特別回① 成瀬 楓の夢。
(楓の部屋)
ある夏休みの夜。
わたしは保育園の卒園アルバムを見ている。
子供の頃のわたしの夢は「お嫁さん」だった。
この夢を叶えるには、相手の男の子が必要なわけで。だけれど、わたしは小学生の頃に、男の子にイジメられていた。
「メガネ」、「気持ち悪い」、「バイキン」
それらの言葉は、わたしの心を切り刻み続けた。
いつしか、お嫁さんへの憧れは、ペラペラの上履きの底のようにすり減ってしまって。男の子は、わたしを痛めつけるだけの存在になっていた。
中学3年の頃、BLというものを知った。
男の子たちが喘ぎ責め合うその姿は、わたしの嗜虐心を満足させてくれる。わたしを苦しめていた男の子たちの恥ずかしい姿は、わたしに全能感を与えてくれるのだ。
気づけばわたしは、BLに夢中になっていた。
高校3年になって、しばらくした頃。
変化が起きた。
本屋のバイトに幼い顔の新人君が入ってきた。彼は弟と同じ年で、なんとなく憎めない子だとは思っていたけれど。
ある日、彼に助けてもらった。
意味のわからないクレーマーに詰められて、わたしが泣いていたら、彼が庇ってくれたのだ。
その日から、わたしを傷つけるだけの怖い存在だった男の子は、再び、その姿を彼という勇者にかえて、復権した。わたしはまた、保育園の頃の夢を思い描くことができるようになった。
それからは、彼と並んでレジに入ることが増え、この人と家族になれたらいいなぁと想像するようになった。
想像の中のわたしは、彼と小さな子供と3人で仲良く暮らしている。いつも、旦那様にぴったりくっついて、毎日、子供と手を振って、いってらっしゃいをするのだ。
でも、現実のわたしは、メガネで地味で可愛くない。背も胸も小さくて、貧相で。凛ちゃんのように美人でスタイルも良くない。小学生のときに、男の子たちに
もし、彼に告白しても、結果はわかりきっている。
だから、しない。
想像しただけで、身体中の血が抜けて、へたり込みそうになるのだ。実際にそうなったら、きっと彼の前で泣いてしまう。
わたしは、そうやってバイト中に妄想して。時々、現実でもじゃれあって。一時の幸せを感じていれば、それで満足なのだ。
でも、ある日。
バイトの新人の春川さんに、彼とエッチするといわれて。彼と春川さんは普段からそういうことをしているのかと思ったら、泣いてしまった。わたしは泣いた自分にビックリした。
わたしは欲張りだ。
いつの間にか、彼との幸せな生活を想像しているだけでは、物足りなくなっていたらしい。
バイトのあと。
彼をデートに誘った。
裏口の近くで、彼のバイトあがりを待つ。
デートの待ち合わせなんていう、わたしには縁遠いシチュエーション。世の男女は、みんなこんなことをしているのだろうか。
心臓が胸から飛び出しそうになっている。
だから、今日はメガネを外すことにした。
緊張してメガネが曇ってしまいそうだし、よく見えなければ、わたしにも少しくらい勇気がでるかもしれない。
レンガ積みの壁にもたれて、足をブラブラして待っていると、彼が来た。
きっと、最初で最後の彼とのデート。
彼の一挙一動を忘れないようにしよう。
だからせめて。手くらい繋ぎたい。
わたしは勇気を出して、彼に手を差し出す。
手汗をかいていないかな。
この鼓動が伝わってしまわないかな。
そんな心配をよそに、彼はわたしの手を優しく握ってくれた。
映画を見て、ご飯を食べて。
アッというまに泡沫の夢は終わろうとしている。
割り切っていたはずなのに、終わってしまうのがイヤで。わたしは、気づいたら彼にキスをしていた。
すると、彼は一瞬、困惑した顔をしたけれど、わたしを受け入れてくれた。彼に舌を絡めると、その度に、まるで彼との距離が縮まっていくようで、わたしは夢中で彼とキスをした。
キスを何度もして、はぁはぁと息をする。
わたしの心と身体が彼を求めている。わたしの身体も、心と同じで欲張りらしい。男の子に性欲を感じている自分にビックリした。もっともっと、彼のことを知りたい。
わたしは、打算的だ。
告白ではなく、彼の劣情に訴えた。
だって、告白したってフラれるのは分かりきっている。でも、もし、彼と身体を重ねられれば、優しい彼は、わたしを遠ざけられなくなる。
偽りの関係だっていい。何度もしているうちに、きっと、そのうち本気でわたしのことを見てくれる。わたしは、彼の優しいところに付け込もうとしている。
でも。
現実は、わたしの打算が入り込む余地すらなかった。
「ごめん、好きな人がいるんだ」
……そっか。
分かっていた。
でも、それを聞くとやはり胸が痛いな。
ファーストキスをあげて、ちょっとくらいは好きになってくれるかなって思ったんだけれど。ダメだったみたいだ。
こうしてわたしの泡沫の夢は終わった。
次のバイトの日。
わたしは約束通り、ただのバイトの先輩にもどった。
ほどほど親切で、ほどほどじゃれたりするバイトの先輩。
デートの前より、何倍も大きくなってしまった気持ちを、心の奥底に押し込めて。わたしは後輩思いのバイトの先輩を演じる。
だけれど、彼にキスできたこと、そして……家に誘えたこと。断られてしまったけれど、少し前の自分では考えられないことだ。
彼は少しくらいは迷ってくれたんだろうか。わたしのこと、欲しいと思ってくれたのかな。
彼に出会って、男の子のことが、前よりも少しだけ怖くなくなった。そのせいか、わたしは、前よりもBLに興味がなくなってしまった。でも、彼には言わない。
高校を卒業して、大学生になった。
バイトもやめて、もう彼に会うこともなくなった。
そう。
彼の名は、神木 蓮。わたしの初恋の男の子。
きっと、今後、彼に『彼』という代名詞を使うことはなくなるのだろう。
これからは、『彼』を誰に使えばいいのかな。
わたしはメガネをコンタクトにかえた。
できるだけ、オシャレをして大学にいっている。
悔しいし、大学デビューだ。
そんなある日、大学の先輩に告白された。
彼は、メガネのわたしの方が可愛いといってくれた。オシャレをしていなくても、普通のわたしを好きと言ってくれる。
柔道をしていて、クマさんみたいに温かい彼。
少しずつでも、彼のことを好きになれるといいな。
※※※
なんとなく、新規で楓のエピソードを追加してみました。
あとまだ、予告していた追加分があります。
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