第2話 鈍感教師の戯言

 終わりと始まりは表裏一体である。スタートがあればゴールがあり、生があれば死も存在する。


永遠に続く物語も、それはそれで面白いのかもしれないが、こちらとしては断固願い下げである。終わりがあるからこそ物語は美しく、決して絶えない光を放ち続けるのだ。




「……それでは皆さん、各自解散で」




学年主任が手を叩く。それを皮切りにぞろぞろと、群れをなす軍隊蟻のように一糸乱れぬ行進で職員室を出ていく教師達。




四月九日、始業式の日である。










 僕が日常に違和感を感じたのは、彼女を初めて抱いてしまった翌日のことであった。




複雑な気持ちで彼女を学校へと見送ったあと、自身も支度のためにオーダーメイドのスーツをハンガーから外す。そこで、少しばかりの異和を覚えたのである。




「……こんな綺麗だったか」




くたびれていたはずのスーツが、新品同然になっていた。一年前に特注したオーダーメイドだが、クリー


ニングに出した程度で、全盛期の輝きをここまで取り戻せるものなのかといたく感心する。




「………?」




少しのわだかまりを抱え、それを上手く言語化できない自分に苛立ちを覚える。しかし、時は待ってくれない。開幕初日から遅刻など、生徒に対して示しがつかない行動は避けねばならなかった。ゆったりとした白いズボンから、やや着崩されはみ出した対のシャツ。スーツ、というより白衣に近しい上着を羽織る。




準備万端といった様子で玄関に向かい、鞄を手にノブを開ける。




知らない景色が、そこには広がっていた。




「―――――は」




いや、厳密には既に知り尽くしている景色が、僕の眼前を一面埋め尽くしていた。




愛しのマイルームである二◯三号室。ナンバープレートは錆びれ、くすんだ緑青のすみかになっている。腐食したシリンダー、その鍵穴の窪みに自宅の鍵を押し込み、ロックを掛けた。




剥き出しになったうら寂しい鉄骨、二階建てアパートの階段を下っていく。手元に握られた鍵には可愛らしい蜥蜴のキーホルダーと安っぽい鈴が取り付けられていて、一段下る事に甲高い勇気の音がした。




季節は春。陽気な気配が整い始め、心が浮き立つ燕の時期。




僕はそんな春の日に、酷い日常の歪みを見た。




買い替えたばかりのサンダルは以前の柄に。作り直した鍵はアパート備え付けだったものに。引っ越したはずの隣人のネームプレートが見覚えのある名字に。邪魔だからと言って切り倒された桜の木はすっかり元通りの姿に。




恐らく、それひとつだけでは見逃してしまっていたであろう小さな違和感。しかし、塵も積もればなんとやら。小さな異和が積み重なり、大きな疑念に変わっていくのは自明の理であった。


その疑念を確信に変えるため、僕は薄荷色の自転車を漕ぎ出した。










始業式を終え、教室の扉の前に立つ。やや重く、されど確かな足取りで違和感の正体に一歩踏み入れた。


教室のドアを開ける。点滅する照明に照らされた埃が舞い、ポッカリと穴の空いたがらんどうの窓にブラックホールの如く吸い込まれていく。綺麗に消された黒板、壁に掛かった時計の針は丁度一時を指し示していた。右脇に抱えた数枚のプリントと出席簿を教卓に叩きつけるようにして置き、ゆっくりと面を上げる。




「起立」




襤褸の椅子を引き摺る音。脚のカバーが床の窪みに突っかかって傾いている。




「気をつけ」




教室にたった一つしか無い机が、教卓と向かい合っている。




「礼」




「お願いします」




眩いほどの光を放つ金剛石の瞳が、僕だけを見つめていた。












 ――――受け入れていた。さもこれが自然の状態であるかのように、僕の知らない僕が、なんの疑問も持つことなく見ず知らずの少女と共に暮らしていた。




時間が戻っていた。具体的に言えば、卒業式の前日から、一年前の始業式の日に。




そうやって日常の違和に気が付くまでに、果たしてどれだけの繰り返しが行われてきたのか。今となっては分からないし、分かったところで現状が劇的に変化する訳でもない。 ただひとつ、明確なことは、この世界が同じ一年間を繰り返し続けているという事実。




そして、この繰り返しをたった今僕が自覚した事。いや、してしまった事。それが問題である。




始業式。


修学旅行。


運動会。


テスト。


文化祭。


合唱コンクール。


入試。


卒業式。




中学校最後の一年を、僕は幾度となく彼女と駆け抜けてきた。しかし、大まかな過程は違えど、最終的にはどの繰り返しでも同じ結末を迎えることは変わらなかった。まるでそれが不変の真理であるかのように、決して終わらない始まりばかりの一年を繰り返し続けていた。




