも百歳近い。一人暮らし歴も長い。時間はいくらでも潰せるが、それは自分のやりたいことをやっていればこそ。

 ここには、カイエのやりたいことがない。

 本当にぽかんとしているだけ。


 ――まあ私がここにいてこれを握り締めていれば、代役は務まるんだけど。


 懐に忍ばせていた竜のうろこを取り出す。

 手のひらサイズのそれは半透明で七色の光を放っている。

 この世界を作ったという創世の竜のうろこ。これを持っているのは魔王である母と、三人の子どもたち。持ち主に途方もない魔力を与えてくれるもの。


 もともとうろこはすべて母が持っていた。創世の竜から直接与えられたのが母だったのだ。

 理由はよくわからないが、母がこの世界の生まれではないことが関係しているらしい。母の正体については母本人もよくわかっていないので、聞くだけ無駄だ。「魔王」という呼び名だって人間が勝手につけたものだ。


 母は三人の子どもたちに自分の持つうろこを与えた。

 カイエも持っていた。

 でも失ってしまった。


 そのことは後悔していないけれど、そのせいで魔力は弱まり、今も魔力の流出が止まらない。寿命も減っているようだ。証拠に、以前ならすぐに消えた傷も、今はなかなか消えない。

 魔力が少ないのは不便だとは思うが、それよりも悲しいのは寿命が縮んでしまうことだ。

 家族を残して、カイエが先に逝ってしまうのだから。


 ――でも人間なら当たり前なんだよね、これが。


「ご気分が優れませんか」


 ぼんやりしていたところにいきなり声をかけられて、驚きのあまりカイエはバランスを崩してしまった。

 窓の外に体が投げ出される。

 とっさのことで何もできなかった。

 誰かがカイエの体に腕を回す。

 体中に衝撃が走る。

 不思議と痛みはなかった。


 おそるおそる目を開けると、至近距離にアスターの整った顔があった。

 カイエは地面に膝をついたアスターに抱き留められていた。


「申し訳ございません。聖女様を驚かせるつもりはなかったのですが、見回りをしていたら一人で窓辺にいるところが目に入ったもので、つい」


 アスターが気遣わしそうにカイエを見つめる。

 吸い込まれそうな美しい氷色の瞳に、思わず見入ってしまう。

 その瞳の奥で何かが揺れた。

 はっと我に返る。


「ご、ごめんなさい! 重たいわよね」


 急いでアスターの腕から逃れようとしたが、なぜかアスターは腕を離さない。それどころか、ぎゅっと力を込めてカイエを抱きしめてきた。

 アスターがカイエの首筋に顔を埋めて深く息を吸う。


「……このにおい、間違いない」

「におい?」

「なぜ聖女様がこのにおいをまとっているのですか? これは……東の魔女のにおいです」

「は……はあ!?」


 東の魔女のにおいだと!?


「なぜですか。教えてください。聖女様は東の魔女と何かつながりがあるのでは……?」


 バッと体を離し、今度は肩を掴まれて顔を覗き込まれる。


 ――もっ、もしかして私が東の魔女だとバレた……?


 だが東の魔女は十数年前に姿を消したままだ。

 アスターはせいぜい二十代半ば。

 もともとカイエはめったに人前に出なかった。

 カイエのことを知る人間がそうそういるとは思えない。

 これは勘違いか、激しい思い込み……の類に違いない。


「なんのこと?」


 というわけで、カイエはしらばくれることにした。

「ですが」

「鼻がきくのね、坊や」


 カイエはそう言ってアスターの鼻をつまんだ。ふがっ、と美青年がらしくもない変な声を上げる。腕の力が緩んだところでカイエはアスターの腕の中から抜け出し、距離をとった。


