第14話 子供時代ノお泊りは憧れの象徴
僕の住むアパートよりかは数段豪華な、セキュリティロック付きのマンションの一室。あまり使われることがないのか、新品同然に輝くインターホンを親指で跡が付くくらいに強く押す。頬を滴るモイスチャ。梅雨が明けるまではもう少しばかりかかりそうな時節である。
「みーずきくーん、あーそびーましょー」
友人への常套句、勿論シラフである。しばらくの沈黙の後、墨汁に浸された書道半紙を破るようなか細い音。重厚感漂う人間サイズの板越し、微かに拾い上げたそれを裏付けるかのように、鍵穴だらけの扉が鈍い金属音を立てながら漫然と開かれる。
「どちらさんで?」
中から飛び出してきたのは一人の男。施錠のためのチェーンは外され、肩を撫で下ろすよう玄関の脇に垂れ下がっている。締め切られたドアを全面に開け放ち、外気を取り込む暗い室内。どうやら昼間は太陽光万歳な、人工の照明に頼らない生活を送っているらしい。節電節約大いに結構。それはそれとして警戒心皆無な、とぼけた此処の住人に、自己紹介から始めてやらなければならないのがなんとも腹立たしい。何がどちらさんだ。こちとら天下の客人様である。
「僕だ撲、呼んだのはお前だろうが」
「ボクボク詐欺は今時流行らんぞ」
「黙れジャージマン」
「よし、本物だな」
世界で最もジャージの似合う男、親友の多々良瑞樹がその正体を現した。余計な戯れを終わらせ、革靴とクロックスしか視界に入らない玄関に招かれるまま足を踏み入れる。消臭剤の香りだけが支配する空間、清潔感漂う空気に緊張感など微塵も漂う気配はない。白いままの靴下でぐいぐいと、先んじてリビングまでの道のりを進んでいく。
「遠路はるばるご苦労さん」
「何様のつもりだよ」
「俺様」
「はっ倒すぞ」
少ない刺激が廊下を走る。人間二人分の質量が圧し掛かる床板、微かに軋んだ音と共に木屑が弾けて飛んでいった。
「全く、急に呼び出しやがって……」
「最近付き合い悪かったからよ、偶にはな?」
適当な位置に用意されていた座椅子に腰かけ、一息つく。立ち上がる気力すら奪われていく現状に下半身を任せ、水分不足で真っ赤な三本跡のついた腕、醜い片手で提げたビニール袋から戦利品を取り出していく。
「残念ながら酒はないぞ」
「知ってるよ、ンなこと」
しかめっ面で悪態をつき、子供のようにそっぽを向く親友。そう、今日は祝日、されど平日ど真ん中なのである。つまるところ、明日から再び長いようで短い一週間が始まってしまうのだ。より具体的に言ってしまえば、仕事の前日に酒に吞まれることは言語道断というわけである。万が一にも二日酔いの状態で教壇に立ってみろ、解雇通知待ったなしで成人男性無職添えの完成である。まだ何一つ問題は解決していないというのに、こんなプライベートなトラブルで生徒、もとい彼女と関わる機会を失うことはあまりにもリスキーなのだ。
心底残念そうな顔をしながら、先ほど調達してきたビーフジャーキーと六分割チーズを手際よく並べる僕の親友。尚、袋の中には酒のツマミしか入っていない。味覚が馬鹿になりそうな食卓、濃厚と不健康を絵に描いたような現場。その立役者である親友の背中を眺め、ひとつばかり物思いに耽る。
(………昔とは大違いだな)
疾うに死蔵されたものの割合は高いだろうが、僕の記憶力はそれほど悪くないらしい。悪ぶりたくなる中学生なお年頃、二人きり、似非ヤンキーと中二病でコンビを組んでいた頃を思い出し、僅かに苦笑する。まさか教師になるとは夢にも思わなかったが。
「あ?なに笑ってんだ」
「いや、別に」
「……相変わらず変な奴だな、悟」
荷物を広げた机がみるみるうちにツマミとペットボトルで埋まり、コップすれすれまで注いだ烏龍茶が押し出された不可抗力で傾く。丸石程度の小さく濁った水たまりが跳ね、置炬燵に足を下ろした。零したものは吹かねばなるまい。
「布巾借りるぞ」
そういって、台所に向かおうと立ち上がる。自分の尻は自分で拭くのが道理である。
「お、おい待て――」
僕の次の行動を理解した瞬間、突如瑞樹が手を伸ばし捲くし立てる。その剣幕に動揺したのもつかの間、突き出した僕の膝が机の下部へクリーンヒット。噴水の如く噴き出す麦茶、さらなる追い打ちとばかりに衝撃でよろけた体が机上にダイブする。散らばる炭水化物達。
