第12話

 思いは通じた……はず。だけど、黙ったままの英治を前にすると不安が込み上げてくる。


「森さん?」


 耐え切れなくなって名前を呼んだ。英治がビクリと身体を揺らす。


「いや、ごめん。ちょ、ちょっと待ってくれ」

「う、うん?」


 片手で口元を押さえ、もう片方の手を上げて華恋に答える英治。そんな英治の頬は微かに赤くなっている。


「これって、夢……じゃないよな?」


 ちらりと目線だけ華恋に向けて尋ねる英治。――――な、何その反応可愛い!

 英治の反応に内心悶えながら、華恋はわざと口を尖らせた。せっかく勇気を出したのになかったことにされたくはない。


「違いますよ。……えいっ」


 英治の頬に手を伸ばして遠慮なく横に引っ張った。


「い”っ」

「ほら、夢じゃないでしょう?」

「あ、ああ」


 頬に手をあて、どことなく嬉しそうな顔で頷く英治。英治の反応に思わず笑みがこみ上げてきた華恋。


「どうした?」

「んーたいしたことじゃないんですけど……森さんの色んな一面が見れて嬉しいなぁって思って。森さんって意外と可愛いんですねぇ」

「可愛い? いや可愛いのは俺じゃなくて渡辺さんだろ」


 首を傾げ、言い切る英治。思わぬ反撃にあい、華恋の顔が一気に真っ赤に染まった。


 ――――え? 今森さんが可愛いって言った?! 私に?!


 可愛いと言われることには慣れているはずなのに英治から言われた一言に自分でも驚くくらい動揺している。

 今まで英治の口から『可愛い』なんて単語を聞いたことは一度もなかった。むしろ、英治の辞書にはそんな言葉はないと思っていたくらいだ。


 ――――どうしよう。すごく嬉しい。嬉しいのに……心臓がドキドキしすぎて苦しい。


 胸元を手で押さえ、俯く。

 華恋がプチパニックに陥っている間に英治は冷静さを取り戻したらしい。左手首にしていた腕時計を確認して英治が立ち上がる。驚いて華恋は英治を見上げた。


「ど、どうしたんですか?」


 首の後ろを押さえ、何故か気まずげに視線を逸らす英治。


「いや……伝えようと思っていたことは伝えられたし今日はとりあえず帰ろうかな……と」

「え、もう帰っちゃうの?」


 慌てて立ち上がり、英治の上着を掴む華恋。英治の動きがピタリと止まった。華恋をじっと見つめ、溜息を吐く。


「渡辺さん、俺これでも我慢してるんだけど」

「我慢? なんの?」

「なんのって……」


 小首を傾げている華恋の頬に英治が手を伸ばす。無防備な華恋は警戒することなく英治の手を受け入れた。そのことに理不尽な苛立ちが込み上げてくる。


 英治の手が頬を伝い、指先が華恋の唇に触れる。その時ようやく華恋は理解した。


「っぁ」


 小さく声が漏れた。でも、抵抗はしない。心臓が破裂しそうなくらいドキドキしているし、今にも倒れてしまいそうだけど……嫌ではないから。むしろ、期待している自分がいる。


「いいの? するよ?」


 華恋はゆっくりと頷いた。

 英治は一瞬ためらうような気配を見せたが、空いている方の腕を華恋の身体に回し引き寄せた。ふわりと二人の匂いが混じりあう。心音が重なってどちらのものかわからない。


 大きな手に誘導され、華恋は顔を上げた。目と目があう。「あ」と思った時には英治の顔が近づいてきて、反射的に目を閉じた。二人の唇が重なる。


 英治の服を握る手に力が入った。唇が重なっていたのは一瞬か、十秒か、一分か……わからないけれど、この瞬間だけは時が止まっていたように感じた。


 最後にぎゅっと抱きしめられ、身体が離れる。

 頬がまだ熱い。ちらりと英治を見上げた。


 ――――キスってこんな感じなんだ。森さんは……慣れてるのかな。余裕そうに見えるけど……


 英治がおもむろに人差し指を鼻の上あたりに持っていく。そして、「あ」と声を漏らした。

 どうやら眼鏡をしている時の癖が出たらしい。気まずげに視線を逸らした英治を見て思わず華恋は笑ってしまった。


「そういえば、今日は眼鏡をしていないんですね?」


 今更だが気になってきた。


「ああ。この姿の方が都合がいいからな」

「?」

「健太の古参ファンなら俺のことを覚えている可能性が高いだろう? そうじゃなかったとしても俺のことは調べればすぐにわかるはず。健太と繋がりがある俺が渡辺さんと親密そうにしているのを見たらあいつらは勝手に解釈するだろう。そのまま噂を流してくれれば万々歳」

