第3話

 推しが卒業してから早一週間。今日も今日とて、私は仕事に明け暮れていた。ただ、意外なことに卒業前の一週間に比べると卒業後の方が精神は安定しているような気がする。絶望感を抱えて眠れない毎日が続くだろうと覚悟していただけにちょっと複雑な気持ちだ。


 決して、推しへの気持ちが薄まったわけではないと思う。今でも推しは私にとって特別な存在だ。卒業後から推しの映像やグッズを見れないでいるくらいには現実逃避している。でも……毎日夜は眠れているし、朝は起きてちゃんとご飯を食べて仕事にも行っている。普通に生活ができてはいるのだ。

 ――――結局、私の想いってその程度だったのかな。

 なんて、ちょっと自分でも重いなと思うようなことを考えて、自己嫌悪に陥ったりもした。


「華恋ちゃん。最近頑張りすぎじゃない? 大丈夫?」


 そう声をかけてきたのは、私が所属している総務部の直属の上司、八木やぎ課長だ。八木課長は森さんと同期のはずだが、すでに役職を持っている。正直私にはどうして八木さんが課長になったのかわからないのだが、それだけ優秀ということなのだろう。多分。

 肩書持ちで社交性も高い、雰囲気イケメンと名高い八木課長は女性社員の人気を集めているうちの一人だ。ただ……


「俺で良ければ話聞くよ。俺、そういうの得意だからさ。遠慮しないで言ってよ」

「あ、はい。でも、大丈夫です。ありがとうございます」


 頭を下げて肩に乗っていた八木課長の手から逃れる。そして、そそくさとその場から逃げた。後ろから「そんなに気を遣わないでいいのに〜」なんて見当違いな言葉が聞こえてきたが、聞こえないフリをする。

 八木課長が悪い人でないことは知っている。いい上司だとも思う。

 でも、どうも苦手なのだ。はっきり言ってしまえば生理的に無理……というやつである。

 それに、八木課長は自分のことを聞き上手だと思っているようだがそれは多分違う。確かに話し上手ではあるし、盛り上げ上手でもある。中身のない会話ならいいと思う。でも、これが本気のお悩み相談となると全く役に立たない。

 こちらが求めている解答とは全く違う、斜め上の回答ばかりが返ってくるのだ。しかも、そのことに本人は全く気づいていない。


 だから、そのことを知っている同じ部署の人達は決して八木課長に相談したりしない。相談がある時は八木課長を飛ばして村上部長にこっそりと相談するのだ。

 加えて、華恋には八木を避ける別の理由もあった。


 ――――何度もデートの誘い断ってるのに……まだ諦めてくれてないのかなあ。


 そっと溜息を吐き出し、自分の席に座る。無心で事務作業にとりかかろうとした。その時、横からさっと書類が差し出された。驚いて顔を向けると隣の席の英治と目があった。眼鏡のレンズ越しに見える切れ長のつり目と。


「チェックお願いします」

「あ……はいっ」


 我に返って慌てて書類を受け取る。すぐに英治の視線が外れた。その瞬間、呼吸の仕方を思い出した。何故か心臓の音がいつもより激しく感じる。華恋は己の胸に手を当てて一度首を捻ってから書類チェックにとりかかった。



 ◆



「ねえ。特定の人を見ると思考が停止したり、心拍数が乱れたりするのって何の病気だと思う?」


 高校時代からの友人、鈴木すずき 麻友まゆに久しぶりに会って聞いてみた。ちょっとした雑談のついでのつもりだった。

 ところが、麻友は華恋の問いに対して目を見開き固まってしまった。焼き鳥を食べている途中だったので、口から竹串が生えたままだ。美容系の会社に勤めているだけあっていつも隙の無い麻友だが、今は隙だらけだ。

 華恋が珍しいと驚いていると、麻友がおもむろに竹串を皿に戻して華恋にグイッと顔を寄せた。その顔はいつになく真剣だ。つられて華恋も同じように真顔になる。


「その特定の人っていうのは男?」

「うん」

「その人に何か嫌なことをされた?」

「ううん。むしろ助けてもらった」

「そう。……もしかして、その症状はその日以降おきてるんじゃない?」

「……そうかも」


 言われて見れば、そんな気もする。


「それってつまり」

「つまり?」

「恋じゃない?」

「は?」


 華恋は目を丸くして固まった。コイ? 濃い? 請い?

