7
「凪、待て」
夕也の動揺と冷静を混ぜた声に遮られ、振り上げかけた手は即座に掴まれ留まった。目の端に意外そうな顔をする胡桃沢が映る。夕也は落ち着きを取り戻し、おれの手首をしっかりと止めたままこちらを見下ろした。
「このあと、顔の映るオンライン会議がある。怪我をするのはまずいから、後にしてくれ」
そう言ってからおれの手を離してさっさと階段を登って行った。苛立ちはまだあったが追い掛けなかった。夕也の態度や雰囲気の珍しさに対する困惑が勝っていた。
先程の台詞はおかしいとおれにもわかる。あいつは「殴られる前提」で話をしていなかったか?
確かにいつも抵抗はしないが、それは、でも……。
「なんだ、つまんねー」
胡桃沢の声に引き戻される。
「まあいいや、なんか修羅場じみてて面白かったし。ファイルも渡してやるよ、ほら」
鞄から取り出された黄色いファイルに目を落とす。受け取ってから、少し話せるかと、問い掛けた。胡桃沢は頷いたが、夕也のいる二階には連れて行かずに、半分ほど物置になっている和室へと案内した。机の類はなく、段ボールがいくつか積まれている。襖の奥の押し入れに何が入っているかはよく知らない。
胡桃沢はおれが口を開く前に、適当なところへと腰を下ろした。その近くにはおれに殴られて血を垂らした夕也の名残がまだあった。薄茶色に変色した血痕に胡桃沢は気が付かないまま、対面に座ったおれを見た。
「んで、何? 新聞の話?」
「それもあるけど……来る前に話したこと、覚えてるか?」
「えーと、蒼姉さんって人に聞いた不審者の話?」
そうだと肯定してから、
「夕也に聞いても素直に話す気がしなくてさ。お前、何かいい案があったりしないか?」
聞いてみると胡桃沢は面倒そうな顔をした。
「凪ー、自分が話したくないからって、私に何でもやらそうとすんなよ」
「それは……悪いと思ってる」
「めんどくせえな、素直に話さなかったら話すまで殴れば? あの様子だとほんとに無抵抗に殴られてそうじゃん、限界まで痛め付けて吐かせんのが早くない?」
「いや、無駄だと思う。確かにまったく抵抗はしなくて、余計に苛ついて歯が折れるくらい殴ったこともあるんだけど、本当に何も言わなかった。歯拾って二階に戻っていった」
「え、キモ……」
ドン引きした声に同意の頷きを返す。おれも似たような気持ちではあった。その気になればいくらでも跳ね返せるはずだが、夕也は不気味なくらいおれの好きにさせている。
ちょっとした癇癪だと子供扱いしているんだろうけどそれがまた腹が立つ。
「……とにかく、殴るだけ殴っても話すかはわからない。別の案を考えた方がいい」
胡桃沢は一応納得したらしかった。頷きながら座る形をあぐらに変えて、膝を肘置きにしつつ俯き、ううんと唸った。
それからすぐに顔を上げた。
「親を巻き込めば? 親父は義理だから信用できねーだろうけど、お母さんのほうはホンモノなんだろ?」
返す言葉に詰まった。母親、と呟いた自分の声は重かった。胡桃沢は何かを察したように今のナシ、と取り下げた。
「よく考えれば、あの兄貴とこの和室見りゃあ、まあ問題だらけなんだなってのはなんとなくわかるわ」
胡桃沢は散らかった和室の中を見渡した。視線を追いながらおれも改めて室内の様子を目にいれる。ろくに掃除はされず、何かもわからない荷物が積まれる雑多とした部屋……いや、物置き。
おれが夕也を殴った日からそうなった。
「あ、凪、逆にしたら?」
逆、と意味がわからず聞き返すと、
「どれだけムカついても一切殴らないようにしてー、逆になんかあったのか? ってあっちから聞いてこさせる作戦ってこと!」
あっさりと言われた。
「それは、……殴らない自信がない」
「いやいや、二日三日ならいけるだろ?」
「わからない、夕也はとにかく異様に干渉して来るんだよ。学校の話だとか勉強の話だとか、進路にも口を出してくるしおれがこうやって火事を調べていることも不満みたいで、殴られるとわかってるくせに毎回小言を言ってくる。だから、最近は顔を見るだけで本当に苛立って殴りたくなってくる。ほとんど反射みたいに」
ここまでを一気に説明すると、胡桃沢はなぜか困惑を滲ませた。
「なんだよ?」
「いやー……」
「気になるだろ、言え」
「言いにくいって……」
珍しく濁されたが、もう一回問い直せば、ただの感想だよと前置きされた。
「なんかお前の兄貴って、お前に殴られたがってるみたいだな」
溜め息混じりの言葉だった。胡桃沢は背筋を伸ばして、気にするなと言いたげに片手を振った。
頷きしか返せなかった。おれだって薄々感じてはいたことで、でも口に出せば何かが終わる気がして言えなかった。
おれは火事に遭い続けなければいけない。新鮮に憎み続けていないと、目標が一瞬で消えてしまう。そうなった時に自分がまともに歩いているかわからない。
じゃあどうするかなんて今は考えるべきじゃないんだよ。
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