#3
どれほど時間が経ったのか――それも分からないまま、エクレスはふと目を覚ました。真っ暗なので、まだ夜であることだけは確かだった。
なにか、大きな物音が響いた気がする。
いつもなら、気にせずまた眠りについた。が、その晩は違った。エクレスは身体を起こすと、自室のドアへと、そっと歩み寄った。
なぜそのときに、足音を気にしていたのか、息を殺していたのか。分からない。ただ、なにか妙な感覚があって、それが、エクレスにそうさせていた。
ドアを、そっと開ける。廊下の左右には、姉の部屋と、父と母の部屋のドアがある。突き当たりには、みんなで食事などをする居室に繋がるドアがある。
居室のドアからは、わずかに光が漏れていた。エクレスは不思議に思って、そっと、足音を殺したまま廊下を進む。
ドアに近づくと、妙な匂いがした。じっとりと鼻を刺激する、不快感を催す匂いだ。家畜を絞める小屋から漂う、あのイヤな匂いに似ている。
エクレスは、そっとドアを開けた。隙間から、中を窺う。
驚きと恐怖に、声すらも出なかった。
いつも、父や母と使う食卓の傍には、真っ黒な姿をした怪物が立っていた。
身体が、黒いもやのようなもので覆われていて、姿形の細かいところまでは分からない。が、ナイフのように鋭い爪を持った手足は見てとれた。動物の図鑑に載っている、肉食獣のようだった。ただし、四つ足ではなくて、人間のように直立している。大きさは、天井に頭がくっつくほどだ。
しゅうう、と奇怪な音をどこからか出して、怪物はなにをするでもなく佇んでいる。足元を見下ろすような姿勢だった。
エクレスは、その怪物の爪から、血が滴るのを見た。そして、俯く怪物の視線を追って、今度こそ声にならない悲鳴をあげた。
ずたずたに引き裂かれた父と母が、血まみれになって倒れている。
よく見ると、壁にも一面、血が飛び散った跡があることに気づく。
「ひっ……!」
引きつり声に、素早く、怪物の顔がこちらを向く。ランプに照らされていても真っ黒な顔に、真っ赤な目がふたつ。腰を抜かしたエクレスの眼前に、怪物は床を滑るようにして、どうやったのかは分からないが、移動してきた。
怪物が、エクレスを見下ろす。恐怖で、身動きが取れない。
しばらく、値踏みをするように怪物はエクレスを見ていた。が、唐突に、右の腕を振るってくる。殴られた――ことは分かったが、痛みを感じることすらできないまま、廊下を転がる。
次にドアに叩きつけられて、そのままの勢いで部屋の中に倒れ込んだ。そして、やっとエクレスは、痛みを実感した。
目眩がして、視界が滲む。それでも、必死に身体を動かそうとした。
窓に手を掛けて、必死に這いずり、家の外へ出る。立ち上がることなんてできない。それでも手足を動かして、勘だけで村の広場のほうへと進む。
村は静かだった。身体の痛みよりも、死んでしまうのかもしれないということよりも、それが恐かった。
ここは、自分以外には、誰もいない世界だ。
突然そんな場所に放り出されて、エクレスはいつの間にか、泣いていた。
助けて、という声が出なかったのは、本能で理解していたのかもしれない。村のみんなは、あの真っ黒な怪物にやられてしまったのだ。誰も助けてはくれない。みんな死んでしまったんだ。生きているのは自分だけで、逃げないといけない――
そこで、エクレスは気がついた。姉はどこに行ったのだろう。倒れていたのは、たぶん、父と母だけだった。もしかしたら、まだ家にいて、怪物に襲われているかもしれない。
引き返そうと思った。が、進むにも、戻るにも、中途半端な場所にいた。地面の上で、体力も限界を迎えていた。
と、そのときだった。
「おい、大丈夫か!」
声がした。顔を、そちらに向ける。ぼやけた視界に、金色の髪をした、男の人が走ってくるのが見えた。
エクレスは、男に抱き起こされた。青い瞳が見えた。さっきの怪物ではない。
最後の力を振り絞って、エクレスは言った。
「おねえ、ちゃんを……たすけて……」
そこで、意識は途切れた。
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