11

「凪、お前が火事についてどうしても調べたいのはもうわかった。だから協力するが、その代わりに頼みがある」

 もったいつける口振りだった。なんだよと思いつつ聞き返すと、夕也は薄く笑みを浮かべた。

 ぎくりとした瞬間に、

「殴るの、我慢してるだろ」

 そう言われて思考が追い付かなくなった。

 おれの様子に構わず夕也はそばに膝をつく。椅子に座るおれを見上げる形になって、まるで主人に乞い願う従者のような構図だった。

 この上なく気味が悪いがおれの肉体は正直で、膝に置いていた手は自然と握り拳になっていた。それと同時に腹が立って憎い気持ちよりも、なんだこいつは、という困惑の方が強かった。

 でも関係なかった。

「凪?」

 呼ばれた途端に自分の足が勝手に上がった。膝蹴りはまともに夕也の喉元にめり込んだ。咳き込みながらカーペットの上に倒れる姿を見下ろして、おれは息を吸い込み、止めた。

 ふっと後ろへ振った右足でうずくまる夕也の脇腹を蹴り付けた。濁った咳がまた聞こえる。夕也の髪の合間から糸を引く唾液が見えて、背筋の上を得体の知れない感覚が這っていく。爽快さと不快さが等倍だ。怒りに任せない暴力を振るったのは初めてだと夕也の髪を掴みながら思った。

 止めたままだった息を吐く。夕也の髪を強く引っ張り、ぶちぶちと数本が死ぬ音を掌越しに聞いてから放り投げるように手を離す。夕也は無抵抗に転がった。足を折り曲げて四つん這いになり、膝で半身を起こしながら気怠そうにおれを見上げた。痛みで目の中が揺れていた。そこには安堵があるようにも思えてなおさら不気味だったが、握られたままの自分の拳はじわじわと力を抜いていった。でもまだ嗜虐したいとどこかでは思っていて開いた掌は夕也の喉仏を迷いなく掴んだ。握り潰せはしなくとも息くらいなら止められる。抵抗しないから、このまま殺せる。命の危機をわかっているはずなのに夕也は苦しそうにしながら黙って絞められている。

 元々不毛だったけど、更に草木の生えない場所へ迷い込んだ感覚がある。意味があるのかないのかもわからず、でもそんなものは瑣末だと受けている側が言っている。殴られたがってるみたいだな。胡桃沢の感想に、どうやらそうらしいとおれはようやく同意する。

 手を離すと夕也は蹲りながら咳き込んだ。おれの位置からでも糸を引く唾液の様子が見えて、ふと視線を移した自分の指には数本髪の毛が絡んでいた。乱暴に振り払って床に落としてから、椅子に座って広げたままの新聞記事を片付け始める。なんとか息を落ち着ける。咳がまだ聞こえる、今日はこれ以上進みそうもないし明日にでも改めてまとめ直した方がいい。殺したくても殺しはしない、不気味だろうが意味不明だろうが、協力はしてくれるらしいから。

 のそりと起き上がる姿を目の端で捉える。夕也は何事もなかったように歩み寄ってきて、おれのそばに立った。それから腕を伸ばした。ファイルに入れかけていた連続放火の特集記事を、すっと親指で押さえた。

「こいつ……」

 夕也の声は掠れていた。視線を向けると、鈴谷博幸、と記事を書いた人物名を読み上げた。

「凪、こいつだ」

「何が?」

「お前の病室に、何度も来たフリーライター」

 夕也の手から記事を抜き取った。文面に視線を落として流し読んだ後、最後に書かれた記者名を凝視する。鈴谷博幸。調べても大した情報は出てこなかった、今のところは消息のわからない男。

「……名刺、残してあると思う」

 口元を拭いながら夕也は言う。

「でも十年前か……家の中を探しておくから、少し時間をくれ」

「それは……あるなら、助かるけど、」

「見た目も少しは覚えてる。紙とペンはあるか」

 差し出された掌を不可解な気持ちで見つめた。どうするか少し悩むが、机に置いてあるノートとペンを渡してやった。夕也はノートの空白にペンを走らせた。慣れた手つきだった。ノートもペンも数分もすればおれの手元に戻ってきて、ノートには四十代半ばくらいの眼鏡をかけた男の顔が描かれていた。病室に来ていたのなら見覚えがあるだろうかと思っていたが、それよりも別のところに気を取られた。

 絵は異様に上手かった。数分で描き上がったことも、信じがたかった。ちょっと驚きながら眺め回し、隣で棒立ちしている夕也を見上げた。

「お前、こんなに絵、上手かったの」

 つい問い掛けると、一瞬の間の後、夕也は笑った。

「仕事の延長線上だ」

 それでおれは、夕也がイラストレーターだと初めて知った。

 在宅で仕事をしているわけだった。


 胡桃沢以外の協力者が、どうにか手に入った。

 でも義兄以上にも、協力者以上にも、夕也に踏み込むつもりはない。なかった。

 怒りや腹いせのまま殴っているだけの方がおれも夕也もある意味まともだったんじゃないかって後悔する時が来るってことを、おれはこの時には少しも思っていなかった。

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