第13話 有給のハウ・ツー


「今日は、映画でも見ていようよ、先生」




開口一番、そんな台詞を吐き捨てるように放つ彼女。チョコホイップを焦げたトーストに上塗りし、思わずカーペットの下にジャムスプーンを落とす。曇り空に赤い血が染み込んでいくように、無防備に繊維の隙間へと広がっていく粘度の高いブラウンカラー。




はるか昔に謳歌し終えたゴールデンウィーク。時が経つのは早いもので、五月の病から立ち直ったと思えば憂鬱の雫が袖を濡らす季節に早速衣替えである。平日まっしぐらな朝。毀たれたような金剛石の輝きは、どこか陰りを見せていた。




「……そりゃまた、唐突だね」




「………ごめん、先生」




やけに小さな一口で生のトーストを齧る彼女。魚の鱗がぼろぼろと剥がれるように皿の上に零れるパン屑。表面張力すれすれまで注がれたコーヒー牛乳はコップから溢れ、チョコレートと混じり合って乳臭く、甘い香りがした。




「……いいよ、ミカミちゃん。今日はお休みにしようか」




湿気で僅かに膨れ上がった、色素の抜け落ちたような白髪。項垂れた姿勢から見えるつむじが僕の視線から遠のき、未だ影差す隈の酷い瞳が、僕のペンタブラックを真っ直ぐに見据える。




「……本当?」




「生徒に嘘はつかないよ」




彼女のこういった願いは、決して一度や二度ではない。常人であるならば、体調が優れなければすぐに休暇を申し出るだろう。それと同じことである。孤独という病魔が心に巣食う彼女にとって、本来であれば三百六十五日を苦痛とともに過ごさなければならないという現実。不登校にならないのがおかしな話なのである。




「映画、映画……」




そう言ってリモコンを手に取り、録画リストから再生された痕跡のないタイトルを漁り始める彼女。決めているわけじゃないんだ、という言葉を喉元の寸でのところで飲み込む。


地面に落としたスプーンを人差し指と中指に挟んで拾い上げ、何事もなかったかのように机の上に置く。




「連絡入れとかなきゃなあ……」




左右に揺れる小ぶりな尻、それを自然と眺めながら意識的にスマートフォンを手に取る。電話帳から職場の番号を引っ提げ、すっかり慣れてしまったフリック入力を実行する。彼女のわがままに付き合うとなれば突然のことではあるが、有休を消化する他あるまい。


彼女の欠席届を受理するのは、果たして僕だけなのだから。












人が春に飲み込まれていく。逃げ惑う人々を養分にして、桜の木の形をしたフラクタルが大きな眼を開く。無数に生えた枝木、その先から分裂する、人の手を模した花弁達。蠅を箸で摘まむよう繊細に、掌に捕らえた獲物を優しく、それでいて凄惨に握りつぶしていく。震える喉から途切れる断末魔、指の隙間から零れる生き血が桜をピンクに染めていく。




桜に擬態した怪物が、春を侵している。犯していく。




薄暗い部屋、僅かな光すら遮るカーテン。


息苦しさすら感じる空間、唯一の灯にすがる赤頭巾の少女ほどの悲壮感。そんな感情の中、ブルーライトをただ二人きり浴びている。限られた画面越しに広がる悍ましいピンク。画面の中の主人公が飛び跳ね、独白を繰り返すだけのシーン。映画館で観ることを想定された作りだからであろうか、虚しい臨場感に微塵も湧きあがらない心。しかしそれでも尚、僕の心臓が鼓動を忘れていられないのは、僕の下腹部が絶賛少女の背中と薄い布地越しで密着しているからであった。




骨組みの曖昧な座椅子に腰かけ、白髪の少女に覆いかぶさり、胸元に掻き抱くようにして時計を確認する。実家から持ってきたプレイヤーは時折不気味な重低音を立てながら、近代的な数字式で一時間と少しの経過を示している。




頭の位置が悪いのか、時折呻き、安住の地を求め僕の腕の中で蠢く真っ白な人型。不満げな彼女の背中が擦れる度、肉のない骨ばった胴体の痛みと、微かな甘い香りが鼻をつく。




「ん……」




もはや惰性で流れる映画、そのフィルムを寝ぼけ眼で、チープな画面越しにじっと見つめている。いつにもなく真剣な眼、しかしそんな彼女の表情は伺い知れない。


―――無論、物理的な問題である。薄っぺらい胸間からずり落ちていく白髪の少女を軽く抱き寄せる。




(……暖かい)




子供の体温とは末恐ろしいもので、僅かたりとも気を抜いてしまえば鳩尾を睡魔にボディブロー。半日もの間、貴重な人生からログアウト直行である。終盤に差し掛かかる映画、その結末を見届けるまで僕に安眠は許されないのだ。




――――しかし、その悩みは杞憂であった。いや、杞憂になった、というのが表現としては正確なのかもしれない。ふと、彼女の首元へ預けたままの指先に違和感。妙に生温かいそれの所在を背後から覗き込んだ。