「ああ……なるほど」


 英治と華恋の関係を匂わせることで、健太との噂を塗り替える作戦だったのかと気づき、さすがだと頷く。


「なんか、すみません」

「何が?」

「森さんまで巻き込んじゃって」


 華恋の発言に英治の片眉がピクリと上がった。


「渡辺さんが謝る必要はないだろう。俺が自分から巻き込まれにいったんだから。……それとも、俺の気持ちは伝わらなかった? それならもう一回するけど」


 英治がもう一度華恋に向かって手を伸ばす。華恋は真っ赤な顔で慌ててその手を避けた。


「い、いえ結構ですっ!」

「その反応はそれはそれで傷つくけど。はあ。とにかく、また何かあったらすぐに俺に連絡して?」

「はい」

「迷惑とか考えないで良いから、すぐにね」

「わ、わかりました!」


 真顔で念を押され、華恋は何度も頷き返した。

 これで大丈夫。そう考えていた私達は浅はかだったらしい。


 ◇


 呼吸が苦しい。学生時代ならともかく社会人になってから運動する事がめっきり減ってしまった弊害だ。まさか、こんなに自分の体力が落ちていたとは。でも、走るのを止めることはできない。

 足を止めたが最後、何をされるのかわかったものじゃない。


 大通りに出て、路地裏に入りを繰り返す。もはやここがどこなのかよくわからない。とにかく後ろから迫ってくる足音から逃げるのに必死だった。


 けれど、残念ながら追手からは逃げきれなかった。しかも、逃げた先は行き止まりだ。


「はあ、はあ、はあ」

「はあっ。もう、逃げられないわよ」

「絶対逃がさないんだから」

「諦めなさい」


「わ、わかりました。でも、こほっ。んん。ちょ、ちょっと待ってください」


 そう言って片手を前に出して、呼吸を整える。華恋を追いかけてきた彼女達は眉間に皺を寄せながらも律儀に待ってくれていた。――――意外と話が通じる?


「ふぅっ。あの……皆さん、誤解していますよ」

「誤解?」


 三人組の真ん中にいるいかにもリーダーっぽいお色気お姉さん系女子が華恋を睨みつける。

 目力が凄くて内心怯えながらも華恋はコクコクと頷き返した。


「私は健太さんの奥さんじゃありません」

「は?」


 ドスのきいた声が返ってくる。両側の二人も華恋を睨みつける。――――わあ。迫力が三倍になった。

 華恋は両手を上げ、人好きのする笑顔を浮かべた。が、効果はなかったらしい。


「ですから、私は」

「あんたが健ちゃんの奥さんじゃないことなんかわかっているわよ」

「え? それならなんで」

「あんた、森ちゃんのなんなの?」

「へ?」


 まさかの名前に目を見開く。華恋の反応を見てどう思ったのか、女三人の顔がさらに険しくなる。


「とぼけないでくれる?」

「森ちゃんのなんなのかって聞いてるんだけど」

「耳ついてる?」


 ずいっと近寄ってくる三人に、華恋は一歩後ろに下がった。嫌な予感がする。


「あ、の、なんで森さんのこと」

「そりゃあ、私達は昔から森ちゃん推しだからよ」

「え」

「正しくは健ちゃん×森ちゃん推しだけどね」

「で? あんたはいったい森ちゃんのなんなの?」


 華恋の頭の中で警報が鳴り始めた。――――これはまずいかもしれない。

 後ろ手にバレないようこっそりとショルダーバッグの中に手をつっこむ。


「わ、私は……」


 ――――なんて答えたらいいんだろう。この展開は予想していなかった。……っていうか、実際私と森さんの関係ってどうなんだろう。気持ちは伝えあったけど付き合っているかどうかと言われたら……。


 黙り込んだ華恋に女三人の不機嫌指数はさらに上がっていく。

 何か答えないといけないと思いつつも適切な言葉は出てこない。華恋は必死に手を動かした。でも、残念ながらその隙を見逃してくれるような三人ではなかった。


「何をしているの?」

「きゃっ!」


 力強く腕を引かれ、小柄な華恋はそのまま地面の上に転んだ。手元にあったスマホは勢いで飛んでしまった。

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