第7話 抜き打ちテストと反逆者
学生の本分とは何か、即ち勉強である。勿論、全ての科目に意味や意義があるとは言わない。斯くいう僕だって、教員を志す以前、学生の頃は漢文にヘイトを送るのが日常茶飯事であった。何故なら、あれは日本語では無く、中国語という別ジャンルだったからである。内容はまだしも、レ点やらなんやら、未知の言語の解読を国語の領域に含めるのはいかがなものかと、何なら今でも思っている。
しかし、本当に大切なのは学習内容ではない。英国数理社その他諸々、全てに共通して知っておいて欲しいものがある。それは、学生誰しもが学校の授業やテストを通して、勉強の練習をしているという事実である。
テキストを開き、ペンを走らせてノートを取り、暗記をして試験に挑む。そして結果を手にし、充足感や挫折を個人差はあれど切々と味わう。勉強は子供の特権ではない。大人になってからも、理想と現実の乖離を少しでも縮めるために、人は日々学びを続けていく。ありのままであるがままだけの、成長を知らない自分に、一体どれだけの価値があるというのか。
学生時代、勉強をして損をする事は絶対に無い。酷なことを言うが、必要な資格や技術、果ては人間関係に至るまで、人生は勉強の連続である。 日々をそれなりに生きていれば、勉強の仕方が分からなくなる事は無い。また学生の頃のように、テキストを開き、ペンをノートに走らせ、理想の自分になるための知識を頭に叩き込んでいくだけでいい。方法さえ分かれば、あとは実行するだけなのだ。
だからこそ、その方法を血肉に染み込ませ、一生モノにするために、学生諸君は脳味噌に汗を掻きながら勉学に励む必要性が有るのである。少なくとも、僕はそう思っている。
「という訳で、今から小テストを行います」
「嫌です」
長たらしい御高説を経て、むくれた口調で彼女―――三上沙耶は僕の提案に真っ向から反論した。机の上へ無造作に置かれた現代文の教科書達、そのいずれもが積み重なり、ひとつのバリケードとなって、まるで彼女の意思を代弁しているかのようである。
「僕、先程さっきまで珍しく教師らしいこと言ってたと思うんだけど」
「先生はずっと立派な教師ですよ」
「そう?」
「そうです」
「へへへ」
そうではない。少しおだてられた位で何を調子に乗っているのか。金剛石の瞳をくすんだ一重の眼で見つめ返し、次の一手を打つために舌で唇を湿らせる。
「学力、確認したいんだけど」
「嫌です」
「……一応、理由を聞こうか」
「だって、ずるいと思います」
「狡い?」
薄っぺらな一枚きりのプリントを親指の腹で意味もなく擦る。僅かに皺の影がついた漢字のテスト用紙が、換気のために開けた窓から吹く春風にペラペラと軽薄に靡いている。果たして何が彼女の琴線に触れたのか知らないが、このテストを実行するというのは既に決定事項である。故にいくら批判の言葉と物理的な壁を積み重ねても、彼女の机の上にA4サイズのプリントが配られるのは避けようの無い運命なのだ。
机の上を片付けるように指示を出すと、渋々ながら引き出しに知識の結晶を詰め込んでいく彼女。ややはみ出した資料集を力技で押し込む。理解を示してくれたことに対する安堵の溜息をつくが、それは決して彼女自身の納得を得たものでは無かった。薄っすらとした顰めっ面を発揮し、断固として僕と戦う姿勢を崩すつもりは無いようだった。
「先生は先程、勉強の方法を身に付けるために学生は学ぶと仰っていましたと思います……」
「そうですね、相違ありません」
至極真っ当な意見だと思うのだが、彼女のお気に召さなかったであろうか。
「先生、二年時における私のテストの点数、覚えていらっしゃいますか」
「……全部、百点でしたね」
凄まじいことに、この三上沙耶という少女、非常に聡明な子である。授業態度良好、予習復習に試験の結果もオールパーフェクト。幾ら中学生向けのテストといえど、僕にも教師としてのプライドがあるため、作成に手を抜いたりはしていない。それ故、彼女の通知表を「素晴らしい」の文言が埋め尽くしていた時には、流石の僕も回らない寿司に彼女を連れて行ったものである。