 華恋がクエスチョンマークを飛ばしまくっているのに気づいた麻友が面白そうにフフッと笑う。頬杖をついて華恋をじっと見つめた。


「そっか。とうとう華恋も初恋かー」

「違うよ。私の初恋はもうとっくに終わってるし」

「あーそれねー……今だから言っちゃうけど、違うと思うよ」

「え? 違う?」

「そう。華恋にとってけんちゃんは確かに特別な存在だったとは思うけど……恋愛感情とは違っていたと思うよ?」

「そんなことないよ。だって、私卒業するの知ってめちゃくちゃショックだったんだよ」


 ムッと怒った顔になる華恋。それに対して麻友は「うーん」と言葉を選びながら、カクテルを飲み干して氷だけが残ったグラスを回す。


「それもさー。ショックだったのは『結婚』に対してではなく『卒業』に対してなんでしょ?」

「それは……」

「考えてみて? もし、健ちゃんがしたのが結婚報告だけだったらどう?」


 想像してみる。推しが結婚して、仕事は今後も続けていく世界線を。


「そうしたら、今度は健ちゃん家族を箱推しすると思う」


 幼い頃に父親を事故で無くし、それから母親が一人で健ちゃんを育ててきた。そんな背景を私達ファンは知っている。同時に、彼が昔から早く自分の家庭を持ちたいと言っていたことも。だからか、健ちゃんが結婚したことに対して祝う気持ちはあっても嫌だという気持ちは全くない。それどころか、もし二人の間に子供ができようものなら親戚のおばちゃん並に喜ぶ自信もある。

 そこまで想像して華恋は我に返った。確かに……これは恋とは違うのかもしれないな……と今更気づいた。

 その気づきを肯定するように麻友が告げる。


「もし、本気で健ちゃんに恋をしていたとしたらすぐにはその考えはでてこないと思うよ。少なからず受け入れられなくてショックを受けるものだと思う。……まあ、人にもよるかもだけど。とりあえず、私から見た華恋は本気で恋をしているようには見えなかった」

「そう、だったんだ……」

「うん。で?」


 麻友がその先を促そうとする。華恋は何のことかわからずたじろいだ。


「その麻友の初恋の相手ってどんな人なの?」

「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでそこから初恋に繋がるの?!」

「だって、その相手を見ていると思考が奪われて、ドキドキしちゃうんでしょ? それって恋だと思うけど」


 麻友に言われて頭が混乱する。――――恋? え? 私が森さんに?!


「な、なんで?」

「いや、それを聞きたいのは私なんだけど」


 冷静に返されて黙る。それはそうだ。


「そうなるきっかけがあったんでしょ? さっき言ってなかった? 助けられたとかなんとか」

「それは……言ったけど」


 あの日のことがフラッシュバックする。森さんのギャップと温もり。生々しい記憶が蘇り、顔が一気にポポポと熱くなった。それを見て麻友がニヤニヤと笑う。


「ふーん。あったんだ」

「ち、ちがっ!」


 何もなかった。麻友が期待しているだろうことは何もなかった。でも、華恋からしてみれば何もなかったとは言えない気もする。いや、でも多分何もなかった。

 なんと説明していいのかわからないこの不思議な気持ち。

 困惑している華恋に、麻友は優しく声をかけた。


「まあ、いいんじゃない」

「な、何が?」

「推しの卒業で空いた穴をリアルの男他の男で埋めるの、私はありだと思うよ」

「そ、そんなの失礼だよ!」

「別にいいでしょ。二股かけてるわけでもないし。そもそも、華恋は恋愛というか異性に対して鉄壁すぎるの。そんな深く考えずに、とりあえず私を相手にするみたいにその人と食事にでも行ってくれば?」

「食事……」


 ちょうどこの前泊めてもらったお礼に何かしたいと考えていたことを思い出す。恋云々はおいといて食事をおごるのはいいアイデアな気がする。

 華恋はコクリと頷いた。

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