―――落ち着いたカラーリングのカーペット、その純白に安物のコップが氷ごと中身を吐き出した。表面に付着していた茶渋の染みが、じとじと床を這うように広がっていく。
「「…………」」
無言で交わされるアイコンタクト、いつの間にやら用意されていたらしい襤褸の布切れが僕の手元に舞い降りる。濡れそぼった床下を指さす親友。濁ったカーペットに膝をつき、謝罪の姿勢をとる。自身の行動における責任を取る時が来たようである。
「すまん……」
「口より手ェ動かせや」
「はい……」
一向に薄まらない錆色を吸水力だけ異常に高い布切れで必死に擦り続ける。酷い屈辱である。
しかし、親しき中にも礼儀はあるように、今回の出来事は百パーセント満場一致で僕に罪がある。黙々と後始末をこなしている間、開け放したままの窓から吹く風がやけに冷たい。
「少しは周りを見ろ」
作業中の僕を差し置き、一パックワンコインのビーフジャーキーを齧り始める親友。いつの間にやら開けられた袋。くすんだ内臓の色をしたその中身が、続々と親友の胃袋に入っていく様を延々と見せつけられている。
「……僕にも一欠片」
「おらよ」
「このパターンでくれることあるんだ」
有難く受け取り、寂しい口の中に早速放り込む。ふんだんに振りまかれた塩分過多な不摂生の味、異物が体内に溶け込む感覚がどうにもたまらない。
「……ほら、さっさと座れ。仕切り直しだ」
「やりい」
台所に麦茶まみれの台拭きを投げ捨て、骨格の浮き出た座椅子に再度身を預ける。中身を注ぎ直したコップを突き出し、どちらともなく乾杯の宣言をする。酒も女も暴力もない、されど愉快な宴もどきが始まった。
荒れた食道を流れ五臓六腑に染みわたる酒、昼間から酔いどれて優越感に浸るサラリーマンが感嘆に打ち震える時節。暗がりの部屋を勤勉な太陽が照らし、ようやっとのことでお互いの顔の輪郭が鮮明に視線でなぞれるようになっていた。机上にあったツマミの大半がいつの間にかその姿を消し、爪の隙間に入り込んだ塵芥と油が差し込む光に反射してやけにきらびやかに映る。アルコール成分皆無で始まった二人きりの宴会は佳境に入ろうとしていた。
「……で、結局デキたのか,悟?」
「何がだ?」
「女」
「……それを聞くのは無粋ってもんじゃないか?」
しらふに違いない親友からの追及をのらりくらりと躱す。どうやら以前の疑問が未だ胸の内を渦巻いていたらしい。酒も入っていないのに、酷く下世話なものである。そも、たとえ合法だとして、彼女とは真っ当な関係性ではないのだ。いくら軽口の叩ける親友だからとはいえ、口にするのが憚られることだってあるのだ。お縄につくにはまだ早い。
「おれたち親友だよな」
「親友を盾にするな、悪質以外の何者でもないぞ」
「ちなみに俺はまだいない」
「まだ?馬鹿も休み休み言え、作る気もないくせしやがって」
こいつの内側に、人間の三大欲求の一角は息をしているのだろうかと不安になるくらいには浮ついた話を聞いたことがない。当然の疑問であった。
「親が五月蠅えんだ、まごまご孫孫言いやがって」
水滴のついたコップを机に叩きつける親友。中身は炭酸水だが、どうやら雰囲気に酔っているらしい。居酒屋でもないのに器用なものである。空になったツマミの残骸が各方面に散らばり、男で二人きりの部屋はどうにも乱雑な様相を呈している。
「まあ、言いたくないならそれでもいい」
それだけ言い残して、残りの透明無色な液体を胃に注ぎ込む親友。即座に席を立ちあがったかと思うと、冷蔵庫のペットボトルの水を求めて足取り確かにキッチンへと向かっていった。
「なあ、瑞樹」
「どうした、悟」
僕の改まった口調が珍しいのか、少しばかり上ずった声で返事が返ってくる。冷蔵庫の扉を足蹴に閉める乱暴な物音がして、漏れ出る冷気が吐息に重なったような気がした。
「この世界、ずっと同じ繰り返しているって言われたら、信じる?」
「――――――」
瞬間、熟考。期待値、良好。
「――今、なんて?」
たちまち霧散。
「………いいや、なんでも」
やはり、この繰り返しの仕組みは第三者へ伝わらないように都合よく出来ているらしい。幾度目の試行だったが、返答の仕方からその仕草、一瞬の沈黙までの一連の動作、その全てに既視感を覚えてしまっていた。どこか無責任な落胆を覚えてしまう自分が、たまらなく嫌な奴に思えてしまう。