ちぱ、ちぱ。


にちち、にち。


んじゅるる。


じろろ、ろ。




暗く狭いアパートの一室。空虚に、されど鮮明に響く垂涎の音。




白磁の少女が、僕の中指と人差し指を懸命に舐っていた。




「ッ!?」




咄嗟に逃げ出そうと、昨日爪を整えたばかりの右手を強引に引っ張る。しかし、荒い吐息と粘度の高い唾液とが混じり合った真っ赤な舌が、僕の手指を絡めとって離さない。人体の中で最強ともいわれる所以が、嫌でもその事実を思い知らせる。




「ちょ、ミカミちゃん、やめ―――」




あまりの熱に皮膚を溶かされ、骨を直接舐られているような感覚。指の関節の境界線が曖昧になり、どの方向に曲がっているのかすら分からない。辛うじて残っている触角は、頬のない、狭い喉奥のぬるま湯のような酸の源泉に辿り着いていた。瞼を閉じ、抗いようのない捕食者と被食者の現実に白旗を上げる。えづく様子も見られない彼女、そんな現状に、あどけない心地よさを僅かに覚えてしまう自分がいた。




「………ん?」




薄汚い欲望との葛藤の渦中、突如として止まる侵攻。再度の違和。第三関節まで圧制され切った右手の指から、その重量を除いて蛭が這い回るような感覚が消失する。




「………もしや」




ふとした気づきである。確信に変えるには、少しばかりのきっかけが必要であった。未だ抜けない手指、軟骨に触れるすれすれの所で留まる尊い犠牲者。それらを差し置き、改めて彼女の端正な顔立ちを今度は正面から拝む。




―――彼女は眠っていた。それはもうぐっすりと。道理で温かいワケである。




退屈と薄暗がり、それから専心故の身体麻痺。映画のエンドロールで目を覚ます、偉人を無駄にすり減らす観客の条件を彼女は全て満たしていたらしい。正面を向くと、いつの間にかタイトル画面に様変わりしていた型落ちのテレビがこちらをじっと見つめていた。




「おはやう……」




可愛いらしい欠伸を手土産に携え、夢の世界から帰還した彼女。どうやら寝ぼけているらしい。目元から退屈の跡を親指で拭ってやり、軽く両肩を揺さぶる。ようやく瞭然と意識が表面世界に浮上したようで、言葉による意思疎通を試みる。




「おはよう、よく眠れたかい?」




当たり障りのない第一声。挨拶には挨拶で返すのが礼儀である。




「そこそこかな……あれ、映画終わってる」




微かに驚愕の色に染まる彼女。そのリアクションに驚かされるのはむしろこちら側である。寝巻のままの少女の上体を起こし、さらなる現実への覚醒を促していく。




「先生、ああいうの見るんだ」




「父親のコレクション。実家から引っ張り出してきただけだよ」




「道理で古いやつばっかだったわけだね」




「ご明察」




在庫処分の名目で譲り受けた、もとい押し付けられた代物だが、売却の未来は少しばかり前倒しになりそうである。僕だけが被害を受けるならまだしも、彼女の、ましてや十代の貴重な時間を熱量の感じられない駄作で潰されるわけにはいかないのだ。真っ黒なトレイからドーナツ型のディスクを取り出し、穴を覗き込んでから虹色に光るそれをパッケージに収める。




(疲れた……)




映画の内容には掠りもしない箇所で、精神的な負担が大きく圧し掛かってきた。快適かつ適切な入眠で疲労困憊から脱却した彼女とは裏腹に、僕の生命は風前の灯である。やや心配げに、ナチュラルな上目遣いを僕に向ける彼女。その純粋な気遣いが、篝火を無自覚に、それでいて容赦なく吹き飛ばしていく。




「……何か、あったの?」




「イエナニモ」




「ふぅん……」




疑念とも納得ともつかない返事をする彼女。生徒に舐められて興奮したなどと、口が裂けて言える筈がなかった。




「先生は、生徒に嘘なんてつかないもんね」




胸が痛い。特に鳩尾のあたり、青痣がじくじくと傷口を経由して広がっていくような錯覚すら現れ始めた。末期である。




「……泣いているの?先生」




不甲斐なさを体現するかのように彼女から目を背ける。




「これはね、感動の涙だよ……」




天井を仰ぎながら、罪悪感に苛まれる胸内を押さえる。浮き出た肋骨が、未だ温もりが残る右手を宥めすかしていた。




「ちゃんと見とけばよかったかな……」




後悔ともつかない後悔を口にする彼女。全然、全くもってその必要は無いのが余計な悲しみを増幅させる。




「ミカミちゃん、ごめんね……」




「?」




白痴にならざるを得ない彼女から強引に免罪符を獲得し、自らの業に終止符を打つ。


もう二度と、彼女の前で醜態はさらすまい。




「あ、先生」




「なんだいミカミちゃん」




「次は寝ないからさ。また、一緒に映画見ようね」




次はもう少しマトモなのを借りてこようと、そう決心した。




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