#7

「おっ、おい、あ、あれって!」


 アストルがうろたえる。ロシェが無言で剣を抜く。


「いや……! いや……!」


 ルシアが悲鳴を上げる。


 ロシェ、アストル、ルシアは初めて見るのかもしれないが。全身から炎のように立ちのぼる闇、深紅に輝く禍々しい瞳という特徴、なにより、その存在そのものから発散される邪悪な気配から、否応なくあれが闇の眷族だと理解できているはずだ。


 闇の眷族は、エクレスたちを認めると、ゆっくりとこちらへ進んできた。隣にいる姉の形をしたものには、目もくれない。


 絶体絶命の、窮地にいることは分かっていた。このままでは、全員が死ぬ。あの怪物は、ものの数秒とかからずに、エクレスたちを皆殺しにするだろう。


「エクレス、アストル、ルーシャ! 呆けている場合か!」


 ロシェが叫んだ。


「離脱は不可能でも……なんとか、教官が来るまで持ちこたえるんだ!」


 エクレスは、震える手で剣を握り直した。


 この怪物は、撤退しようと背中を見せた瞬間に、こちらを造作なく殺すだろう。それははっきりとイメージできた。であれば、ここで踏みとどまり、戦うしかない。たとえ、その結果が、撤退を選んだ場合と同じ最悪なものでしかないとしても、残された選択肢は、そのひとつしかなかった。いや、むしろ教官が救援に来てくれる可能性を考えれば、こちらの方が分のある判断だろう。


 恐い。が、怪物ごしに、姉の姿をしたものが視界に入る。


 ――もう二度と、誰かを失いたくはない。


 そう思うと、不思議と震えは小さくなり、意識を集中できた。エクレスは、もう眼前、五メートルにまで迫る怪物に、剣を構える。


「ロシェ、僕は左から。君は右から。注意を引きつけてから、アストル、必殺の魔法を頼む」


「……分かった」


 打てる手は、それだけだろう。


 ――囮を作り、最大の火力をぶつけるという戦法は基本であり、使える場面は多い。特に、闇の眷族は知性に秀でていない。どちらかといえば動物に近いので、敵が一体の場合、陽動撹乱は、とても効果的だ。


 授業でグレイシスが言っていたことだ。何度も思い出し、繰り返す。


 一度感情を発散させたせいか、頭の中ははっきりとしている。エクレスたちが上手く振る舞えば、闇の眷族はアストルにまで気を配らないだろう。距離は十分ある。


 距離、三メートル。アストルたちは、さらに下がっているため、もう少し離れている。


 エクレスは、ロシェを横目で見た。頷く。そして同時に、仕掛けた。


 やや左に開いてから、眷族の右手に向けて突っ込む。腋下を狙った剣は、振り上げた前腕に受け止められた。硬い。刃は、ほんの数センチ食い込んだだけで止まった。


 剣の向こうに、真っ赤な瞳が輝いていた。肉体からは炎のように闇を全身から立ちのぼらせながら。闇の眷族はこちらを観察するように、見ている。


 恐怖が指の先から駆け上ってくる。が、エクレスは自身を叱咤した。すぐに狙いを変え、腿のあたりを狙って斬りつける。


 それは、眷族が軽く後ろに跳躍したため、空を切った。頑丈な肉体をしていても、攻撃を加えられることは嫌うのか。ならば、最初の攻撃も、なんの痛痒も与えていないということはないのかもしれない。


 希望が見えた気がした。わけの分からない怪物だが、急所を狙えば殺せるとは何度も聞いている。エクレスは、ロシェと共に距離を詰めようとして、声を聞いた。


「どけ、ふたりとも!」


 早い、とエクレスは思った。アストルは、もう魔法の準備を終えたらしい。アストルと眷族とを結ぶ一直線の射線を空ける。すぐに、詠唱が追随する。完璧な連携だ。


「炎熱の旋風よ、我らが敵を、悉く焼き尽くせ!」


 魔法の言葉も早い。エクレス、ロシェ、そしてアストルを視界に収め、どれに襲いかかるか迷っていたらしい闇の眷族に、風が殺到する。風は意思を持つかのように、その巨大な身体に絡みつき、着火した。それは一瞬で、巨大な火柱に変貌する。


 数日前に、校庭での魔法の授業で、アストルはこの魔法を成功させていた。成人男性ほどの大きさの人形を、ものの数秒で焼失せしめるほどの威力がある。今日までに彼が覚えた、最高の威力を持つ魔法だろう。そのとき、彼は威力におののいていたが、それを完璧に修得していたのだ。


 凄まじい熱気を伴った風が、エクレスの髪をはためかせる。炎が、魔法の明かりよりも明るく地下の空洞を照らし出す。


 腕で目と呼吸器を守りながら、若干の安堵を覚えていた。


 ――お調子者のアストルだが、彼の積んでいたたゆまぬ努力によって、脅威は去ったのだった。そう思いたかったのかもしれない。


 だが。炎が収まると、ほとんど無傷な様子の闇の眷族が立っていた。嘘だろ、とアストルが呟いた声がした。


 そしてそれは、注意を引いた。一直線に、巨体がアストル目掛けて距離を詰める。


 エクレスは走った。距離はこちらが近い。が、眷族は腕を振り上げている。あれをどうやって止めればいいのか。


 アストルの隣のルシアは、恐怖に押し潰されて、なにもできないようだ。尋常でない恐がりようで、もはやあてにはできない。


「逃げろ、アストル!」


 ロシェのほうが速かった。彼は魔法を発動させて、アストルと眷族の間に割り込んだ。地面から頑丈な土壁がそそり立ち、その陰でロシェはアストルの腕を掴む。


 エクレスの眼前で、腕が振るわれた。その一撃は土壁をあっさりと粉砕し、ふたりをもろともに吹き飛ばす。


 アストルは、真横に飛ばされ、地面で頭を打った。そのまま、起き上がれない。


 ロシェは、追い掛けるように伸びた眷族の左手に、空中で足を掴まれた。そのまま、真上に放り投げられる。鈍い音が、一度、二度と続いた。天井、地面と叩きつけられて、ルシア、アストルの中間地点で、彼もまた、動けなくなった。


 眷族が、エクレスとルシアに向き直る。


 エクレスは、呆けたままのルシアに辿り着き、肩を掴んだ。


「ルーシャ。しっかりしろ。君は、アストルと、ロシェの治療を頼む。まだ、生きてる。教官が来てくれれば、助かる」


「……エクレスくんは」


 虚ろに名を言った彼女に、頷く。


「僕は注意を引いて、時間を稼ぐ」


「だめだよ、逃げないと……」


「いいや。ロシェ、アストルはこの場ですぐに治療しないと、危険だ」


 闇の眷族が現れ、戦いが始まってしまってから、時間は全然経過していないだろう。一分どころか、三十秒も経ったかどうかすらも怪しい。


 恐怖と焦燥が遅くする時間の中で、教官たちが異変に気づきここに来るのは、あと何十秒後なのか。あるいは、それはほんの数秒後かもしれないが。


「僕の村の人は、あれに似たやつに、みんな殺されたんだ。二度もそんなことはさせない。だからルシア。力を貸してくれ」


 その間にも、闇の眷族は殺気を強めている。距離一メートル。腕が振り上がる。


「頼む、ルシア……!」


 ルシアは、やっと頷いた。


「……分かった」


 それを聞いて、すぐにエクレスはロシェのほうにルシアを突き飛ばした。彼女の身体があった場所に、拳が振り下ろされた。すんでのところで、間に合った。

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