#8
腕を潜り抜けるような形でルシアは死角へと離脱したので、闇の眷族の注意は完全にエクレスへ向いた。正面から相対し、改めて、その威容に圧される。
この怪物と、正真正銘の一対一。どれだけ引きつけて長引かせられるかが、そのまま班の命運へと繋がる。
短く息を吐いた――大丈夫だ。たとえ自分が死んでも、ロシェ、アストル、ルシアが助かるだけの時間は稼いでみせる。
二歩、後ろへ下がる。誘うように、剣先を下げた。
眷族が踏み込んでくる。教官との訓練を思い出した。
――人形の眷族は攻撃に、基本的に腕を使うことが多い。そのリズムは単調で、直線的だ。ゆえに軌道の予測はしやすいため、まずは安全な場所に身体を置いて動きをよく観察すること。
思い切り振り回してくる右腕を迂回するように、背後へ回り込む。背中を、浅く斬りつける。即座に、裏拳で反撃が来た。それをかいくぐり、地面を転がった。転がる前に身体があった場所を、眷族が踏みつける。
全体の動きをよく見ていれば、確かに避けられる。だが、図体のわりに動きが速すぎる。少しでも判断を誤れば、即座に終わりが来る。
起き上がって、後ろへ跳ぶ。目の前に左手が突き出されてきた。エクレスを掴もうとしたそれは、わずかに足りない。伸びきった腕、手首を斬る。手応えあった――眷族は悲鳴を上げてひるみ、後退りを見せた。
二メートルほどを空けて、しばし睨み合う。
授業で繰り返した動き。それは淀みなく、エクレスを動かしている。
次いで、闇の眷族は真正面に突進してきた。真っ直ぐに右手を突き出してくる。それは、もう一歩下がれば届かない――そう判断して余裕をもってもう一度、バックステップを踏む。
そして目を疑った。闇の眷族の手が、まるでゴムかなにかのように、ぐんと伸びたのだ。
真正面だったぶん、右にも左にも避けられない。
エクレスにできたのは、殴りつけられる前に、せめてその腕に剣を突き立ててやるくらいのことだった。が、それだけでは攻撃を止められるわけもなかった。
みぞおちのあたりに、拳が突き刺さった。一抱えはある岩の塊を思い切り投げつけられたような衝撃。実際は、もっと凄まじい威力だった。
身体が、くの字に曲がった。痛みは感じない。ただ、重たい。吹き飛びながら、自分の身体がまったく自由の利かない人形のようになっているのが分かる。
遅れて、二度、三度と、再び衝撃があった。地面をバウンドしたらしい。
エクレスは、もがいた。どこが天地かも分からない。目まいでぐちゃぐちゃになった闇に囲まれた中で、どこでも構わず手をつき、立ち上がろうとした。
「エクレスくん!」
声が、すぐ傍であった。見ると上下逆さまのルシアが、悲鳴を上げている。彼女らの居た場所に、吹き飛ばされてしまったようだった。
さらに顔を巡らせた。どろどろの視界の中、これも逆さまの闇の眷族が、なにかを振りかぶっているのが見えた。
「おきろ、エクレス」
誰かが、身体を引っ張る。アストルが助け起こしてくれようとしているのだと分かった。それを、エクレスは拒み、力の限りに突き飛ばした。次の瞬間、胴の中央に、またしても衝撃があった。
エクレスは、それを見下ろした。あいつの腕に突き立てたはずの剣が突き立っている。闇の眷族には、剣を投げるくらいの知恵はあるらしい、と他人事のように思う。
「う……あ……!」
声を出そうとしたが、まったく違うものがこみ上がってきた。塩辛く、熱い。言葉の代わりに口から溢れ出たものは、大量の血だった。
起き上がろうとする。が、まるで手足は動かない。胸の剣に手を掛けるが、引き抜くことも、できない。力が入らない。入れ方が分からない。
なんとか、膝で立ち上がろうとしたが、俯せに倒れた。
胸の剣がずれて、傷口がさらに開いたのが分かった。
爪で、地面を引っかく。まだ、まだ、まだだ。
――知りたいことがある。姉の形をしたものがそこにいる。闇の眷族は、渦の中から現れた。あれは一体なんだ。どういう関係が? 姉は、闇の眷族だったのか? なら自分は、一体、なんなんだ……?
急速な眠気が、湧きあがる疑問を塗り潰していく。意識を手放せば、そこには死が待つのみだと分かっている。
ただ、それでも、もう、どうしようもないことも分かる。
――死にたくない。知りたいことがある。それに、自分は、助けてもらったのに……。たったひとりでも、生き残ったのに……。
悔しさと絶望感の中で、視界が塗りつぶされていく。
「知りたい? 自分が、何者かを」
声が聞こえた。
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