第8話 切り札は最後に切るもの


 職場から退室し、すっかり日の沈んだ田舎道を歩く。山の端が段々と重なり合い、その輪郭をうっすら茜がなぞっている。艶めかしい風が生き生きとした木々を拭き上げ、樹木は散り散りになって舞い踊る。ねぐらの鳥は辛抱たまらぬ様子で、ぼんやり空に浮かんだ月を眺め、夜の闇に溶け込んで透明になって消えていく。人の気配は微塵も感じられず、意味もなくざわめく心をジイジイ鳴く蟲が逆撫でてている。




「ただいま」




「おかえりなさいッ」




シリンダーに鍵を突っ込み、扉を開ける。幾星霜繰り返してきた言葉を口にすると、阿吽の呼吸で返事が来た。お玉を片手にした彼女に鞄を手渡し、靴を並べる。リビングに上がると、数刻前の希望通り、食卓には肉じゃがと、広く浅い焦げ目のついた鯖の他、手作りの小皿がいくつか並べられていた。




スーツをハンガーに掛け、香ばしい匂いのする食卓につく。食前の感謝をどちらともなく告げ、大きく煮られたばれいしょに箸をつけた。




「味染みてるなぁ」




「帰ってから直ぐ仕込んだからね」




「美味しいよ、ありがとう」




「はいはい」




温かい食事を箸でつつき、軽い談笑を交わす。その後も食事はつつがなく進み、大皿小皿が空になる頃にはコップに浮かんでいた氷は溶け出して、自分の元の形すら忘れてしまっていた。












満足げな腹を抱え、シンクの洗い物を食器籠に移し終える。スポンジを軽く握ると、繊維の隙間から泡が飛び出し、仄かな檸檬の香りがした。




洗い物を終え、朝から洗濯し忘れて濡れたままのタオルで水気を拭き取る。少しばかりの休息を求め、配置されたクッションに身を任せようとリビングへ戻ると、既に本日の課題を終えたらしい彼女が憩いの場を占拠していた。




「ミカミちゃん?」




「………」




聞こえていない。投げ出した手足を見るに、クッションに五感を溶かされ、疾うに駄目になっていたらしい。仕方なく、骨組みの飛び出した硬い座椅子を引っ張ってきて腰を落ち着ける。持ち帰ってきた書類を今日中に仕上げなければならないのだ。




だから、それはほんの出来心だった。




スマートフォンをスワイプする少女、制服のまま間近でブルーライトを浴びる彼女の背中に、油断の二文字を見た。見てしまった。




四つん這いの姿勢を取り、足音を鳴らさないように工夫する。そのまま床をずって進み、クッションに映る人影に潜む。不意打ち気味に、キレの悪い冷水で冷え切った指先を、彼女の真っ白な親切の首元に当てつけた。




「ぐわー」




会心の一撃、そう形容するに相応しい見事な一手。しかし当の本人である彼女の反応は、予想に反してわざとらしかった。僕が望んでいたオーバーなリアクションは、現実では偽物の悲鳴を上げ僅かに肩を竦める位で、特に初々しいものを感じさせる要素はまるきり欠如していた。




「……」




「バレバレだよ、先生」




余裕ぶった表情を浮かべる彼女。僕の考える幼稚な悪戯などお見通しだとでも言いたげに、やれやれといった様子で金剛石の瞳が怪しく光っている。




「先生って、いつもワンパターンだよね。お腹を触られた時は、ちょっと油断したけど―――――」




こなれたリアクションが気に入らなかったので、そのまま制服のシャツの中に手を突っ込む。薄っぺらな背中に、芯まで冷え切った指先が侵入した。




「みぎャッ」




喉奥で羽虫でも磨り潰したような、濁音混じりの情けない鳴き声が狭い室内に反響した。


効果は覿面だったようで、病的な肌の白はみるみるうちに、羞恥と屈辱の赤に染まっていく。




「…………ッ」




反射的に、彼女の背中から瞬時に腕を抜き取って交錯させる。


瞬間、嵐と見紛う力が僕を襲った。くの字に折れ曲がる身体、碌に受け身も取れず、遮蔽物の一切無い背面の出口に一直線に激突する。気が付いた時には、僕は彼女が発揮した人外まがいの膂力で突き飛ばされていた。己の両腕を掻き抱いて、部屋の隅まで距離を取る彼女。眉が釣り上がり、翳りを見せる金剛石の瞳が此方を睨めつけていた。




玄関まで飛ばされ、出っ張るドアノブに後頭部を打ち付け悶絶する僕。油断していたとはいえ、十四才の少女に力負けし、ただでさえ低い家内でのカーストがさらに汚辱された事実に歯を食いしばって耐え、涙目で彼女の様子を確認する。




「………先生、何か申し開きは?」




加害者である僕と同じく潤んだ瞳、荒い呼吸と上気した頬。追撃を警戒し、瀕死の僕からも決して目線を外すことはない彼女。傍からみればレッサーパンダの抗議と同レベルに見えるだろうが、僕からすればヒクイドリがダイヤの鉤爪を持って瞬きひとつせず此方を見詰めている程の恐怖映像である。神の裁きに等しい一撃、二度目は受けられない。ふらつく身体を立て直し、両手を上げて降伏の構えをとる。




