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「とにかく、胡桃沢と食ったから夕飯は要らない」
再三告げて階段に向かいかけるが、夕也に呼び止められる。舌打ちしつつ一応視線はそちらに向けた。
「何?」
「話があるんだ、凪。居間には来てくれ」
「ここで話せよ」
夕也は一瞬躊躇ったが、
「高校から電話を受けた」
わかりやすい前提を置いた。合点がいった。
「ああ、いつものクレームか」
「そんな言い方はよくない、いつまでも非行に走るな。もうすぐ受験生だろう、そろそろ進学のことを考えて」
「大学には行かない、他にやることがある。高校だって本当は行きたくなかったんだっておれは何回もあんたに言っただろ」
「進学しないにしても、このままじゃ進級も危ないんじゃないのか。期末テストだってもうすぐ、っ!」
廊下に倒れ込む姿が見えた。殴ったのは自分だと痺れる拳の感覚で把握して、起き上がられる前に腹の上へと乗り上げた。
一回、二回、三回と、頬や頭や肩口を殴り付け、いつまでもうるさいんだよ本当の兄貴でもないくせにって、さっさと傷付けと思いながら口に出す。
ドラマだったか実際の教師だったかは覚えていないが殴ると殴った手の方が痛いんだと口にしていた。おれはそれがただの嘘でその場しのぎの偽善に過ぎないんだと夕也を何度も殴りながら腑に落ちる、なぜなら煮え繰り返っていた体内はじわじわと喜び始めて手の痛みなんて欠片も感じない。夕也が抵抗しない理由は暴力の中じゃ余計にどうでもいい。こいつに手を出す時だけは殴ろうと決めるわけじゃなくて体の方が勝手に憎んで拳を振り上げているがそれもどうでもいい。義理の親父もいても意味がない母親もおれには必要ないもので、でもそんなこと今は心底どうでもいい。
兄どころか保護者のような振る舞いをすることが気に入らない。でも夕也が何を考えているのかはわからない、無言で殴られる癖に辛そうにも苦しそうにもならない冷めた両目には咎める色すら浮かばない。そこにあるからただ受け入れている様子とおれの暴力なんてこいつにはただの癇癪でしかないと感じているような素振りが、このまま殴り殺せそうなほど腹が立つ。
「飯はいらない、学校からの連絡も知らない、もう話しかけるな偽善野郎……!」
殴るだけ殴った後に、ぐったりしている夕也の上から離れる。新聞記事の入った鞄を握り締めて階段へ向かうが別に追い掛けては来ない。起き上がる気配もない。階段を登り二階の自室に入ってからはやっとおれのやりたいことのできる時間で、高校にいる時間も夕也と顔を合わせている時にも決して訪れないちょっとした安堵が、おれの中をゆっくりと宥めていく。
ぎしりと音が響いた。廊下に転がってた夕也が体を起こした音だとわかり、続けて階段を登ってくる足音も聞こえるがおれの部屋には来ずに自分の仕事部屋へと戻った。
無意味な音たちを聞き流しながら鞄を開けた。胡桃沢にもらった新聞記事を机に広げて、おれは火事の前、何の問題もなかった幼い日のことを思い出そうと目を閉じる。
透兄さんは優秀な人だった。
でも年齢が片手で足りる頃のおれがそう理解していたわけではなく、従姉妹の蒼姉さんに後から聞いた話だ。
進学校に通っていたし一年生の頃から生徒会に入っていたらしい。成績は常に上の方で何かの賞状をもらうほど出来た人だったという。絵に描いたような優秀さだとは思ったが、姉さんにも火事の辛さがあって思い出を美化したのかもしれないため、おれが深く突っ込むところではない。
おれはおれで、兄さんがとても優しかったことばかり反芻する。記憶というよりは感覚と積み重ねた知識で思い出す。年齢が十歳離れているおれの面倒をよく見てくれた。父親も母親も仕事をしていたから、自然と兄さんや近所に住んでいた従姉妹の蒼姉さんがおれの世話をする状況になっていた。親の不在は寂しかったが兄さんも姉さんも可愛がってくれて、やっぱりあの頃が一番平和な幸せのある時期だった。
兄さんは夕也を何度も家に連れて来た。幼児だったおれを放置するわけにいかず、遊びに出たりはせず帰宅する兄さんに、夕也がついてきた形のようだった。
人見知りをした記憶がある。兄さんの影に隠れるおれを見て夕也は困り、兄さんは笑っていた。
笑いながらおれの頭を撫でて優しく話した。
「凪。こいつは西蓮寺夕也。ちょっと顔は怖いかもしれないけど、僕の友達だから別に悪いやつじゃあないよ。むしろ優しい、いいやつだ。凪にも僕より優しくしてくれる。だから怖がらなくていいよ」
自分がどう返したかは思い出せない。夕也の安堵と照れを混ぜたような顔は覚えているのに、透兄さんがどんな顔でどう返したのかも思い出せない。
今の生活、とりわけ夕也との積み重なるやりとりのせいで押し潰されているのだろうか。
だとすれば本当に邪魔しかしない男だ。放火犯を探す前にあいつをなんとか始末したほうがいいかもしれないとすら考える。殴ろうが蹴ろうが何も抵抗しないのだし、簡単に騙して殺せてしまうかもしれない。
夢の中で焼死している夕也の姿が脳裏を過ぎった。
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