#9
どこからかは分からない。しかし、倒れているエクレスを、見下ろしているなにかがいることは分かった。
「ねえ……さん……?」
声になったはずはない。
が、問うた気になると、微笑みと、言葉が返ってきた気配がした。
そっと、なにかに頬を撫でられた気がした。
「死にたくなければ、唱えなさい。『闇の精霊よ、その力を我に託せ。全てを滅ぼすための力を、この手に』と」
なぜ。意識の中で問いかけても、答えてはくれない。代わりに、一言だけ。
「早く。エクレス、本当に死んでしまうわよ」
急かす声がする。
精霊は、自分にはまだ扱えない。が、ただ黙ってこのまま死ぬよりは、マシなのかもしれない。
「闇の、精霊よ」
死にゆく自分の身体を傍観するような具合に、口を動かす。ひょっとしたら、もう魂は、半分ほど身体から出て行っていて、それが見下ろしているのかもしれない。
「その力を、我に託せ」
それでも、言葉を紡ぐ。まだ、死にたくない。
「全てを滅ぼすための力を、この手に」
唱え終えた瞬間、どくん、と、なにかが内側で脈を打った。
それは心臓の鼓動に似ていた。どくん、どくん、とどんどんそれは強く、激しくなっていく。やがて――
視界が元に戻った。同時に、平衡感覚も元に戻っていた。エクレスは身体を起こして、胸の剣を掴み、引き抜いた。そのまま、地面へ放り捨てる。
傷口は、みるみるうちに再生していた。
どくん、どくん、と、心臓が強く打っている。頭の中で、なにかが明滅している。自分が、なにをしようとしているのか、エクレスは感じていた。
周囲を一瞥する。傍に、尻もちをついたアストル。やや離れた場所で、立ち上がり剣を構えようとしているロシェ。そして、エクレスの隣には、いつの間に移動してきたのか、姉とうりふたつの女が立っていた。
先ほどの声は、この女のものだったのかもしれない。女は、軽薄な笑みを浮かべてから、コース長がよくやるようにして、すうっと虚空へ消えていった。
「エクレス、くん」
背後から、声がした。振り向くと、悲痛な顔でルシアがしゃがみ込んでいた。なぜだか、心が痛んだ。これから起きることを、彼女には見てほしくない。そう思った。
鼓動のペースが速くなる。無我夢中で全力疾走をしているときに近い。
エクレスは、自分の手を見下ろした。それは、人間の手ではなかった。
爪は刃物のように鋭く伸び、関節には棘のようなものが生え、筋肉は黒く、硬質化している。まるで、闇の眷族そのものだ。
それを認めると、殺意が、エクレスの奥底から湧きあがってくる。
――敵を殺せ。
どこからか、聞こえる。
――お前の前に立ちはだかるものを殺せ。無残に、完膚なきまでに殲滅しろ。
いやだ。
抗うが、その指示は快楽のようなものを伴っていた。爪で標的を引き裂くことの気持ちよさを想像すると、身震いが湧き起こる。
――気持ちいいぞ、肉を裂くのは。だから、殺せ。全て殺すんだ。
いやだ……!
だが、身体は止まらなかった。一直線に、闇の眷族へと距離を詰める。地面を蹴ると、とてつもない速度で身体が動いた。それすらも気持ちいい。
ロシェに襲いかかろうとしていた眷族の拳を両手で受け止める。そのまま腕を捻り上げて、投げ飛ばした。背中ではなく、地面に首から叩きつける。
さすがに一瞬起き上がるのが遅れた眷族の顔を、思い切り蹴り上げた。ボールのように、巨体が吹き飛ぶ。意趣返しをしてやった、という達成感以上の快感が、背筋を突き抜けていくようだった。
「エクレス……!」
ロシェが、名を呼ぶ。それを知覚できる。
エクレスは、彼を見た。
「ロシェ……逃げて、くれ」
もはや、自分でも人の声には聞こえなかったし、それだけを言うのにも難儀した。必死に、ロシェに向かいそうになる殺意を抑えこみ、その全ては闇の眷族へ集中させる。
おそらく、長くこの状態でいれば、闇の眷族の仲間になってしまう。そんな予感があった。敵を滅ぼす快楽とその誘惑は、どうしても抗いがたい。嫌なのに、このままでいたいと思ってしまう。
だがもし、戻れなくなってしまったとしても。ローファスやグレイシスが、なんとかしてくれるだろう。彼らは、まだ来る様子がないみたいだが。
まだこうして戦闘状態になって、一分も経っていない。
それなら、せめて。わずかでもエクレスとしての意思が働いている間に、敵だけは、処分しておきたい。
エクレスは爪を構えた。のろのろと起き上がる闇の眷族に、狙いを定める。
足に力を込め、跳躍した。十数メートルの距離を跳び越え、闇の眷族の胸に目掛けて、右腕を突き下ろす。
ほとんど無抵抗に、爪は胸を貫いた。手応えを確認してから、引き抜く。意外なほど、あっさりとした最期だった。
エクレスは、痙攣を始めた巨体を見下ろした。それは、身体を何度か震わせて、泡のように破裂した。身体の破片は黒い霧となり、そのまま音も立てずに消滅する。
終わった。エクレスは、班員のほうへ身体を向けた。
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