初めてのリアルな恋
黒木メイ
第1話
私の両親……特に乙女思考が強い母が考えそうなことだ。
だが、残念ながら母の期待を裏切り、私は二十年経った今も恋愛未経験者だ。一応言っておくが、まったくモテなかったわけじゃない。むしろ、学生時代はそれなりにモテていたと思う。ただ……ピンとくる相手がいなかっただけだ。
そんな私が初めて特別な感情を抱いたのは……某アイドルだった。彼がデビューした時からだから……ファン歴は八年くらい? 後二年経てば十周年。きっと、その時は盛大なイベントがあるはず。その日だけは絶対に仕事を休もう。なんて、今から計画を立てていた……それなのに
「嘘でしょ」
テレビの前で呆然と呟く。今日は平日だ。普通に仕事がある日。早く家を出ないといけないとわかっているのに、私はテレビの前から動くことができなかった。
テレビには私の推しが映っている。掲げた左手の薬指に光る指輪。嫌でも目に入ってくる『人気アイドル電撃入籍&来月卒業』という大きなテロップ。キャスターが何かしゃべっているが耳に入ってこない。足元がぐらぐらしていて、現実味がない。
結局、私は会社から電話がかかってくるまでテレビの前で立ち尽くしていた。
電話をかけてきたのは部長。何を話したかはよく覚えていないが、私の様子がおかしいことにすぐ気づいたらしく、有給にしてくれた。……優しさ……というよりは、今の私では使い物にならないと思われたのだろう。
我に返った後に自己嫌悪に陥ったが、それでも今更仕事に出る気にはなれなかった。それくらい、私は推しの発表に絶望していたのだ。もちろん……推しが結婚するというのもショックだが、それよりも卒業するということがショックだった。来月に卒業なんて早すぎる。
『推しは推せる時に推せ』という言葉を教訓に今まで全力で推してきたつもりだが、それでも全然足りない。まだまだこの先もずっと推し続けていくつもりだった。それなのにっ。
現実が受け入れられず、私はこの日涙も流すことなくただぼうっとして一日過ごした。
へこんだのはその一日だけ。次の日には復活し、いつも通り仕事に行った。吹っ切れたわけではない。卒業までの一ヶ月間を全力で推すと心に誓っただけだ。たった一ヶ月しかないのだ。泣いている暇なんてない。時間は有限。今、やれることをしないでどうする。
仕事をして、稼いで、貢げるだけ貢ぐ。
後に職場の人から聞いた話だが、この期間中の私は鬼気迫る勢いだったらしい。
どうりで、誰からも話しかけられなかったはずだ。おかげで、仕事がはかどった。
そして、ついにその日がやって来た。
有給をとって、テレビの前に座りその時を待つ。テーブルの上にはケーキと酒がセッティングされている。一応卒業祝いという名目で用意したが、本音は……『飲まないとやってられない』だ。
ラストライブが始まった。
テレビに映る推しは、今まで見てきた中で一番光り輝いていた。ライブはあっという間に終わり、最後の言葉……推しの言葉に全身全霊で耳を傾ける。
少し寂しそうな表情に、感謝の言葉。そして、改めてファンに向けての結婚報告。
その顔は、文句のつけようもない程、多幸感で溢れていた。
「よかった。よかったねぇ」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。頬を涙の筋が何本も流れていく。
どうせ、誰も見ていないからいいのだ。そんな暇があるなら最後のその瞬間までしっかり推しを目に焼き付けたい。もちろん、録画はしているが、LIVEで見れるのはこの瞬間だけだ。
推しは最後の最後まで推しとして、光り輝いていた。
ライブが終わり、別番組が始まる。けれど、私はテレビの前で泣きじゃくったままだった。今までで一番泣いたんじゃないかってくらいに涙が出た。幸いなことに明日は休日だ。目が腫れたって支障はない。存分に泣きまくって、水分補給代わりに酒を飲みまくった。
気づけば、買ってきていた酒はすっからかんになっていた。……足りない。
「……買いに行くか」
こんなもんじゃ足りない。酔って気絶するように眠りについてしまいたかったのに、眠気はいっこうにやってこない。仕方なく、コートを羽織って外に出た。コンビニまで家から歩いて五分。火照った身体に冷たい空気が気持ちいい。空を見上げながら夜道を歩いた。
ちなみに……だが、普段深夜に一人で出歩くことはまずない。治安があまりいいとはいえないからだ。でも、この時の私は酒に酔って危機管理能力が完全に低下していた。
「おねえさん~どこ行くの?」
突然現れた男にいきなり肩を抱かれ、顔を覗かれる。反対側から覗き込んでくるもう一人の男。ニヤニヤ笑う若い男二人組。思わず眉根を寄せると、返事を待たずに男の一人が顔を近づけてクンクンと嗅いだ。
「あ、おねえさん。お酒飲んでるでしょ。もしかして、まだ飲み足りない感じ?」
「お、なら俺らと飲みなおそうよ~奢るからさ~」
「結構です!」
抵抗しようと身体を捻ったが、酔っぱらった身体では上手く力が入らない。むしろ、男から強引に引き寄せられた。
「んぐっ」
顔が男の胸板にぶつかる。
「おっ。でっか!」
「まじっ?!」
男の胸に当たったのは顔だけではない。華恋にとってのコンプレックス。体格のわりに大きな胸も当たってしまったのだ。喜びの声を上げる男達に一気に嫌悪感が込み上げた。
「離してっ!」
先程よりも強く抵抗をする。けれど、男達は絶対に逃がすつもりはないと華恋を囲い込もうとする。
「まあまあ、大丈夫。俺達優しいから」
「そうそう。美人には優しいの」
――――全く大丈夫じゃない!
逃げたいのに逃げられない。悔しくて涙が込み上げてきた。
安易にこんな時間に一人で出歩いてしまったことを悔やんだ。
推しの結婚、卒業、それだけでもこの世の終わりのような気分になっていたのに、泣きっ面に蜂だ。
……なんだかもうどうでもいいか。という気がしてきた。
自暴自棄になっていると、
「いって!」
男が悲鳴をあげ、華恋から離れた。驚いて顔を上げると、目の前には大きな背中があった。ナンパ男達が顔を青褪めさせ逃げて行く。
男達の姿が完全に見えなくなると、目の前に立っていた人が振り向いた。華恋はぽかんとした顔で見上げる。
百八十以上ありそうな背丈に、センターパートされた黒髪から覗く男らしい太眉と目力のあるつり目。スーツ姿も相まって全体的に迫力がある。小柄で柔らかい雰囲気を持つ華恋とは対照的だ。
「大丈夫? 渡辺さん」
「はい。大丈夫で……え? なんで私の名前」
見知らぬ男から名前を呼ばれ驚く華恋。男は目を瞬かせ、「ああ」と呟いた。そして、おもむろに髪の毛をくしゃくしゃとかき乱し、セカンドバックから黒ぶち眼鏡を取り出す。
「これならわかる?」
「も、森さん?!」
ぴんっと伸びていた背筋を猫背にし、長めの前髪と眼鏡で顔上部分を隠しただけで一気に野暮ったい印象になった。先程まで似合っていたはずのスーツが浮いて見える。でも、その容姿や雰囲気に華恋は覚えがあった。
そう、人生最悪の日に華恋を救ってくれたのは、同じ職場で働く華恋の二個上の先輩
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