「出来心だ」




「素直でよろしいッ」




秘色のクッションがストレートで僕の顔面を捉えた。もとより抵抗する余力も無かったが、避ける間もない。クッションのビーズが内側で弾ける軽快さと重厚感に包まれ、その勢いのままフローリングに倒れ伏す。見事打ち据えられた僕の身体はピクリとも動かず、じんじんと鈍い痛みを残した鼻先ばかりがその悲痛さを訴えかけてくる。




つかつかと、玄関まで一切の躊躇なく進みゆく彼女。履いたままの白い靴下はぴっちりと足裏に張り付き、今にも抜けそうな床板をしっかりと踏みしめてこちらに近づいて来る。




「ぐぶェッ」




彼女は馬乗りになって、僕を押しつぶした。




彼女の小柄な尻が、大して鍛えていない僕の腹を打ち付け、圧迫する。重さなどは微塵も感じないが、それでもこみ上げる異物感と上空から感じる威圧感には耐え難いものがあった。




「わ、悪かった。反省してる」




「セクハラヒューマンの言葉に耳を貸すとでも?」




「おっしゃるとおりで」




しかし些か、いやかなり不味い状況である。彼女に手を出してからというもの、互いのスキンシップへの抵抗感が非常に薄まってしまっていたことを改めて自覚する。通報待ったなしの絵面で抗弁しようにも、両頬を片手でつままれ、サバンナのハイエナのように変形する僕の顔面。振りほどけ無い程では無いが、現在の彼女は自身の感情に比例してその威力を増していく鉛の弾丸のような存在。下手に機嫌を損ねれば撃ち抜かれてジ・エンドを迎えること間違い無しである。




彼女からの逆鱗に触れたあとの、かつての報復を追憶する。そして、自分が再びその立場に置かれていることを改めて認識し、思わず身震いする。数ある繰り返しの中、彼女の機嫌を損ねてしまった経験は数知れずであるが、それでも慣れないものである。




目をつぶり、彼女からの制裁の刻を待つ。魔が差した過去の自分を恨みながら、断末魔を上げる覚悟を腹に決める。




「…………」




しかし、何時まで経っても審判の時は訪れない。不審になって薄っすらと目を開く。




「………ミカミちゃん?」










ぐいん。




突如、彼女の細っこい腕が、僕の両頬を襲った。




「ミカミひゃん!?」




むにむに。


ぐにぐに。


びよんびよん。




ぐいんと、僕の薄っぺらい面の皮を無言で弄くる彼女。唐突の出来事であった。馬乗りの状態で手綱を握られたまま、果たして何が彼女を突き動かすのか分からないまま、しかして動く訳にもいかないのでするがままにされている。




「はのほ……」




「…………」




返事がない。生きている屍のようだ。むんずと掴んだ僕の頬、それをまるで玩具のように扱う彼女はただ無邪気に、己の好奇心を満たすため、欲望の奴隷となっていた。












それからどれだけの時間が経過しただろうか。酷く長い体感時間の中、細くしなやかな指でもみくちゃにされ続けていた。




ひりひりと赤ばんでいるであろう、感覚の消失した両頬に祈りを捧げる。すると、ようやく心の平静を取り戻したらしい彼女が、僕の上から飛び降り、念願叶って身体の自由を取り戻すことに成功した。彼女の中でどのような知的欲求が満たされたのかは知らないが、結果オーライである。




「ご、ごめん……」




しょげてやや俯き気味の彼女、その瞳にはハイライトが宿っており、こちらとしてもひと安心である。




「男の体に、みだらに触れるもんじゃないよ」




「はい……」




多少の犠牲を強いたものの、見事逆転勝利を収めた僕はそそくさとその場を離れ、一目散に冷蔵庫へと向かう。ここで切らねば何時切るのか、漏れ出す冷気の波を退けた僕の手元には、対彼女用の切り札が握られていた。




「はい、ハーゲン●ッツ」




冷凍食品の裏側に隠しておいたそれを、彼女に手渡す。即座、頭上にエクスクラメーションマークを浮かべ、表面のビニールを破く彼女。流石の切り替えである。食後にはアイスと相場が決まっているため、基本我が家には一般的にアイスクリームと呼称されているものが備蓄されている。




そして彼女の好物である、ちょっとお高いアイスクリーム。今回のような緊急事態に備え、一度痛い目を見たあとに関係修復の最終手段として功を奏した。一心不乱、執念で塵芥すら食らい尽くさんとする様はさながらハムスターである。




スプーン片手に上機嫌な彼女。自分で自分の尻を拭く大切さを身にしみて理解させられる。備えあれば憂いなしである。




「……先程さっきの、許したげる」




前言撤回、全然根に持っていた。しかし本当に結果オーライである。


形だけの感謝を述べ、学校から持ち帰ってきた書類の山を机の上に広げる。頬を綻ばせ、満足げに熱伝導で溶けかけた氷山の一角を齧る彼女。そんな光景に安堵しつつも溜息を吐き、やるせない思いでボールペンのキャップを外した。

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