「その満点という結果は、私が勉強の方法を理解しているという何よりの証明になりませんか?」
「……でも、それがこれからも続くとは限らないでしょう」
「私は今の話をしています、先生」
「僕は未来の話をしているんですが」
互いが互いの主張を一切許容せず、平行線となる話し合い。こうしている間にも時計の針はは刻一刻と進み、テストで自らの首を絞める結果に繋がっていることを、聡い彼女は理解しているはずである。それなのに何故、今になって抗うのか。
「………埒が明かないですね」
「もう後回しでいい?」
「回す後ろがいません」
揚げ足を取るとはお行儀がよくない。幸いな事に今回は適応されないが、典型的な鬼の首を取ったような言動を取る人間がいるのは事実である。僕としては、あまり褒められたものではないように感じる。復讐が復讐を生むように、しょうもない小競り合いが続くのは酷く無益で、虚しいものであるからだ。
「春休み前に事前予告はしてました」
「はい、知ってます」
「勉強、してたでしょう?」
「先生に見て貰ってました」
誓って答えを教えたりはしていない。不正、ダメ、ゼッタイ。
「……先生、私、ちゃんと勉強してますよ」
「知ってる」
真近でその様子を見届けてきたのだ、説得力が違う。
「………私、不安なんです」
「不安?」
「だって、先生に見てもらったのに、万が一にでも点数が悪かったら……」
襤褸の椅子の背もたれに体重をを預けるのを止め、俯きがちに言葉を紡ぐ彼女。普段よりも一段程低い調子で、ぼそぼそとした口調と珍しくしおらしい態度。彼女にしては珍しく、自信を失っているようだった。
まどろっこしい。
黒板に磁力で張り付いた自腹購入のタイマーのボタンに手をかける。
「タイマーセット」
「へ」
「制限時間三◯分ね」
「え、ちょ」
有無を言わせず突き出た人差し指。開始を告げる電子音、一瞬だけフリーズし、されど動き出す彼女の右腕と手元に握られたシャーペン。何時の間にか手元に配られていたテスト用紙に驚愕する様子を見せる。しかしそれも、刹那の間に打って変わって、黒鉛と樹脂が削れていく音だけが絶え間なく聞こえてくるようになる。テスト中の僕の感想は、所詮こんなものであった。
「じゃあテスト用紙回してくれるかい?」
黙って抱え込んだプリントを手渡す彼女。先程までとは打って変わって、抵抗する意思は見られない。あけすいた好色の感情が、震えの無い手元から感じられる。
「……調子の程は?」
「出来ました、多分」
「そっか」
頬を紅潮させ、照れを隠すように横髪をくるくると弄る彼女。屁理屈大魔神の面影は消え去り、何処からか純粋な気持ちを取り戻したらしい。しかし、未だ不安なのか、何処か表情に翳りをみせ、自身の結果に保険をかけているように見える。
「よくやってると思うよ」
「………!」
忌憚なき意見である。努力は全て報われるとは限らないが、頑張った過程を認め、褒めて伸ばすことが僕の教育方針だ。見開かれた金剛石の瞳に人工の光が灯り、はにかんだ表情が元に戻らなくなったらしい彼女を微笑ましい気持ちで見ていた。
「ミカミちゃん、テスト満点だったよ」
「そっか」
「なにはともあれ、お疲れ様」
自宅に持ち込んだ採点の仕事を終え、いの一番に彼女に報告する。安物の赤ペンをスタンドの中に放り込み、書類の山を鞄の中に詰め込んでいく。
台所でお湯を沸かす、当事者である彼女はまるで何でも無いことのように振る舞っている。しかし、隣から微かに聞こえてくる鼻歌が、その調子を露呈させていた。
「先生が教えてくれたお陰だね」
「勉強したのはミカミちゃんでしょ」
「それでも感謝してる」
「そう?」
「そう」
「へへへ」
感謝はしてもし足りないものだと、日頃から言い含めているが、もしかしなくとも僕の教育は成功しているのかもしれないな、と無体な事を考える。
「でも、抜き打ちとかはやめてよね」
「はいはい」
すっかり失念していた水筒を自分で洗いながら、彼女の話に耳を傾ける。直ぐ側で二人分のコーヒーを注ぐ彼女は、その日中ずっとご機嫌であった。
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