15

 席は店内の一番奥だった。姉さんが選んだらしく、隣には人がいない。つい姉さんの対面に腰を下ろしてから、しまったと思い隣へ向かいかけたが、それよりも先に夕也がおれの横に座った。

 無言で睨んでいる間に、初老の物静かな店長がおれと夕也の水を運んできた。ついでに聞かれた注文にはおれが答える前に夕也がハムサンドとコーヒーとミックスジュースを頼んだ。

「おれもコーヒーの方が」

 別にミックスジュースでいいが不平を述べると、お前はカフェインをとらなくていいと真顔で返された。

 おれが怒りを口にする前に、蒼姉さんが笑い声を漏らした。

「凪、夕也さんと仲良くやってるのね」

「いや……どこ見てそう思ったの……?」

「夕也さん、凪のことお願いします」

 蒼姉さんはさっと頭を下げる。反論や否定したい部分ばかりだったが、今の姉さんを不安にさせる方がありえない。

 だから黙っていた。夕也も無言で頷いて、ジュースやサンドイッチが届いてから、姉さんを真っ直ぐに見た。

「蒼。詳細を聞いても、大丈夫か?」

 姉さんは一瞬言い淀んだが、手元のミルクティーを一口飲んでから、話し始めた。

 旦那からの暴力は突然だったらしい。おれも一度は会った覚えがあるが、穏やかでおとなしい雰囲気の、悪く言うならば頼りなく見える男性だった。だから暴力を振るうようになったと聞いて驚きが強かった。

 そいつは蒼姉さんが妊娠して、仕事を辞めてから横柄になった。赤ん坊が生まれた後はろくに育児に参加せず、なにかと蒼姉さんを蔑む態度を見せたらしい。ここまで聞いて本当に苛ついた。つい手に力が入っていたが、俯き加減の姉さんと牽制するように腕を叩いてきた夕也によって、怒りはとりあえず抑えられた。

 スーパーで出会した時の、蒼姉さんの様子を思い出す。あの時の彼女は疲れた様子だった。夜泣きが酷くて旦那と交代しつつ見ていると言っていた記憶があるが、どうもおれを気遣っての嘘だったようだ。

「叩くようになってからのあの人、まともに私の話を聞かなくなったのよ」

 姉さんは疲れたように呟いた。

「もう話し合いなんてできないって判断して、今は親のところに避難してるの。スマートフォンを解約して、遠くの県に逃げるつもり。元々資格職だったから働き口はどうにかなるし……子供には窮屈な思いさせちゃうかもしれないけどね」

 姉さんの視線がおれを捉える。母親との二人暮らしだった期間が脳裏を過ぎり、なんて言えば良いのか迷ってしまった。あの期間はまだ、母親とも多少は話をしていた。仕事で帰りの遅い日が多かったし寂しい日も当然あったが、それは、でも。

 隣を見たのは無意識だった。夕也は姉さんをじっと見つめたまま口を開いた。

「俺たちがギリギリでも行ける範囲にしてくれれば、いくらでも援助に行くぞ」

 裏も表も感じない言葉だった。おれも驚いたが、姉さんもじわじわと動揺し始めた。

「ゆ、夕也さん、気持ちは嬉しいけど……」

「俺は今は凪の兄になってる。凪の従姉妹の蒼とも、それなりに繋がりがあると思うし、単純に心配だ。俺もだが、もちろん凪も、そうだと思う。こいつはまだ高校生だから援助に難しい部分があって歯痒いだろうけど、俺の方は何の問題もなく手を貸せるんだ。困っているなら、頼ればいい」

 姉さんは返す言葉に迷ったらしく、所在なさそうに視線を彷徨かせた。

 当然の素振りだ。おれは反射的に身を乗り出していた。

「姉さん、夕也の言う通りだよ。おれは何もできないかもしれないけど、でも、もし姉さんの旦那が探しに来たって絶対本当のことは言わないし……できることなら何でもする。火事の後、色々してくれたこととか、おれ覚えてる。頼りにならないけど、頼って欲しい」

 光るものが見えた。姉さんが卓上に落とした涙だと遅れて気づいた。旦那が横柄になって辛かった。絞められた首がずっと痛いし、子供に怒鳴る姿が怖かった。人って急に変わる。裏で何考えてるか、一緒に暮らしていても少しもわからなかった。見えてる世界がどんどん崩れてとにかく虚しくなってしまった。

 そう話しながら姉さんは一粒ずつ涙を溢した。おれと夕也は黙ってそれを、落ち着くまで見届けた。

「二人とも、ありがとう。……お言葉に甘えさせてもらおうかな、いい?」

 当然オーケーだった。姉さんは涙を掌で拭い、明るい笑みを浮かべてくれた。

 ほっとした。夕也はすっかり冷めたコーヒーを啜りおれはサンドイッチを勝手に一つ食べた。なかなか美味かった。夕也がもう片方を手に取りながらこちらを一瞥したが放置した。

 泣き止んだ姉さんはおれと夕也を交互に見てから、おれの方で止めた。

「凪、前に会った時も思ったけど……」

「ん、何?」

「ううん、そうやって夕也さんと並んでると透兄さんがいた頃を思い出すというか……あなたの顔立ちって、本当に兄さんに似てるのね」

 姉さんは悪気なく、単純な世間話という様子で微笑んだ。

 おれが固まり、夕也がわずかに顎を引いたことには、幸い気が付かずにいてくれた。

 

 蒼姉さんはこれからのことやおれたちに会えて良かったという話をしてから、子供の待つ実家へと帰っていった。バス停までは送り届けたが、それ以上は申し訳ないと言われ、立ち去る姿をバスごと見送った。

 おれも夕也も二人きりになった瞬間なにも話さなくなった。

 寒々しいバス停の上はじっとりと暗い夕暮れだった。

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