第2話
昔、恋愛に全く関心がない私を心配して母が強引に少女漫画を勧めてきたことがあった。その漫画には朝チュン……所謂男女が一夜をともにしたことを匂わすシーンがあったのだが……母はそのシーンを「キュンキュンするわよね!」と絶賛していた。
でも、思春期真っ只中だったはずの私はそれを見ても特に何がいいのかわからなかった。目を輝かせて己の恋愛観を語る母に本音を口にする勇気は私にはなくて、あの時は黙って読み進めたフリをしていたが……アレはある意味苦行だったと思う。
あれから数年。成人して社会人になった私は今。まさしく朝チュンなるものに遭遇していた。
目が覚めて一番始めに視界に入ってきたのは男の人の胸筋。そして、感じる頭の下にある腕と、包み込むように背中に回されたもう片方の腕。
華恋は生まれて初めてのシチュエーションに混乱した。
――――お、おおおおおおお落ち着くんだ自分。冷静に、冷静に。まず、この腕から抜け出してそれから、それからっ
考える事が多すぎてパニックだ。その時、
「んっ」
と、低めの声が頭上から聞こえてきた。ビクリ、と身体が反応する。じっと固まっていると、
「んー」
と唸り声が聞こえ、身体を包み込んでいた方の腕が外れた。――――今だ!
華恋はすばやく上半身を起こし、ベッドから転がり落ちるようにして男の腕から逃げる。シングルベッドの上には片腕を伸ばしたまま仰向けで寝ている男が一人。長い前髪はセンターでわかれていておでこがしっかり出ている。おかげで顔がよく見えた。
その顔を恐る恐る覗き込んで……華恋は思い出した。
「そうだ……私、昨日森さんと……」
昨晩、質の悪いナンパ男に捕まった華恋は偶然居合わせた英治に助けてもらったのだ。相手が会社の先輩、それも普段から色恋沙汰に興味がなさそうな英治だということもあり、華恋はすっかり警戒心を解いた。社内でも、英治は仕事はできるが無愛想でとっつきにくいと有名だ。でも、華恋にとって英治は他の男性社員に比べて変に気を遣わなくていいから接しやすいと感じていた。だからこそ、華恋の口からあんな言葉がするりと出たのだろう。
「森さん。今暇ですか?」
「え? あーまあ。後は帰るだけなんで」
英治は目を瞬かせコクリと頷く。華恋はそれはちょうどよかったと頷き返した。
「それなら、ちょっとだけ一緒に飲みません?」
「え? 俺と?」
「他に誰がいるっていうんですか?」
いらぬ邪魔が入ってしまったが、華恋は本来の目的を忘れてはいなかった。むしろ、お酒を飲みたいという欲求は高まっている。でも、これ以上一人で飲んでも酔える気はしなかった。それなら英治を巻き込んでしまえという目論見だ。英治も同じ会社勤めなのだから、明日は休み。用事があるようには……見えない(失礼)。
絶対に逃がさないという華恋の強い視線に、英治は一瞬たじろいだ後諦めたようにゆっくりと頷き返した。
「よし! そうと決まれば行きましょう」
二人で飲むのならコンビニではなくて、近くの居酒屋(飲み放題)がベストだ。ついでに愚痴も聞いてもらおうなんて下心もある。念願の酒にありついた華恋は思う存分飲み、推しへの愛と悲しみを英治に語った。わりと最初の方から泣いてしまった気がする。それもこれも英治が聞き上手なのが悪い。……なんて、脳内で勝手に責任転嫁しているが、単純に英治が無口なことをいいことに華恋が好き放題喋り倒しただけだ。
そして、その結果……華恋は酔いつぶれた。元々そのつもりだったとはいえ、さすがに自力で家に帰れるように調節するつもりだった。それなのに、あっさりと英治の前でつぶれてしまった。会社の飲み会では一度もそんな醜態をさらしたことはなかったのに。……森さんなら誰にも言わないでおいてくれるだろう、という安心感があったのだろう。
居酒屋に行くまでの流れは覚えていた。でも、酔いつぶれた後の記憶がない。華恋はおそるおそる自分の身体を見た。服は昨晩と変わらない。上着は脱いでしまっているが、他はそのままだ。そのことにまず一安心。ただ、じゃっかん乱れているような気がしないでもないが……寝相があまりよくない自分にとってはさもありなん。それに、変な倦怠感や痛みもない。一応上の服をひっぱって上から中を覗いた。特に何も変化は無い。ホッと息を漏らした。
安堵と同時に罪悪感と不安が押し寄せて来る。
いったいどこまで醜態をさらしてしまったのだろうか。居酒屋で管を巻いたところまでは何となく覚えている。自分語りに夢中になっていて英治がどんな顔をしていたのか覚えていない。でも、多分、相当ダル絡みをしていたと思う。
想像しただけでげっそりした。――――とんでもない迷惑をかけてしまった。