「私はセレス、この国の聖女。東の魔女なんて知らないわ。私の前で魔物の名前なんて出さないでちょうだい」

「東の魔女は魔物ではありません。東の魔女は素晴らしい女性です」


 カイエの言葉にアスターがむっとしたような顔で食らいつく。


「魔物よ。人をたぶらかして魂を貪り、何百年も変わらない姿で生き続ける、そんなものが素晴らしい存在のはずがない」


 カイエたち魔王の一族は人の魂が糧である。人の世に紛れて暮らす兄にしても、姉にしてもそう。

 どんなに人間に慕われても、自分たちは人間の魂を食べなければ生きていけない。

 いくら見た目が人間に近くても、普段は人間ぽく振る舞っていても、人間を狩る時、自分が魔物だと痛感する。

 だからカイエは人と距離を置いていた。情をかけたら狩れない。兄姉は好きだが、どうして人の中で生きながら人を狩ることができるのか不思議でならない。


「……それでいったら聖女様はどうなのですか。何百年も変わらない姿のまま生き続けていらっしゃる」

「私が魔物とでも? あなたたちを守るこの結界を張り続けている私を?」


 カイエが睨むと、アスターがはっとしたように目を伏せた。


「申し訳ございません。口が過ぎました」

「本当よ。ひどいわ。もう行きなさい、騎士アスター。私はあまり気分がよくないの」


 カイエはそれだけ言い残すと踵を返し、アスターの前を立ち去った。

 姉っぽく、というより聖女っぽく振る舞えただろうか。

 それはそれとして、


 ――素晴らしい女性ですって? 私が?


 アスターの姿が見えない場所まで来たところで、カイエは立ち止まり、唐突にうろたえ始めた。


 ――そんなこと言われたことは一度もないわ。においとか……においって……。


 試しに自分の腕を持ち上げてクンクンしてみる。毎日風呂には入っているし、服だって洗濯しているので、クサイということはないはずだ。


 ――あの口ぶりだと、本当に私を知っているみたいね。どこかで会ったことあるのかしら?


 うろこを失って以降は特に人目を避けているから、まったく心当たりがない。とすると、それよりも前?

 ただ、あのひたむきな瞳には見覚えがある気がする。

 どこで見たんだったかなぁ、と記憶を手繰っていて思い出した。


 ――しばらく預かっていた子犬があんな目をしていたんだわ。大きな目をクリクリさせながら、おやつを楽しみにしていたわよね。


 あの犬を預かったのは、今から十五年ほど前のことだ。


 十歳くらいの男の子が力のある魔物に捕まって厄介な呪いをかけられ、どこかでカイエの噂を聞きつけたのだろう、身なりのいい男女が助けてくれと泣きながら駆け込んできたことがあった。

 どこかの貴族様だということはぼんやり覚えている。正直、依頼主が誰であってもたいして興味がないので、どこの誰だったかはわからない。


 昼は犬になり、夜は人間に戻る呪いはだんだん男の子の体を蝕み、犬でいる時間が長くなっていく。調べたところ、犬でいる間は人間の意識がない。人間に戻った時も同様に、犬でいたことを覚えていない。


 たいした呪いではないと思った。この程度の呪いの解呪のために実在するかどうかもあやしい「東の魔女」を捜して駆け込むなんて、さすがお金持ちねぇ、などと感心しつつ、力がある魔物だと言っても自分に匹敵するわけがないとタカをくくっていた。


 呪いは魂に食い込んで、カイエではどうすることもできなかった。おそらく夫妻はあちこちを訪ね歩き、すべてに断られたに違いない。

 なるほどこれは、「東の魔女」にすがりたくなるのもわかる。

 そしてカイエにもプライドはある。

 けなげに呪いに耐える少年に同情できるくらいの心も持ち合わせている。


 だからカイエは、自分の魔力の根源でもある竜のうろこを使って呪いを解いたのだ。……少年に呪いをかけた魔物を殺しに行くという方法で。

 その時にうろこは砕け散り、少年の呪いは解けたけれどカイエも魔力を失った。


 今のカイエは、かつての一割にも満たない魔力しか持っていない。そしてその一割の魔力が体から流れ出ていくのを、止めることができない。いずれは魔力が枯渇して死んでしまう、弱弱しい存在になってしまった。


 家族は心配している。

 大丈夫だよといつも答えている。

 不安なんて見せない。

 大好きな人たちが悲しむ姿は見たくない。

 あの少年だって堪えていたことを、少年の何十倍も生きている自分ができないはずないのだ。


 ――あの子よね……?


 アスターは二十代半ばに見えた。

 あの男の子は、十五年前に十歳くらいだった。

 確かに計算は合う。でも自分のことを覚えているはずがない。


 第一、カイエは、子犬の世話しかしていない。あの子が人間に戻れる時間は本当に少なかったし、人間に戻ってもあの子はずっと朦朧としていた。

 あの子に懐かれるような何かをした覚えはない。

 子犬はかわいかったけど。


 ――わからん。


 どうせあと七日程度でここを立ち去る。相手は実力のある聖騎士。今のカイエなら彼の剣に勝てないだろう。


 あんまり深入りしないほうがよさそうだという結論を出し、カイエは再び歩き出した。その後ろ姿を追いかけてきたアスターがそっと見つめていたことなど、当然気付くわけもなく。

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