繰り返しの中で、僕は一度たりともその違和感に気付くことはなかった。ただ、どんな状況であっても、彼女はいつも僕の側にいた。




僕と彼女のファーストコンタクトは、中学二年生の時である。新任である僕が担任のクラスで、転校生である新入生でもある彼女はいつも一人きりであった。


これは比喩でもなんでもない。実際、教室には彼女以外の生徒が存在していなかった。そしてそれを、僕を含め周囲の人間が違和感として認識していなかった――――否、出来なかった。 


異質な外見も性格も転校生という立場も関係ない。所属するグループも、ともに語り合う友人もいないのだから、孤立するのも当然であった。




他クラスの生徒に懸命に話しかけようとしていた彼女を何度か見たことがある。はじめこそ、未知に対する好奇心と純粋さに満ちた少年少女らは皆、転校生という物珍しさから彼女に好感を示し、言葉数少ないながらも会話を続けることができていた。雰囲気も険悪なものでは無かった。


されど、生徒の一人が突然、彼女に対する関心をなんの前触れも無く失った。すると、先程まで楽しそうに談笑していた生徒たちもその波が伝播するように、同様に、彼女に対する興味を急速に失っていった。それから、まるで彼女を無いものとして扱い始めたのである。


決して彼女の不手際では無かった。しかし、陰湿な嫌がらせでもなかった。


後日、そのグループの張本人から話を聞いた。少年の発言は曖昧で、彼女を除け者にした理由も思い出せないという。何一つ解決の手がかりにならないその返答に、僕は何故か納得してしまっていた。


時間が経てば経つほど、彼女の孤独は増して行った。




そんな現状を見ても、僕は違和感の一つすらも覚えなかった。ただ淡々と、機械的に、教師としての責務を全うしようと彼女に話しかけた。




カウンセリングを始めた日、無知な僕と翳りをみせる彼女との、面を向かってのファーストコンタクト。




『なにか、困っている事はあるかい?』 




心を測るアンケートのような問い掛けだった。本来ならば、全ての"いいえ"に丸をつけてやって突き返すだけの、なんの価値もない質問である。




しかし、彼女は答えた。答えてしまえるだけの材料を、抱え込んでしまっていた。




『ひとりぼっちは、寂しいです』




その返答に、僕は碌な反応を出来なかった。金剛石の瞳が、ハイライトを失っていた。


それから、一対一のレクリエーションやら面談やらを度々設けた。たとえ現状を認識していなくても、生徒が苦しんでいるのを見るのは忍びなかった。彼女を他のクラスに移動させるだとか、数人引き抜いてくるだとか、そういった当然であるはずの対応を上層部や同僚に提案した。




交渉はいつも成功を収めた。




しかしその度、直前まで寛容な態度を取っていたはずの人間は意見を百八十度転換し、難解な表情でNOを叩きつけた。僕はその返答を鵜呑みにし、疑問を抱くことも、講義することも無く、その結果を率直に彼女へ伝えた。




彼女はその話を聞く度、何時も申し訳無さそうな表情を浮かべ、教師である僕を気遣わせまいと明るく振る舞った。されど、夕日に照らされた彼女は、何処か沈んだ横顔をしていた。










そして中学二年生が終わった春休みのある日、半ば依存に近い形で彼女は僕の家に転がり込んできた。


三上沙耶の両親は、彼女が小さい頃、事故で亡くなっていた。世話を焼いてくれていた唯一の親族である叔父すら他界し、残された遺産でひとり慎ましく暮らしていた。まるでなにか大きな力が、彼女を孤独に引き摺り込もうとしているのかと錯覚するほどだった。




彼女は既に、孤独に耐えられなくなっていた。




それ故、僕の教師としての義務感からくる気遣いを、自身に向けられた好意だと勘違いしてしまうほどには、孤独の病が彼女を蝕んでしまっていた。




僕はそんな彼女に共感を示すふりをし続け、胃袋を人質に取られた挙げ句、出処の分からない厚意に甘え続けた。




そしてそのままズブズブと、不健全な関係性を継続し、中学生最後の一年間、どんな形であれ彼女を利用する結果に繋がってしまっていた。それが事の顛末である。










「ありがとうございました」




授業を終え、襤褸の椅子をを引きずる音。脚のカバーが床の窪みに突っ掛かって一番奥まで入らなかったらしく、拳骨二、三個分の隙間を残して放置されていた。




「先生、質問があります」




教卓までの過程を大股でスキップして、金剛石の瞳の少女が問い掛ける。


適当にかけた黒板消しをトレイに置く。クリーナーの布部分がソフトに圧迫され、押し出された虹色の粉がはらりとワックスの床に落ちていった。




「三上さん、なんでしょうか」




黒縁メガネのレンズ越し、見える彼女を視界に捉え直す。掌にこびりついたチョークの粉は、白い上着に溶けて消えた。




「今日の晩御飯、リクエストある?」




逡巡。




「パスタ」




「今日は気分じゃない」




「カレーうどん」




「一昨日作ったでしょ」




「じゃあ味噌ラーメン」




「麺から離れて」




日頃から頼りない財布を懐から取り出し、中身を広げる。覗き込む彼女。逆さになった財布から重力に従って出てきたのは偉人の顔でなく、まばらで大量のレシートと、片手で数えられる程度の枚数しかない小銭たち。震えながら甲高い音を響かせる百円玉から視線を外し、再度ちらりと、彼女の方に視線を向ける。ハイライトが消え、這い寄る混沌が瞳の奥から顔を覗かせていた。思わず息を呑む。歳の差など関係のない、生物としての格の違いを理解らせられようとしている。無言の圧に耐えながら、蛇に睨まれた蛙の心情でおもむろに身をかがめる。チベットスナギツネ並みに細められた眼光が、これから来るであろう致命傷必至な言葉の刃の切っ先が、つむじを的確に突き刺してくる。




