18
賽銭を入れ終わり、配られた甘酒を飲んで、胡桃沢は満足したらしかった。夕也はとにかく早く帰りたそうだ。普段は何を考えているかまるでわからないのに、胡桃沢を挟むだけでここまで露骨になるのかと思えば少し面白い。
「凪ー、ほかにどっか行く?」
胡桃沢は何気ない風に、わかりやすく提案してきた。
兄貴がいるのダルいなら撒く? という意味だとはすぐに理解した。
でも夕也が割り込んできた。
「もう帰ろう、凪」
おれの上着を掴みながら言ってくる。舌打ちが無意識に出た。胡桃沢はおれと夕也を見比べながら抑える気もなさそうな笑い声を漏らした。
「お兄さん、私の噂のことがあるから、弟くんが心配とか?」
茶化された夕也は隠す様子もなく肯定する。
「全部が全部噂の通りだとは思わないが、……今日と……この間家に来た時と、胡桃沢さんの振る舞いを見て、あまりいい印象はない」
「いい印象ある方がヤベーから!」
胡桃沢は笑い、おれの腕をグッと引く。よろけて胡桃沢側に寄れば、夕也も更に引っ張ってきた。
両側から取り合いされる構図になって普通に気持ち悪かった。
「お前らどっちもキモいよ」
口にもそのまま出た。両方を振り払い、交互に見るけど、おれは胡桃沢のそばに寄る。
「胡桃沢と福袋でも見に行ってくる。お前は帰ってろよ、夕也」
はっきり告げると不意を突かれたような顔をされた。引き下がられると面倒で、胡桃沢の手首を掴んで走り出す。鼻緒脱げる! と焦った声が後ろから飛ぶが無視した。雑踏の中に無理やり入って、一気に境内の外へと出て行った。
「はあー……おい凪、いまそんなにおにーさんと仲やべーの?」
神社から離れたところで胡桃沢が聞いた。夕也がついてきていないと確認してから、かなり気まずい、と正直に答えた。溜め息混じりの笑い声が聞こえてきた。
突然ではあったけど、胡桃沢が家に来て安堵した部分がある。夕也と二人きりがとにかく気詰まりだ。蒼姉さんのことがあって手を上げにくくなったおれは、夕也をどうしておけばいいのかわからなくなっている。
殴ろうとしても止まる。思い出す。
夕也はおれを透兄さんの代わりだと思っているんじゃないだろうかって、考える。
無言でいると背中を叩かれた。呆れた顔の胡桃沢は、視線を合わせると再び叩いてきた。
「痛い、やめろ」
「じゃあそんな辛気臭えツラすんなよ、あーほんと、まともに話し合う気ないならさっさと離れて住めばいいのに」
「そういうわけにもいかない、……いやでも、おれの甘いところだとは、思ってる」
胡桃沢は舌打ちをしてから乱れた着物の裾を掌でさっと払う。
「甘い甘い、私から見ると辛気臭いし堂々巡りでめんどくせーって感想だしな」
「わかってるよ、うるさいな……」
「まーでも凪の言い分もわからなくはないんだよ、あの家にいれば生活のことは兄さんがしてくれるわけだしな。飛び出して無理やり一人暮らしってなるとまともに放火犯も探せないわけで……」
不自然に言葉が切れた。何かと思って聞き返すと、放火犯、と単語を繰り返される。
「放火犯が、なんだ?」
「いや、何時に帰るかは知らねーけど、今から結構時間あるじゃん?」
「ああ、夜までいけるけど」
「私の家来れば?」
胡桃沢はにっと笑い、
「まだチェックできてない新聞記事、二人で手分けして読む方が早くね?」
そう続けた。
断る理由はなかった。二つ返事で了承して、おれは胡桃沢に案内されながら進んだことのない道を歩き始めた。
胡桃沢の家にはもちろん行ったことがなかった。祖父の溜め込んだ新聞というワードだけで、そう狭い家ではないのだろうとは思っていた。
実際に訪れてみて若干気が引けた。広い庭に大きな母屋と離れがあって、どう見ても立派な門構えがおれの目の前に現れていた。
家は夕方前の景色の中で、妙な存在感を持っていた。
「親いるけど気にしなくていいぜ!」
胡桃沢は軽く言ってさっさと玄関を開け放つ。ただいまー、と大きな声で呼び掛けると、おかえりーと返事がすぐに返って来た。女性の声だった。母親かと思い挨拶をしかけるがそういうのはいいと止められた。
「かあさーん、友達連れて来てるから邪魔すんなよー!」
明け透けな頼みには「はいはーい」と軽い了承が返る。胡桃沢は戸惑うおれを促して、廊下の奥にある階段を指し示した。
階段を登る前にちらりとリビングに続く扉を見た。微かなテレビの音と、食器を置いたような音が聞こえていた。一瞬、ほんの一瞬だけ幼児の頃の頭に戻った。扉の向こうにはなんの問題もない両親と、賢くて優しい透兄さんが、何事もなかったようにそこにいるんじゃないかと錯覚しかけた。
そんなわけないだろう。おれを引き戻した幻聴は夕也の声だった。
透兄さんの声の色がもう思い出せないのだとおれは悟った。
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