「言いたくなったらいつでもいいぞ」
「……気が向いたらな」
それからもいくらか軽口を交わし、いつの間にかそこそこの時間が過ぎていた。一日中思考の片隅に住み着いていた、自宅に置いてきた同居人のことを思う。帰り際にお使いを頼まれていたことを思い出し、くしゃくしゃに丸め込まれたビニール袋を伝票のように素早く数枚ジーンズのポケットに突っ込んだ。
「瑞樹、そろそろお暇させてもらうとするよ」
部屋中に散らばっていたごみ屑を拾い上げ、大口を開けて待ち構えている籠に放り込む。
「そうか、それじゃお疲れさん」
「おうよ」
晩飯前にはアパートに戻らなければならないのだ。やけにあっさりした別れ、されど名残惜しさの残る挨拶を後に扉を押し開ける。雨は未だに降り続けており、晴れ間の中でも止むことを知らないらしい。玄関前に立てかけておいた黒の傘を手に取り、軽く振る。
「あ、ちょっと待て悟」
「うおッ」
突如として背面のドアが開き、舐めれば塩辛いであろう眼球がおもわず零れるような錯覚に陥る。隙間から半身を乗り出す親友がそこにいた。
「ほれ、これ持ってけ」
そういって差し出すのはこぢんまりとした栗色の紙袋。胸元に押し当てられた中身を恐る恐る覗いてみると、かわいらしい双子のさくらんぼの白肉がむちむち詰まっていた。
「……いいのか?」
「管理人さんに貰ったやつなんだけどよ、食いきれないからやるわ」
「僕はそんなに好きじゃないぞ」
「誰がお前のためにやるかよ」
逡巡。そして親友の意図するところを理解し、思わず頬が緩む。
「……それじゃ、ありがたく」
「おう、またな」
部屋の奥に引っ込んだ親友を見届け、今度こそ帰路に着く。凹んだ石突きをラバー上の床に突き立てると、軽い衝撃が反響して耳鳴りがした。
エレベーターのボタンを押し、大人しく手前で待機の姿勢を取る。乗降客はおらず、微かな重力と鉄の箱に軽々しく命を預ける感覚に身を任せる。換気扇がむせび泣く声だけが狭い室内に響き渡っている。
―――今日は、酷く肩の力を抜けたような、そんな気がする。しかし、残念なことに、人間という生き物は少しでも余裕があると余計な思考にリソースを費やしてしまう性質を持っていて。そして、その特性は僕自身ももちろん例外ではないのである。
(もしも、そう、もしも)
このエラー続きの世界が再び三百と六十五日を超えてしまえば、その時の僕はどうなってしまうのであろうか。
今の僕は、この世界のプログラムにおけるバグのような存在である。しかし増殖もしなければ致命的な欠陥を引き起こせるような過負荷を持ち合わせているわけでもない、人畜無害な羽虫の一匹に過ぎない。
今回、万が一彼女を取り巻く現象を解決できたとしても、世界が一巡してしまえばその輝かしい結果も過程ごとなかったことにされてしまうであろう。繰り返しが再び起こった際、僕の自意識が浮上しているかは保障されていない。そうなってしまえば、三上沙耶を孤独から救い出す方法は残されていないも同然になってしまう。
それに実際問題、世界の繰り返しを打倒するための解決策はきっかけすら掴めていない。机上の空論、まさに雲をつかむような話である。
―――今日は、酷く肩の力を抜けたような、そんな気がする。しかし、如何せん少しばかり疲れてしまった。こうして親友の誘いに乗ったのも、鬱屈した現状から物理的に目を背けたかっただけなのかもしれない。
一際大きな揺れがエレベーターを揺らし、最下層への入り口を指し示す。白銀の境界線をまたぎ、不安定な足場から大理石の床に移動する。薄汚れた、腐った胡蝶蘭を押し潰したような色のカーペットは僕の冷ややかな苛立ちを受け止めて、そこからまた一歩、一歩と踏み出すと、意図せずとも甲高い音で靴が鳴った。
丁度のタイミングで、ポケットから割れるような通知音が流れる。差出人は三上沙耶であった。
『今日の献立は安かったので鯖です』
―――いやはや、本当に。
彼女には頭が上がらない。
「帰ろう」
雨足が弱まるのを虎視眈々と狙うのはやめにする。一刻も早く、彼女に会いたい気分である。胸元に抱えた手土産の紙袋からは、濡れた赤い果実の熟れた甘い香りが漂っていた。
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