「………先せ――」




「ちょっと待った……!」




そして、金を持たぬまま始まった地獄の閻魔の審判に静寂が走る。震える足で立ち上がり、内履きの靴底から取り出したりは一枚のヘソクリ。




「…これで、蕎麦でも。海老の天麩羅もつけませう」




暫し、再来する無言。ひくひく痙攣する瞼。飼い主にすがる犬のような気持ちで彼女を仰ぐ。




「………麺なのは変わらないんだ」




瞬時に空間を支配していた圧が消え、体に纏わりついていた重さがじんわり引いていく。どうやら許されたらしい。格好いいから、なんて理由で仕込んでいたかつての自分に絶え間ない称賛と、惜しむこと無い喝采を送りたい気分である。




「でも、駄目」




「ゔぇッ」




蛇に、食われるのではなく轢き殺された。




「先生の食事は私が作るから、これは預かっておく」




流れるような手付きで、先生である僕の指の間から五千円札を抜き取って行く彼女。




「そ、それは申し訳ないというか」




「朝晩毎食作ってるから今更だよ」




違う。そんなことは無いはずだ。外食した日の記憶が奇跡的に数回ある。




「どうでもいい……」




「ごめんなさい」




「よろしい」




コントか何かと勘違いされそうな位にはくだらない会話の末、低進低頭を体現した見事なまでの感謝の土下座を決め込む。しかし彼女はそれに目もくれず、僕が額を上げる頃には教室の扉に手をかけていた。掃除もホームルームも、全て来週からである。




「水筒、今日はちゃんと自分から出してよね」




それだけ言い残して、教室から出ていく彼女。靡く白髪を見届けて、反射的に振っていたらしい手を下ろす。




生徒のいなくなった部屋。窓際に立ち、埃の積もったブラインドの紐を引く。不定形の朧雲が、己が身を焦がす輝きに羽虫のように群がり、陽光は部屋に差し込むことすら叶わない。




――――最低な最後の一年を繰り返しているということを、僕は今日、ようやく確信した。




原因は未だに不明。そしてそれとは別に、教師も生徒も、その誰もがクラスに生徒が一人しかいないという状況を異常事態と認識していないという事実。両者原因は未だに不明。




されど、この繰り返す世界が異常な程に彼女に冷たいことは、嫌という程理解していた。まるでなにか大きな力が、彼女を孤独に引き摺り込もうとしているというのも、あながち間違いでは無いのかもしれない。




しかし、何より許せないのは、生徒が苦しんでいたにも関わらず、違和感のひとつにすら気付かなかった僕自身であった。




―――――優しい彼女を、なんとしても卒業させてやらなくてはならない。それは教師としての僕の勤めであり、ひとりの人間として、僕の心からの決意であった。










彼女が出ていったばかりの扉の前に立ち、スーツのポケットから鍵を取り出す。鍵穴に突き刺し、百八十度くるりと回してゆっくりと引き抜いた。廊下に配置された格子状の傘立て、裏側のマグネットでひっついた気温計には十二度の文字表記。碌に仕事をしない備え付けのロッカー、第二校舎を挟んで窓ガラス越しに見える桜の木が象徴的なグラウンドには、浅紅色の小さな蕾が刹那的に咲き誇った跡が確かに残っていた。




風の吹かない廊下に、僅かに軽くなった靴の音が鳴り響く。他の教室の生徒は既に帰宅を終えており、普段は何処からともなく現れる、喧しい部活生の掛け声すら聞こえてくることは無い。


階段を降りていく。三階の窓は戸締まりがされておらず、生温い春の風が吹く。ここらがささくれ苛立ち、しかしその激情を表に出すことは決して無い。




掌に、鍵山を突き刺す。鋭い痛みに反して、傷跡は直ぐに消えた。キーリングを人差し指に引っ掛けて、くるくると回してみる。愉快な気持ちにはなれなかった。




「先生」




既に帰路についていたはずの彼女が、目の前に立っていた。




「あのボロボロの椅子、ちゃんと新しいヤツに変えといてね」




それだけ言って、視界から外れる彼女。




「……ちゃんと、覚えとくよ」




その呟きが、彼女の耳に届くことは無い。




春の蝶は、朧の曇に食われて死んだ。


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