深い溜息を吐いてから室内を見回す。シンプルで最低限の物しかおいていない英治らしい部屋だ。その部屋にあるシングルベッドにさっきまで華恋もお邪魔していた。何もなかったとはいえ、英治に抱きしめられていたという事実は存在する。そのことを自覚すると胸の奥がソワソワした。ちらちらと英治に視線を送る。
普段猫背のせいで気づかなかったが、こうして見ると英治は大きい。平均的なシングルベッドだと小さく感じる。昨晩の英治が頭に浮かぶ。――――私、毎日のように一緒に働いているのに、何も森さんのことしらなかったんだな。
普段の英治と昨晩の英治は正反対なくらいイメージが違った。目力があんなに強いことも知らなかったし、こんなに筋肉質なこともしらなかった。
「この腕に抱かれていたのか」
じっくり観察していたせいかそんな言葉が華恋の口から漏れた。自分の言葉に驚き、顔が真っ赤になる。反芻して、別の意味に聞こえてしまうことに気づいたのだ。いったい一人で何を考えているのだろう。
自分に呆れながらも、昨晩思う存分己のモヤモヤを吐き出したからか自分の気持ちがすっきりしていることに気づいた。
華恋は窓から差し込む光につられて外に視線を向けた。――――いい天気だ。
推しは今頃、自宅で奥さんと一緒に幸せな朝を過ごしているのだろうか。そうだと、いいな。推しの幸せが私の幸せ。そう、思える余裕が今はある。
まだ、全然吹っ切れてはいないけど、穏やかに朝を向かえることができたのはいい傾向だ。きっとこうやって日常を過ごしているうちにこの気持ちは昇華されていく……はず。
「ん、渡辺さん?」
名前を呼ばれて振り向いた。上半身を起こして、片目をこする英治と目が合った。反射的に華恋は英治に向かって土下座した。
「大変っ申し訳ありませんでしたー!!!!!!」
「えっ、ちょっ朝からうるさっ」
二日酔いのせいか、単純に華恋の声が大きすぎたのか、英治が不快そうに顔を顰める。その顔を見てさらに華恋は慌てた。
「私が無理矢理飲ませたせいですね?! すみません。今からコンビニに行ってきます。二日酔いによく効くやつが」
「いやいや。大丈夫だから落ち着いて。俺はあんまり飲んでないから」
「あ、そうですか。はい」
ベッドの下で正座をしてしゅんっとなる華恋。英治はサイドテーブルに置いてあった眼鏡をかけると、改めて華恋に視線を向けた。
「それで、渡辺さんの方こそ二日酔いは大丈夫?」
「はい……私、いくら飲んでも大丈夫なタイプなんで」
「ザル……あー……それなら、よかった。なら、とりあえずお風呂入っておいでよ」
「え?」
固まる華恋。英治はどうしたのかと首を傾げる。一瞬の沈黙の後、英治の顔が真っ赤に染まった。
「ち、違う! そういう意味じゃない! 昨日そのままで寝たから気持ち悪いかと思っただけで」
「あ、そいういう……そうですよね(森さんだし)」
「そう、それだけだから。コホン。はい。じゃあ、着替えはこれね。いらないやつだからそのまま着て帰って。脱いだ服はこの袋に」
テキパキと指示され、華恋は驚きながら着替えと袋を受け取った。英治に促されるまま洗面所に入る。英治は一通り浴室の使い方の説明をすると出て行った。
数分間呆然としていた華恋だったが、我に返った後はありがたくシャワーを借りた。
さっぱりした後、華恋は渡された服を取り出す。
「……森さんて彼女いたんだ」
ちょっと大きめのサイズだが明らかな女性物。カジュアルだがとてもセンスがいい。あまり袖を通していないのだろう。新品と変わらないように見える。ちなみに……さすがに下着は入っていなかったのでまた同じ物を着た。こうなってくると下着も新しいのに変えたいが我儘は言えない。
「いや、いらないやつって言ってたから元カノの物かな」
華恋を泊まらせたってことはそういうことなのだろう。彼女がいても泊まらせる人はいるかもしれないが、英治はそういうタイプには見えない。……というか、まず誰かと付き合っているところを想像できない……。
――――いや、昨日の森さんならありえるか。
昨晩の英治はワイルドなイケメンという感じだった。あの感じで出社すれば、女性社員達からの視線を一気にかっさらうだろうに。むしろ、それが嫌なのか……もしそうなら……と変な仲間意識を発動させる。
それに、いつもの英治の方が華恋としては接しやすい。この話題は今後もしないようにしようと心に誓った。
洗面所を出た華恋。キッチンに立っている英治に気づく。同じタイミングで英治も華恋に気づいた。
「渡辺さんご飯食べてく?」
「いただきます」
考えるよりも先に華恋は反射的に答えていた。
――――朝食付きとか最高かよ。
こうして華恋は母が知ったら喜びそうな『初めてのお泊り・初めての朝チュン・初めての朝シャワー』体験をしたのだった。
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